藤沢は、江戸時代に整備された東海道の宿場町「藤沢宿」として発展しました。現在も東京近郊に位置し、湘南を代表する観光地としても人気のある藤沢は、江戸時代にはどのように人々が集まる場所だったのでしょうか。絵図などの資料を使って学びながら、まちの歴史をたどってみましょう。
そもそも「東海道」ってなんだろう
東海道は古代から東西をつなぐ主要な道として存在していましたが、現代の私たちがよく知る「東海道」とは、江戸時代に整備された五街道のひとつをいいます。
慶長6年(1601)、徳川家康は江戸幕府が開かれるより前に、江戸と京を結ぶ街道の整備を行いました。これが、現在の東海道のはじまりといわれています。
はじめは、京の朝廷への連絡のため、または軍事的な整備が主な目的でした。その後、参勤交代での大名の往来や、江戸中期以降の旅ブームの影響もあり、次第に交通量は増え、庶民にも広く利用される道となっていきました。
「東海道五十三次図」
藤沢宿って、藤沢のどこにあったの?
お正月に行われる箱根駅伝の難所のひとつとして知られている「遊行寺坂」、ここに時宗総本山である藤沢山清浄光寺(通称、遊行寺)という大きなお寺があります。この遊行寺のあたりが藤沢宿の中心となっていました。
境川を挟んで、左岸(東側)に位置する大鋸町、右岸(西側)の大久保町、さらに西側の坂戸町の、3つの町から宿場が構成されていました。
「東海道分間延絵図(藤沢市教育委員会複製)」(一部抜粋)
藤沢宿のおおきさ
歌川広重
「東海道 四十四 五十三次之内 石薬師」
▲ 宿場の入り口に設置された見付を描いた作品です。
両脇に、石垣の土台の上に土盛りがされている構造物が見えます。
藤沢宿は、東海道の始点である江戸の日本橋から数えて6番目の宿場です。日本橋から藤沢宿までの距離は12里18町(約50㎞)でした。(※1里は約4㎞)
宿場の範囲をしめす目印として、それぞれの宿場の江戸側(東側)と京側(西側)の入口には「見付」が設置されていました。藤沢宿の範囲は、遊行寺坂にあった江戸方見付(東側)から、台町(坂戸町)にあった京方(上方見付)(西側)までの間で、その長さは12町17間(約1340m)ありました。
藤沢宿の人口は、江戸後期には4,089人、家数919軒、旅籠屋は45軒あったと記録されています。
宿場の役割
宿場のイメージというと、旅人が休憩するための宿や茶屋などが建ち並ぶ様子が思い浮かびますが、宿場の重要な役目として「荷物を次の宿場まで運ぶための人足(労働者)や伝馬(馬)を用意すること」があります。このような荷物や人の積み替えを「人馬継立」といいます。つまり、宿場とは、荷物をリレー方式で輸送するための拠点ともいえます。東海道では日本橋から京の間で53か所の拠点となる宿場が設定されたので、このことから東海道のことを「東海道五十三次」とも呼んでいます。
この制度がはじまった慶長6年(1601)当初は、それぞれの宿場で毎日36疋の伝馬を用意することが義務付けられました。それが寛永17年(1640)には伝馬100疋、人足50人の用意を負担することとなりました。東海道の交通量の増加と発展がわかる記録でもあります。
歌川広重
「東海道 四十五 五十三次之内 庄野」
▲ 問屋場での人馬継立を描いた作品です。
馬に荷物を積み直している様子や、役人が荷物の書類を確認している様子などが描かれています。
宿場の施設
問屋場
人馬継立を行う場所です。幕府の手紙や荷物を次の宿場まで送り届けるための中継地点です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町にそれぞれ1か所ずつありました。
御殿
将軍専用の宿泊施設です。徳川家康は所領となった関東の各地に拠点としての御殿を設置していきます。藤沢宿にあった御殿は、慶長元年(1596)頃に設置されたと推定されています。記録では、慶長5年(1600)6月25日に徳川家康が利用しているのをはじめ、家康・秀忠・家光の三代にわたり28回利用されました。しかし、家光以後、将軍の上洛(京に行くこと)が行われなくなると、御殿の利用もなくなり、藤沢御殿は天和2年(1682)には廃止されました。
本陣
大名や幕府の役人が宿泊する格式の高い宿です。その土地で歴史のある旧家などの家が選ばれました。藤沢宿では、はじめは堀内家が本陣を務めていましたが、延享2年(1745)の火災により類焼し、以降は蒔田家が代わって本陣をつとめました。
脇本陣
本陣の代わりに利用する宿として準備していました。大名の宿泊が重なってしまったときは、大名の身分によって本陣を明け渡して脇本陣に移動することもありました。
藤沢宿では、当初は大久保町と坂戸町にそれぞれ1軒ずつありましたが、のちは坂戸町の1軒のみとなりました。
旅籠屋
一般の武士や庶民が利用した宿です。現代の旅館と同じように、食事とお風呂がついて宿泊できました。
天保14年(1843)には、藤沢宿には大久保町を中心にして45軒の旅籠屋があったと記録されています。藤沢宿の旅籠屋の多くは、部屋数が3,4室程度の小規模な宿が多かったようです。
高札
江戸幕府が決めた掟などを木の板に書いたものが掲げられていました。新聞やインターネットなどもない時代に、多くの人に情報が伝わるように人通り多い場所に設置されました。
藤沢宿では、大鋸橋(遊行寺橋)の近くに、万治元年(1658)に設置されました。高さ2間(約3.6m)、横3間(約5.4m)、縦巾1間(約1.8m)の大きさで屋根付きのものだったそうです。
一里塚
江戸幕府は、街道沿いに日本橋から1里ごと(約4m)に塚を設置しました。これを一里塚といいます。一里塚は街道の両脇に設置され、塚の上には目印となるように松や榎などの木が植えられました。
追分
東海道から脇街道に分岐するところです。藤沢宿では、大鋸橋(遊行寺橋)の近くから江の島道へ分かれる追分と、四ツ谷から大山道へ分かれる追分が特に有名でした。
どんどんつながる?!藤沢宿を通るいろいろな道
藤沢宿は、東海道のほかにも主要な道が通っており、交通の要所となっていました。
大山道 | 大山(伊勢原市)への参詣の道として発展しました。大山を目指す道は各地からつながっていましたが、藤沢では北部を通る「柏尾通り大山道」と、四ツ谷から分岐する「田村通り大山道」がありました。 |
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江の島道 | 東海道から分岐して江の島へ向かう参詣の道です。分岐となる大鋸橋(遊行寺橋)のたもとには、江の島一の鳥居が建てられ、藤沢宿の名所として浮世絵にもよく描かれていました。 |
鎌倉道 | 鎌倉へつながる道で、藤沢宿にも大鋸から入る道など複数ありました。 |
八王子道 | 「桑都」と称され、養蚕や織物で発展してきた八王子まで続く道で、滝山街道とも呼ばれました。小田原北条氏の時代から主要な街道でありましたが、江戸時代以降は藤沢宿と農村部をつなぐ商品が流通する道としての役目がありました。 |
厚木道 | 厚木へ通じる道で、座間の星谷観音への参詣の道でもあったので、星の谷道とも呼ばれました。また、厚木街道ともよばれ、八王子道と同じく流通の道として利用されました。 |
明治以降の藤沢宿
「横浜写真 題名不詳(江の島と人力車)」
▲ 江の島を背景に砂浜に2台の人力車が映っています。
人力車で江の島に観光に訪れている様子をおさめた写真です。
時代が明治になり、鉄道が敷かれ、蒸気機関車が走る新しい交通の時代となっても、しばらくの間、大鋸橋(遊行寺橋)付近は江の島や鎌倉へ向かう人力車のステーションとして賑わっていました。人力車は明治になって広まった新しい乗り物で、駕籠より速く移動でき、馬に乗るよりも安かったため人気の交通手段となりました。
しかし、人力車の盛況も永くは続かず、明治22年(1889)に東海道線が全線開通、明治35年(1902)に藤沢 - 片瀬(現江ノ島)間に参詣電車としての江之島電気鉄道(のち江ノ島電鉄)が開通すると、その利用は次第に減っていき、人々の賑わいの中心も藤沢駅周辺に集まっていきました。
もっと藤沢宿について調べてみよう
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国土交通省関東地方整備局ホームページ
「東海道への誘い」
神奈川県内の東海道の宿場やその歴史について分かりやすく紹介しているサイトです。
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この博物館には5万点以上の資料が収蔵されています。また、展示品へ理解を深めやすくする子ども向けの体験講座も実施されています。
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