ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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弁天小僧(べんてんこぞう)、日本駄右衛門(にっぽんだえもん)、南郷力丸(なんごうりきまる)の三人(さんにん)が浜松屋(はままつや)の主人(しゅじん)幸兵衛(こうべえ)を囲(かこ)んでおり、床(ゆか)には「千両(せんりょう)」という大金(たいきん)が置(お)かれています。弁天小僧(べんてんこぞう)と南郷力丸(なんごうりきまる)が一(いち)度(ど)は浜松屋(はままつや)から引(ひ)き上(あ)げた後(のち)、日本駄右衛門(にっぽんだえもん)の手引(てび)きで再(ふたた)び浜松屋(はままつや)に押(お)し入(い)り、有(あ)り金(がね)全(すべ)てを奪(うば)い取(と)ろうとする「蔵前(くらまえ)」の場面(ばめん)を描(えが)いています。 女性物(じょせいもの)の艶(つや)やかな着物(きもの)を着崩(きくず)し、片手(かたて)に盃(さかずき)を持(も)ちながら腰掛(こしか)ける弁天小僧(べんてんこぞう)の姿(すがた)は、まさに粋(いき)な盗賊(とうぞく)といった様子(ようす)です。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より白浪(しらなみ)五(ご)人(にん)男(おとこ))
手前(てまえ)には、美男子(びだんし)であったと名高(なだか)い八代目(はちだいめ)市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)演(えん)じる松若丸(まつわかまる)(画中(がちゅう)では松若(まつわか))が描(えが)かれ、画題枠(がだいわく)には「戸塚藤沢宿間(とつかふじさわしゅくかん) 吉田橋(よしだばし)」と書(か)かれていますが、背景(はいけい)には吉田橋(よしだばし)は描(えが)かれておりません。戸塚(とつか)の吉田橋(よしだばし)は柏尾川(かしおがわ)に架(か)かる橋(はし)で、東海道(とうかいどう)と鎌倉(かまくら)へと向(む)かう道(みち)への分岐点(ぶんきてん)でもありました。吉田橋(よしだばし)に松若丸(まつわかまる)が描(えが)かれた理由(りゆう)は、松若丸(まつわかまる)が京(きょう)の公家(くげ)である「吉田家(よしだけ)」の子息(しそく)という設定(せってい)に拠(よ)るものです。松若丸(まつわかまる)は謡曲(ようきょく)『隅田川(すみだがわ)』をアレンジした「隅田川(すみだがわ)もの」歌舞伎(かぶき)において、悲劇(ひげき)の死(し)を遂(と)げる少年(しょうねん)「梅若丸(うめわかまる)」の双子(ふたご)の兄(あに)として登場(とうじょう)します。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 戸塚(とつか)藤沢(ふじさわ)間(かん) 吉田橋(よしだばし) 松若(まつわか)
番付(ばんづけ)とは興行(こうぎょう)の宣伝(せんでん)のために作成(さくせい)された印刷物(いんさつぶつ)です。その内(うち)「顔見世番付(かおみせばんづけ)」は毎年(まいとし)11月(がつ)に行(おこな)われる顔見世興行(かおみせこうぎょう)に際(さい)して作(つく)られ、市中(しちゅう)に貼(は)り出(だ)されました。顔見世興行(かおみせこうぎょう)とは興行主(こうぎょうぬし)と向(む)こう一(いち)年間(ねんかん)の所属契約(しょぞくけいやく)を結(むす)んだ役者(やくしゃ)・狂言(きょうげん)作者(さくしゃ)(歌舞伎(かぶき)の劇作家(げきさっか))・囃子方(はやしがた)(劇中(げきちゅう)の音楽(おんがく)を演奏(えんそう)する人(ひと))などの出演者(しゅつえんしゃ)が、一座(いちざ)のメンバーを披露(ひろう)する公演(こうえん)が行(おこな)われ、その紹介(しょうかい)のために作(つく)られました。 上段(じょうだん)には役者名(やくしゃめい)が書(か)き込(こ)まれており、役者(やくしゃ)の得意(とくい)とする役柄(やくがら)も記(しる)されています。下段(げだん)には鳥井派(とりいは)の絵師(えし)により役者達(やくしゃたち)の絵(え)が役柄(やくがら)に合(あ)わせて描(えが)かれます。
市村座(いちむらざ)顔見世(かおみせ)番附(ばんづけ)
制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい) 司馬江漢(しばこうかん)の作(さく)と伝(つた)えられています。 落款(らっかん)はKOOKANと読(よ)めます。 肉筆画(にくひつが)で、江(え)の島(しま)そのものを平面(へいめん)的(てき)に描(えが)いていますが、技法(ぎほう)として未熟(みじゅく)な部分(ぶぶん)が多(おお)いことが指摘(してき)されます。また使用(しよう)している絵(え)の具(ぐ)も新(あたら)しいものと考(かんが)えられる点(てん)があります。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)風景(ふうけい))
制作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)14年(ねん)~30年(ねん)頃(ごろ)(1891~1896)頃(ころ) 小林(こばやし)清親(きよちか)(1847-1915)の作画(さくが)期(き)は明治9年(めいじくねん)(1876)から没年(ぼつねん)までで、方円舎(ほうえんしゃ)、真生楼(しんせいろう)、真生(しんせい)などの画号(がごう)があります。 明治(めいじ)の広重(ひろしげ)と称(しょう)され、写真(しゃしん)、西洋(せいよう)画(が)、日本画(にほんが)の三(みっ)つを折衷(せっちゅう)融合(ゆうごう)した“光線画(こうせんが)”という独自(どくじ)の描法を開発(かいはつ)したことで知(し)られます。 清親(きよちか)は明治(めいじ)後半(こうはん)に入(はい)るとしだいに版画(はんが)から離(はな)れ、肉筆画(にくひつが)を好(この)んで描(えが)くようになり、浮世絵師(うきよえし)から日本画家(にほんがか)に転(てん)じてしまいますが、その頃(ころ)の作品(さくひん)の一(ひと)つと考(かんが)えられます。
制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい)。 板元(はんもと):不明(ふめい)。 菓子袋(かしぶくろ)で上部(じょうぶ)に「御(お)菓子(かし)」とあり、数(すう)種(しゅ)の貝(かい)を散(ち)らしたワクの内(うち)に「相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶌(しま)」とあり、江(え)の島(しま)参詣(さんけい)を終(お)えた一(いち)組(くみ)の男女(だんじょ)が、これから七里ガ浜(しちりがはま)方面(ほうめん)に行(い)こうとしている図様(ずよう)となっています。 このように菓子袋(かしぶくろ)として使用(しよう)されないで今日(きょう)まで残(のこ)ったのは、珍(めずら)しい例(れい)といえましょう
相州(そうしゅう)江(え)の嶌(しま)
制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい)。 板元(はんもと):不明(ふめい)。 「春風(しゅんぷう)に笑(わら)う梅(うめ)の香(こう)あわ雪(ゆき)もとけて流(なが)るる浅沢(あさざわ)の水(みず)」狂歌(きょうか)師(し)藍(あい)臼(うす)舎(しゃ)の狂歌(きょうか)そのままに、中天(ちゅうてん)に昇(のぼ)る日(ひ)の光(ひかり)に溶(と)けて流(なが)れ出(だ)し、そのまま蒸発(じょうはつ)してしまいそうな江(え)の島(しま)が描(えが)かれています。右端(みぎはし)の富士(ふじ)も白(しろ)い雪(ゆき)が半分(はんぶん)溶(と)けて、白(しろ)と黒(くろ)に染(そ)め分(わ)けたようになっています。 春風(しゅんぷう)の暖(あたた)かさが伝(つた)わるような作品(さくひん)です。新春(しんしゅん)の配(くば)り物(ぶつ)として国芳(くによし)が作画(さくが)したもので、板(いた)ぼかしの雪(ゆき)や空摺(からずり)を多用(たよう)した波(なみ)など、彫摺(ほりすり)技術(ぎじゅつ)も入念(にゅうねん)な作品(さくひん)となっています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま))
明治初頭(めいじしょとう)の神仏分離(しんぶつ)以後(いこう)、明治(めいじ)6年(ねん)(1673年(ねん))に大山(おおやま)へ迎(むか)えられた国学者(こくがくしゃ)の権田直助(ごんだなおすけ)は、各地(かくち)の大山講社(おおやまこうしゃ)を結集(けっしゅう)して「大山(おおやま)敬慎教会(けいしんきょうかい)」を組織(そしき)しました。本資料(ほんしりょう)は、それらの講社(こうしゃ)向(む)けに作成(さくせい)された「定宿(じょうやど)」帳(とばり)で、関東各地(かんとうかくち)の大山道(おおやまみち)やその周辺(しゅうへん)の道案内(みちあんない)、宿駅(しゅくえき)・里程(りてい)、講社(こうしゃ)指定(してい)の旅籠(はたご)が記載(きさい)されています。
大山(おおやま)報徳(ほうとく)集成(しゅうせい)敬(けい)愼(しん)講社(こうしゃ)定宿(じょうやど)