Fujisawa Net Museum

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資料名しりょうめい

石橋(いしばし)(やま)合戦(かっせん)

作者さくしゃ

勝川春亭(かつかわしゅんてい) 詳細

時代じだい

日本(にほん) 江戸(えど)

解説かいせつ

石橋山合戦(いしばしやまがっせん)は、平安時代末期(へいあんじだいまっき)治承(じしょう)4(ねん)(1180(ねん))に源頼朝(みなもとのよりとも)大庭景親(おおばかげちか)平氏方(へいしかた)との(あいだ)(おこな)われた(たたか)いです。伊豆(いず)挙兵(きょへい)して湯河原(ゆがわら)(あた)りまで進出(しんしゅつ)した頼朝(よりとも)を、大庭景親(おおばかげちか)がいずれも藤沢周辺地域(ふじさわしゅうへんちいき)領地(りょうち)としていた俣野景久(またのかげひさ)渋谷重国(しぶやしげくに)海老名 季員(えびな すえかず)ら3000余騎(よき)(ひき)いて迎撃(げいげき)()かった様子(ようす)(えが)かれています。『平家物語(へいけものがたり)』によると合戦(かっせん)先立(さきだ)って、北条時政(ほうじょうときまさ)大庭景親(おおばかげちか)対峙(たいじ)し、景親(かげちか)(みずか)らが後三年(ごさんねん)(えき)奮戦(ふんせん)した鎌倉景政(かまくらかげまさ)子孫(しそん)であると名乗(なの)り、これに時政(ときまさ)がかつて源義家(みなもとのよりいえ)(したが)った景正(かげまさ)子孫(しそん)ならば、なぜ頼朝公(よりともこう)(ゆみ)()く((いくさ)をしかける、反乱(はんらん)()こす)と言い返(いいかえ)し、これに(たい)して景親(かげちか)は「(むかし)(しゅ)でも(いま)(てき)である。平家(へいけ)御恩(ごおん)(やま)よりも(たか)く、(うみ)よりも(ふか)い」と(おう)じたといいます。

サイズさいず

分類ぶんるい

浮世絵(うきよえ)

資料番号しりょうばんごう


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