地面を掘ると昔の人が生活していた跡が見つかります。これを遺跡といいます。
藤沢市内では毎年のように発掘調査が行われており、その結果、360以上の遺跡が見つかっています。
遺跡で見つかるものの中で、人が使っていた土器や石器などの道具を遺物、建物の跡やお墓などを遺構といいます。これらの痕跡から、大昔の人々がどのような生活をしてきたのか見ていきましょう!
藤沢市にはどんな遺跡があるの?
藤沢市には旧石器時代にはじまり、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代、中世の遺跡があります。
遺跡はどうやって見つけるの?
遺構や遺物を中心に、昔の人々の暮らしや考え方を復元し、地域の歴史を明らかにする分野を考古学といいます。特に、文字によって書かれた史料のない時代や、史料が少ない時代、史料として残りにくい人々の生活や考え方などを探るうえでとても大切な分野です。
遺跡の多くは地面の下に埋まっています。遺跡がどこにあって、どんな性格なのかを調べるには次のような方法で探します。
- 本や記録を調べる
- 航空写真をみる
- 古地図を調べる
- 電波やボーリング(*1)で調べる
- 地層の露出した崖を調べる
- 地表面に落ちている遺跡を採集する
- 伝承などの昔から伝えられている話を聞く
- 偶然見つかる
しかし、その遺跡がどんな内容で、どんな性格を持っているのかをくわしく知るためには発掘調査をしなければなりません。
*1 ボーリング:ボーリング調査のことで基本となる地盤調査を表す
発掘調査って何?
建物を建てる人が、市役所へ相談に来ます。 |
遺跡が本当にあるのか、最初に小さく掘って調べます。 |
遺跡がみつかったら、本格的な発掘をおこないます。 |
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遺跡からみつかった土器を、キレイに水洗いします。 |
洗った土器に、どこからみつかったものか記録を書きます。 |
割れた土器をくっつけます。 |
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くっつけた土器の記録をとります。 |
掘った遺跡の記録を報告書という本にします。 |
報告書ができあがったところで、発掘調査のすべてが終わりとなります。 |
なぜ土器の年代がわかるの?
考古資料の中の土器は、まだ土器づくりを知らなかった旧石器時代の遺跡を除いて、縄文時代よりも新しい時代の多くの遺跡から出土する遺物です。この土器の形や文様などの特色の変化で時代がわかります。また、地域によって、様々な特徴があります。そして、土器や石器などの時代や年代を考えるとき、その遺物がどの土層から出土したものなのかも重要な手がかりとなります。
縄文土器(鉢)
弥生土器(壷)
土師器/はじき(甕/カメ)
遺跡から歴史を学ぼう
旧石器時代《約33000年~16000年前の17000年間》
日本の旧石器時代の始まりは、今から約4~5年万年前からと考えられていて、人類の時代の中でもっとも長い時代です。
この時代、人類はまだ石を割って作った石器(打製石器)や、動物の骨や木を使って作った道具しか持っていませんでした。このことから、石器を使って狩りをしたり、木の実を採ったりして生活をしていたと考えられます。
旧石器時代の遺跡を調査している風景です。旧石器時代の遺跡が今の地面より深いところにあることがこの写真からわかります。藤沢市では、今から約3万3千年前の旧石器時代の遺跡が見つかっています。
この石器は大庭にある根下遺跡で見つかった藤沢最古の打製石斧です。今から約33000年~25000年前に作られたものと思われます。
縄文時代《約16000年~2500年前の約13500年間》
縄文時代は、旧石器時代の次に長く続いた時代です。縄文土器の特徴は3つあります。
1.粘土を焼いて、土器を作るようになった
2.石を磨いて作る、磨製石器が誕生した
3.竪穴住居という家に住むようになった
この中で人々の生活に一番大きな変化を与えたのが土器の製作です。旧石器時代までは食料を「生」か「焼く」ことしかできませんでしたが、土器の誕生により、「煮る」ことができるようになりました。
また、縄文時代の遺跡で有名なのが、食べた貝の殻を捨てた貝塚です。藤沢市内でも、これまでに5ヶ所の貝塚が見つかっています。貝塚には貝殻以外にも色々なものが捨てられていることが多く、縄文時代の人の生活の様子を知ることができます。
粘土を焼いて作ったのは土器だけではありません。イヤリングや人形も粘土を焼いてつくりました。これは西富にある西富貝塚から見つかった土偶とよばれる人形です。
茅ヶ崎市とのさかいにある、遠藤貝塚からは、縄文時代の人骨が4体見つかっています。写真の人骨は大人の男性で、身長は153.4㎝ということが調査の結果わかりました。
発掘調査によって、江の島の頂上には、縄文時代の村があったことがわかりました。
弥生時代《約2500年~1800年前の約700年間》
弥生時代は、一般的にお米の作り方が伝わってきた時代といわれています。藤沢市では、約2500年前にお米の作り方が伝わったと考えられています。
弥生時代の他の特徴として環濠集落という村がつくられたことが挙げられます。
環濠集落とは、村の外側や内側に大きな堀を持つ村のことです。この堀は、争いの時に村を守ったり、村の中を仕切ったりするために掘られたと考えられています。こういった跡から、当時の人々の生活の工夫を知ることができます。
稲荷の石名坂遺跡が見つかった環濠の一部です。人の大きさと比べると、とても大きな堀だということがわかります。
稲荷の引地脇遺跡から見つかった竪穴住居からは大量の壺が見つかりました。このことから、ここは住居ではなく倉庫として使われていた可能性があると言えます。
引地脇遺跡で見つかった土器には、鹿や人、矢が描かれています。
古墳時代《約1800年~1300年前の約500年間》
古墳時代の「墳」の字は「お墓」という意味です。近畿地方でつくられ始めた古墳は、その後全国的に広がりました。学校の教科書に出てくる前方後円墳は、今のところ藤沢市では見つかっていませんが、丸い形をした「円墳」は藤沢市でつくられました。円墳は工事などで壊されてしまい、現在残っているものは1基だけとなっています。
また、古墳時代のお墓には崖の斜面に穴を掘ってつくった「横穴墓」というものがあります。藤沢市内にはこの横穴墓が川名の丘陵にたくさんつくられました。
石川の下ノ根遺跡で見つかった円墳です。真ん中の高いところは、いつの頃かに削られてしまい、お墓を囲む周りの溝だけが見つかりました。
川名にある森久遺跡群の写真です。崖の斜面が黒くなっている部分の1つひとつが横穴墓です。
川名にある横穴墓から見つかった刀の持つ部分の飾りの写真です。この刀はヤマト王権から川名周辺を治めていた有力者がもらったものであると考えられています。
奈良・平安時代《約1300年前~西暦1180年までの約400年間》
奈良時代になると、「国」と「郡」という単位で全国が朝廷によって管理されるようになり、これまで遺跡の少なかった南部の砂丘地帯にも人が住むようになりました。ところが、平安時代中頃の遺跡はほとんど見つかっていません。地面に生活の跡が見つからなくなったことから、平安時代の中頃以降、人々は竪穴住居や土器を使う生活をやめたと考えることができます。
藤沢市役所の周辺にある若尾山遺跡です。この遺跡から、古墳時代から奈良時代にかけての大きな村が見つかっています。
鵠沼下ノ沢遺跡の写真です。この遺跡によって、奈良・平安時代に多くの村が川沿いに誕生したことがわかりました。
石川の南鍛冶山遺跡から見つかった人面墨書土器の写真です。この土器は人の顔が描かれている点が特徴です。
中世《西暦1180年~1590年までの約400年間》
中世とは、鎌倉時代から戦国時代までのことを指します。鎌倉幕府の滅亡以降、日本全国で争いの日々が続きました。鎌倉時代の中頃に、やぐらとよばれるお墓が登場します。藤沢市内でもやぐらは、丘陵の多い川名や村岡につくられていたことがわかっています。
室町時代になると、相模国を治めていた扇谷上杉氏の中心的なお城とされている大庭城が大庭につくられました。大庭城は現在、公園になっています。
御霊神社周辺で発見されたやぐらから出てきた鎌倉時代の焼き物の写真です。
大庭城の一番南側からは、城主が使っていたと考えられる建物跡の柱穴が見つかっています。
もっと調べてみよう!
文化財めぐりをしよう
藤沢市のホームページでは、文化財をめぐるハイキングコースがたくさん紹介されています。家族やお友達と出かけてみよう!
近くの博物館・学習館に行ってみよう
神奈川県内にある博物館
神奈川県立歴史博物館
この博物館には5万点以上の資料が収蔵されています。また、展示品へ理解を深めやすくする子ども向けの体験講座も実施されています。
横浜市歴史博物館
横浜に関する歴史や文化財などのビデオを見たり、マジックビジョンという人や物が立体的に見える装置によって、当時の人々の暮らしの様子を見ることができます。
平塚市博物館
「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です。
茅ヶ崎市博物館
郷土の歴史を伝える資料を永久に保存する資料館です。さまざまなワークショップや展覧会等の教育・普及活動を展開しています。
鎌倉歴史文化交流館
鎌倉で発掘された出土品をメインに、原始・古代から近現代に至る鎌倉の歴史を紹介しています。最新の発掘調査の成果をふまえた企画展、講座やワークショップなどの各種イベントも随時開催しています。