Fujisawa Net Museum

中世の藤沢について研究しよう!

藤沢市内ふじさわしないには、350箇所かしょを超こえる遺跡いせき1が存在そんざいします。そして、開発行為かいはつこういなどに伴ともない、毎年まいとし多おおくの発掘はっくつ調査ちょうさがおこなわれてきました。今回こんかいはその中なかでも、「中世ちゅうせい」という時代じだいに焦点しょうてんを当あててみます。発掘はっくつ調査ちょうさで見みえてくる、藤沢ふじさわの中世ちゅうせいはどんなものでしょう?

「中世ちゅうせい」ってどんな時代じだい?

「中世ちゅうせい」と聞きくと、中世ちゅうせいヨーロッパが思おもい浮うかぶ人ひとも多おおいかもしれません。日本にほんにおける「中世ちゅうせい」とは、およそ鎌倉かまくら幕府ばくふの成立せいりつから、江戸えど幕府ばくふの成立せいりつまでの時代じだい、つまり、鎌倉かまくら時代じだい、南北朝なんぼくちょう時代じだい、室町むろまち時代じだい、戦国せんごく時代じだい、安土桃山あづちももやま時代じだいのことを指さします。ざっくりいうと、武士ぶしが活躍かつやくした時代じだいと言いえます。発掘はっくつ調査ちょうさの現場げんばでは、宝永ほうえいの大噴火だいふんかで降ふった富士山ふじさんの火山灰かざんばいを目印めじるしにして、中世ちゅうせいと近世きんせい(≒江戸えど時代じだい)を分わけています。

藤沢市内ふじさわしないにはどんな中世ちゅうせいの遺跡いせきがあるの?

藤沢市内ふじさわしには、中世ちゅうせいに属ぞくするとされる遺跡いせきが79箇所かしょあります。なかでも中世ちゅうせいに特徴的とくちょうてきなのは、「城館じょうかん跡あと」と「やぐら」の2種類しゅるいの遺跡いせきです。
「城館じょうかん跡あと」は、文字通もじどおり、お城しろや砦とりで、館やかたの跡あとです。藤沢市内ふじさわしないには、藤沢市ふじさわし指定していの史跡しせきである「大庭城おおばじょう跡あと」や、そのほか村岡むらおか地区ちく周辺しゅうへんなどに点在てんざいしています。文献史料ぶんけんしりょうによれば、平安へいあん時代じだいの終おわりごろから、大庭おおば地区ちくは「大庭おおば御厨みくりや」という伊勢神宮いせじんぐうの所領しょりょうであったので、おそらくそれにともなう館やかたがあったはずですが、現在げんざいまでに発掘はっくつ調査ちょうさで見みつかっている城館じょうかん跡あとは、中世ちゅうせいの中頃なかごろ以降いこうのものに限かぎられています。

藤沢市内の中世の遺跡

藤沢市内ふじさわしないの中世ちゅうせいの遺跡いせき

やぐら

やぐらのようす

「やぐら」は、崖がけを四角形しかっけいに掘ほりぬいて造つくられた、横穴状よこあなじょうの遺構いこう2です。葬送そうそうに関連かんれんした遺物いぶつ3がよく見みつかるので、宗教しゅうきょう施設しせつであると考かんがえられています。藤沢市内ふじさわしないでは、川名かわな周辺しゅうへんの丘陵きゅうりょう地帯ちたいによく見みられ、年代ねんだい的てきには中世ちゅうせいの中頃なかごろ、およそ14世紀せいき末まつから15世紀せいきごろに使つかわれていたと考かんがえられます。写真しゃしんは川名かわな森久もりきゅう横穴群よこあなぐんという遺跡いせきで調査ちょうさされたやぐらです。中なかに転ころがっている石いしのようなものは、倒たおれたり崩くずれたりしている五輪塔ごりんとうの一部いちぶで、元もとから並ならべられていたもののほかになぜか投なげ込こまれたものもあるとみられています。この「やぐら」という遺構いこうは、神奈川かながわ県けんでは、主おもに鎌倉かまくらを中心ちゅうしんとした南東部なんとうぶに多おおくみられる遺構いこうなので、当時とうじの川名かわな周辺しゅうへんも、鎌倉かまくらの影響えいきょうを強つよく受うけていたのでしょう。4

中世ちゅうせいのお城しろについて調しらべてみよう(大庭城おおばじょう跡あと)

湘南しょうなんライフタウンの東端とうたんにある大庭城おおばじょう跡あとは、大庭城おおばじょうという中世ちゅうせい(主おもに戦国せんごく時代じだい)の山城やまじろの跡地あとちです。相模国さがみのくにの守護しゅご(県知事けんちじのようなもの)であった扇谷おうぎがやつ上杉うえすぎ氏しや、伊勢いせ宗瑞そうずい(北条ほうじょう早雲そううん)が有名ゆうめいな後北条ごほうじょう氏しが使用しようしたと考かんがえられています5。お城しろといっても、石垣いしがきや天守てんしゅのある「石いしの城しろ」ではなく、土つちを掘ほったり盛もったりして守まもりを固かためている「土つちの城しろ」なので、一見いっけんすると地味じみなただの山やまであるかのように見みえます。ですが、実じつはお城しろに石垣いしがきや天守てんしゅが築きずかれるようになったのは近世きんせいになってからなので、この状態じょうたいこそが、中世ちゅうせいのお城しろのあるべき姿すがたを非常ひじょうによく残のこしているということなのです。現在げんざいは藤沢市ふじさわし立りつ大庭城址おおばじょうし公園こうえんとして整備せいび・保存ほぞんされています。

大庭城おおばじょう跡あとでは、現在げんざいまでに25回かいの発掘はっくつ調査ちょうさが実施じっしされています。この遺跡いせきには中世ちゅうせい以外いがいにも様々さまざまな時代じだいの遺構いこうがあることがわかっていますが、大庭城おおばじょうの調査ちょうさを目的もくてきとして行おこなわれた発掘はっくつ調査ちょうさは10回かいで、4棟とうの掘立ほったて柱ばしら建物たてもの跡あと、25本ほんの堀ほりのほか、土塁どるい6や土橋どばし7、切岸きりぎし8などが確認かくにんされています。

空から見た大庭城跡

空そらから見みた大庭城おおばじょう跡あと(1990年ねん撮影さつえい)

掘立柱建物跡と現在の主郭後

掘立ほったて柱ばしら建物たてもの跡あと(左ひだり)と現在げんざいの主郭しゅかく跡あと(右みぎ)

掘立ほったて柱ばしら建物たてもの跡あとは、大庭城おおばじょうのある城山しろやま台地だいちの南端部なんたんぶでみつかっています。大庭城おおばじょうは、縄張なわばり9研究けんきゅうにより、4つの郭くるわ10により構成こうせいされていたと考かんがえられています。この場所ばしょは、そのうち後世こうせいでいうところの本丸ほんまるである、主郭しゅかくと考かんがえられている場所ばしょです。これらの建物たてもののうち3棟とうは、寄棟よせむね造づくりあるいは入いり母屋もや造づくりの屋根やねを持もつ、立派りっぱな造つくりの建物たてものであったと推定すいていされており、主郭しゅかくの中なかでも中心ちゅうしん的てきな建物たてものであったのではないかと考かんがえられています。また、この場所ばしょからは、15世紀せいき中頃なかごろから16世紀せいき初頭しょとうに燃もえたとみられる、もみ殻がらがついたまま炭化たんかしたお米こめがみつかっています。このことから、おそらく15世紀せいきごろに、これらの建物たてものは使つかわれていたと考かんがえられます。

発掘調査で見つかった大庭城の防御施設

発掘はっくつ調査ちょうさでみつかった大庭城おおばじょうの防御ぼうぎょ施設しせつ

現在の3号堀のようす

現在げんざいの3号ごう堀ぼりのようす

22号堀の調査のようす

22号ごう堀ぼりの調査ちょうさのようす

発掘はっくつ調査ちょうさで確認かくにんされた25本ほんの堀ほりは、ほとんどが横堀よこぼりと竪堀たてぼりに分類ぶんるいできます。横堀よこぼりは敵てきの侵入しんにゅうを阻はばむための堀ほりで、山肌やまはだに沿そうように掘ほられています。図中ずちゅうの赤色あかいろの堀ほりがこれにあたります。写真しゃしんのように、堀ほりの斜面しゃめんは実際じっさいの山肌やまはだよりさらに急きゅう傾斜けいしゃになり、さらに足場あしばの黄色きいろい土つちはローム層そうという非常ひじょうに滑すべりやすい土つちなので、よじ登のぼるのは至難しなんの業わざだったことでしょう。竪堀たてぼりは、敵てきが回まわり込こむ(横移動よこいどう)のを阻はばむための堀ほりで、横堀よこぼりと直交ちょっこうする方向ほうこうに掘ほられています。図中ずちゅうの緑色みどりいろの堀ほりがこれにあたります。一部いちぶは、斜面しゃめんからそのまま台地だいちの上うえの平場ひらばまで切きり込こみ、郭くるわを分わける役割やくわりも果はたしています。図中ずちゅうのオレンジ色いろの堀ほりは堀切ほりきりと思おもわれ、尾根やねを分断ぶんだんすることにより尾根やね伝づたいで攻せめてくる敵てきの侵入しんにゅうを阻はばみます。青色あおいろの8号ごう堀ぼりは、南側みなみがわの土塁どるいとセットで馬出うまだし11状じょうの遺構いこうであると考かんがえられています。この場合ばあい、6号ごう堀ぼりと7号ごう堀ぼりの間あいだにある2号ごう土橋どばしを守まもるためのものだと考かんがえられます。発掘はっくつ調査ちょうさで確認かくにんされた堀ほり以外いがいにも、等高線とうこうせんから複数ふくすうの堀ほりの存在そんざいが確認かくにんされており、大庭城おおばじょうは何重なんじゅうもの堀ほりに守まもられた、立派りっぱな城しろであったことがわかっています。
堀ほりや土塁どるいの一部いちぶは、現在げんざいも大庭城址おおばじょうし公園こうえん内ないで地表ちひょうからその形かたちを見みることができます。また、公園こうえんの管理棟かんりとうでは、より詳くわしい解説かいせつパネル展示てんじも行おこなわれていますので、ぜひお立たち寄よりください。

溝みぞに囲かこまれた、武士ぶしの館やかた?(長後ちょうご天神てんじん添北ぞえきた遺跡いせき・長後ちょうご天神てんじん添南ぞえみなみ遺跡いせき)

長後天神添北遺跡周辺でみつかった溝

長後ちょうご天神てんじん添北ぞえきた遺跡いせき周辺しゅうへんでみつかった溝みぞ

長後ちょうご駅えきから北きたに1㎞ほど離はなれた、長後ちょうご天満宮てんまんぐう付近ふきんに位置いちする長後ちょうご天神てんじん添北ぞえきた遺跡いせきと長後ちょうご天神てんじん添南ぞえみなみ遺跡いせきでは、複数本ふくすうほんの溝みぞ(溝状みぞじょう遺構いこう)が検出けんしゅつされています。図中ずちゅうの赤あかい線せんが、検出けんしゅつされた溝みぞの位置いちです。このあたりには、中世ちゅうせいのころ、武士ぶしの居館きょかんがあったとされており、これらの溝みぞはその館やかたに関係かんけいするものであると考かんがえられています。ただ、実際じっさいに館やかたの跡あとが見みつかっているわけではありません。それなのにどうしてこのような説せつが示しめされているかというと、溝みぞの形かたちと、溝みぞからみつかった遺物いぶつに理由りゆうがあります。
まず、形かたちから見みていきましょう。図中ずちゅうの①の溝みぞですが、断面だんめんがV字形じがたになっています。幅はばは約やく3ⅿ、深ふかさは約やく2ⅿなので、敵てきの侵入しんにゅうを阻はばむためのものかはわかりませんが、お城しろにも見みられるような特徴的とくちょうてきな形かたちのこの溝みぞは、武士ぶしの館やかたに関係かんけいするものではないかと考かんがえられています。
次つぎに遺物いぶつですが、図中ずちゅうの②の溝みぞからは、多量たりょうのかわらけ12がみつかっています。かわらけは、見みた目めは非常ひじょうに素朴そぼくな土器どきですが、一説いっせつには、宴うたげの席せきで大量たいりょうに消費しょうひされた、使つかい捨すての器うつわであると考かんがえられています。つまり、かわらけが数多かずおおく廃棄はいきされているこの溝みぞは、ある程度ていど高たかい階級かいきゅうの人々ひとびとの生活せいかつに関係かんけいのある遺構いこうである可能性かのうせいが高たかいのです。そのほかにも、輸入品ゆにゅうひんである白磁はくじの破片はへんなどが見みつかっている溝みぞもあります。

①溝の調査のようす

①の溝みぞの調査ちょうさのようす

②溝の調査のようす

②の溝みぞの調査ちょうさのようす

以上いじょうの理由りゆうから、これらの溝みぞは武士ぶしの居館きょかんに関係かんけいするものであると考かんがえられています。ただ、まだ部分的ぶぶんてきにしか発掘はっくつされていないので、この溝みぞがどのようにめぐるのか、また実際じっさいに館やかたがどこにあったのかはわかっていません。

現代げんだいにも残のこる?中世ちゅうせいの道みち(稲荷いなり台地だいち遺跡群いせきぐん)

善行ぜんぎょう駅えきから西にしに1㎞ほど行いったところにある稲荷いなり台地だいち遺跡群いせきぐんでは、中世ちゅうせいのものと思おもわれる道路状どうろじょう遺構いこうが見みつかっています。ここでいう道路状どうろじょう遺構いこうとは、土つちがカチカチに硬かたくなった「硬化面こうかめん」が、直線状ちょくせんじょうに続つづく遺構いこうのことです。なぜ硬かたいのかはハッキリとはしませんが、おそらく人ひとが何度なんども通とおったことにより、踏ふみ固かためられたのだと考かんがえられています。稲荷いなり台地だいち遺跡群いせきぐんは範囲はんいが広ひろく、また多おおくの時代じだいに亘わたって利用りようされてきた場所ばしょなので、40回かいもの発掘はっくつ調査ちょうさがおこなわれていますが、道路状どうろじょう遺構いこうはその中なかの10地点ちてんで確認かくにんされています。
一部いちぶは同一どういつのものであると考かんがえられていますが、少すくなくとも4本ほん以上いじょうの道みちになると思おもわれます。興味きょうみ深ぶかいのは、図中ずちゅうの赤色あかいろで塗ぬった道路状どうろじょう遺構いこうが、現在げんざいの道路どうろ(図中ずちゅうオレンジ色いろ)とほぼ同おなじ軸じくで走はしっているということです。もしかしたら、この道路どうろは中世ちゅうせいのころから利用りようされてきた道みちなのかもしれません。現代げんだいの道みちや町まちのかたちも、歴史れきしの積つみ重かさねであることがわかる遺構いこうといえます。

稲荷台地遺跡群でみつかった道路状遺構

稲荷いなり台地だいち遺跡群いせきぐんでみつかった道路状どうろじょう遺構いこう

遠路えんろはるばる、天目てんもく茶碗ぢゃわん(大庭おおば引地ひきち遺跡いせき)

天目茶碗

みつかった天目てんもく茶碗ぢゃわん

みつかったときのようす

みつかったときのようす

写真しゃしんは、国道こくどう1号線ごうせん・城南じょうなん交差点こうさてんの近ちかくにある大庭おおば引地ひきち遺跡いせきで見みつかった、天目てんもく茶碗ぢゃわんの破片はへんです。これは13世紀せいきの中頃なかごろ~末頃すえごろに、現在げんざいの中国ちゅうごく南部なんぶ・福建ふっけん省しょうのあたりにあった、(南平なんぺい)茶洋窯ちゃようようというところで作つくられたものだとわかっています。陶磁器とうじきは、作つくられた場所ばしょや時期じきによってその形かたちや模様もようなどが違ちがい、その違ちがいから詳細しょうさいな編年へんねん13が組くまれているので、このように作つくられた時代じだいを逆引ぎゃくびきすることができるのです。茶碗ちゃわんがひとりで海うみを渡わたることはできないので、誰だれかが持もち込こんだ、あるいは輸入ゆにゅうしたものが、巡めぐり巡めぐって藤沢ふじさわまでやってきたのでしょう。
この茶碗ちゃわんの破片はへんは、小ちいさい穴あなにひとつだけ埋うめられていました。一緒いっしょになにか時期じきのわかる遺物いぶつが埋うめられていればよかったのですが、この破片はへんだけでは、藤沢ふじさわまで、どれほどの時間じかんをかけて移動いどうし、どのような経緯けいいで埋うめられたのかはわかりません。ただ、この穴あなを埋うめていた土つちのようすから、おそらく、中世ちゅうせいの終おわりごろまでには、この場所ばしょに埋うめられたものと考かんがえられています。

もっと中世ちゅうせいについて調しらべてみよう

今回こんかい取とり上あげた5つの遺跡いせきの他ほかにも、市内しないでは多おおくの中世ちゅうせいの遺跡いせきが発掘はっくつされています。また、藤沢市ふじさわし周辺しゅうへんには、鎌倉かまくらのような中世ちゅうせいに非常ひじょうに繁栄はんえいした都市としもあり、多おおくの発掘はっくつ調査ちょうさがおこなわれています。実際じっさいに遺跡いせきに行いってみたり、博物館はくぶつかんで遺物いぶつを見みたりすると、中世ちゅうせいについてもっと詳くわしくなれるかも!

近ちかくの博物館はくぶつかん・学習館がくしゅうかんに行いってみよう

神奈川かながわ県内けんないにある博物館はくぶつかん

神奈川かながわ県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん

この博物館はくぶつかんには5万点まんてん以上いじょうの資料しりょうが収蔵しゅうぞうされています。また、展示品てんじひんへ理解りかいを深ふかめやすくする子こども向むけの体験たいけん講座こうざも実施じっしされています。

横浜市よこはまし歴史れきし博物館はくぶつかん

横浜よこはまに関かんする歴史れきしや文化財ぶんかざいなどのビデオを見みたり、マジックビジョンという人ひとや物ものが立体りったい的てきに見みえる装置そうちによって、当時とうじの人々ひとびとの暮くらしの様子ようすを見みることができます。

平塚市ひらつかし博物館はくぶつかん

「相模川さがみがわ流域りゅういきの自然しぜんと文化ぶんか」をテーマに活動かつどうしている地域ちいき博物館はくぶつかんです。

茅ヶ崎市(ちがさきし)博物館(はくぶつかん)

郷土きょうどの歴史れきしを伝つたえる資料しりょうを永久えいきゅうに保存ほぞんする資料館しりょうかんです。さまざまなワークショップや展覧会てんらんかい等などの教育きょういく・普及ふきゅう活動かつどうを展開てんかいしています。

鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流館こうりゅうかん

鎌倉かまくらで発掘はっくつされた出土品しゅつどひんをメインに、原始げんし・古代こだいから近現代きんげんだいに至いたる鎌倉かまくらの歴史れきしを紹介しょうかいしています。最新さいしんの発掘はっくつ調査ちょうさの成果せいかをふまえた企画展きかくてん、講座こうざやワークショップなどの各種かくしゅイベントも随時ずいじ開催かいさいしています。

  • 1遺跡いせき:遺構いこうや遺物いぶつを包括ほうかつする土地とち。
  • 2遺構いこう:建物たてものの跡あとなど、昔むかしの人ひとの活動かつどうの痕跡こんせき。
  • 3遺物いぶつ:土器どきなど、昔むかしの人ひとが使つかっていた道具どうぐ。
  • 4ちなみにこのあたりでは、古墳こふん時代じだいごろに使つかわれた「横穴墓よこあなぼ」と呼よばれる、よく似にた形態けいたいのお墓はかも多おおく見みられ、なかにはこの横穴墓よこあなぼを改造かいぞうして造つくられたやぐらもあります。
  • 5大庭城おおばじょうは大庭おおば景親かげちかの居城きょじょうであったという伝承でんしょうもありますが、そのような歴史れきし的てき記述きじゅつは見みつかっていません。
  • 6土塁どるい:土つちを人工じんこう的てきに盛もって造つくった防御ぼうぎょ施設しせつ。
  • 7土橋どばし:堀ほりを掘ほるときに、わざと掘ほり残のこして作つくった橋はし。
  • 8切岸きりぎし:斜面しゃめんをさらに切きり崩くずし、人工じんこう的てきに造つくった崖がけ。
  • 9縄張なわばり:郭くるわや堀ほりの配置はいちなど、城郭じょうかくの平面へいめん的てきな構造こうぞう。
  • 10郭くるわ:堀ほりや土塁どるいで区画くかくされた平場ひらば。必かならずしも居住きょじゅう空間くうかんであるとは限かぎらない。
  • 11馬出うまだし:城門じょうもんの前面ぜんめんなどに設置せっちされた防御ぼうぎょ施設しせつ。
  • 12かわらけ:素焼すやきの、皿形さらがたの土器どき。
  • 13編年へんねん:遺物いぶつ(人工物じんこうぶつ)の形かたちなどの変遷へんせんを、順じゅんを追おって示しめしたもの。これをもとに、遺物いぶつや遺構いこうの使つかわれた年代ねんだいを考かんがえることが多おおい。

参考さんこう文献ぶんけん

  • ・秋山重美2000『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群E・F・S地点 発掘調査報告書』稲荷台地遺跡群発掘調査団
  • ・伊藤甚吉2005『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群 池ノ辺遺跡 第7地点 発掘調査報告書』玉川文化財研究所
  • ・宇都洋平2010「藤沢市域における中世遺跡の展開についての一考察」『藤沢市文化財調査報告書』第45集 藤沢市教育委員会
  • ・宇都洋平2021『神奈川県藤沢市大庭城跡Ⅱ ―第24次・第25次発掘調査報告書―』藤沢市教育委員会
  • ・宇都洋平2018『神奈川県藤沢市 大庭城跡 ――1968年~1971年の城郭に関連する発掘調査の記録』藤沢市教育委員会
  • ・大坪宣雄ほか2021『神奈川県藤沢市 大庭引地遺跡第1次調査 発掘調査報告書』有限会社吾妻考古学研究所
  • ・小野正敏ほか編2007『歴史考古学大辞典』吉川弘文館文化庁文化財記念物課2013『発掘調査のてびき―各種遺跡調査編―』
  • ・香川達郎ほか2019『神奈川県藤沢市 大庭城跡 第23次調査 発掘調査報告書』玉川文化財研究所
  • ・小池 聡ほか2011『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群唐池遺跡第2地点』株式会社盤古堂
  • ・鯉渕義紀ほか2008『神奈川県・藤沢市 天神添北遺跡・渋谷城跡発掘調査報告書 ―長後字天神添1292番23―』有限会社鎌倉遺跡調査会
  • ・小山裕之ほか2010『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群 引地脇遺跡第2地点 発掘調査報告書』藤沢市教育委員会
  • ・齋藤 忠1983「中世考古学概論」『中世の考古学―遺跡発掘の新資料―』齋藤 忠編 名著出版
  • ・斎藤 忠1992『日本考古学用語辞典』学生社
  • ・千田利明2009『神奈川県藤沢市 天神添北遺跡・渋谷城跡第5・6次調査 ―藤沢市長後天神添における埋蔵文化財発掘調査報告書―』有限会社ブラフマン
  • ・坪田弘子2005『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群 発掘調査報告書 中郷遺跡第1地点・石名坂遺跡第4地点』玉川文化財研究所
  • ・坪田弘子2012「2.長後天神添遺跡 第2次調査」『神奈川県藤沢市 藤沢市内埋蔵文化財発掘調査概要集』藤沢市教育委員会
  • ・中村哲也ほか2013『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群 天神原遺跡 第5次調査 発掘調査報告書』玉川文化財研究所
  • ・三ツ橋勝2006「神奈川県・藤沢市 天神添北遺跡発掘調査報告書」『藤沢市文化財調査報告書』第41集 藤沢市教育委員会
  • ・湯山 学1979『藤沢の武士と城―扇谷上杉氏と大庭城―』藤沢文庫3 名著出版
  • ・横山太郎ほか2020『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群第40次調査 ―発掘調査報告書―』有限会社吾妻考古学研究所
  • ・吉岡秀範ほか2013『神奈川県藤沢市 天神添北遺跡第7次調査・渋谷城跡第8次調査 発掘調査報告書』株式会社アーク・フィールドワークシステム
  • ・渡辺清史ほか1996『藤沢市川名森久地区 埋蔵文化財発掘調査報告書』Ⅱ 川名森久地区遺跡発掘調査団
  • ・図に使用した地図は『地理院地図(URL:https://maps.gsi.go.jp)』のデータを基に作成
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