Fujisawa Net Museum

資料詳細

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資料名しりょうめい

()(がみ)(ろい)(こく)(しょ)土師器(はじき)

作者さくしゃ

時代じだい

日本(にほん) 奈良(なら)

解説かいせつ

平成(へいせい)26(ねん)(2014)10月1日(がつついたち)指定(してい)昭和(しょうわ)44(ねん)(1969)5(がつ)鵠沼字藤原(くげぬまあざふじわら)3858((げん)鵠沼海岸(くげぬまかいがん)6丁目(ちょうめ)5(ばん)付近(ふきん))で砂取工事(すなとりこうじ)がおこなわれた(さい)地表(ちひょう)()3~4mの(ふか)さから出土(しゅつど)しました。工事(こうじ)()()っていた業者代表者(ぎょうしゃだいひょうしゃ)息女(そくじょ)担任(たんにん)寺田兼方(てらだかねみち)()(湘南学園教諭(しょうなんがくえんきょうゆ)当時(とうじ)藤沢市文化財保護委員(ふじさわしぶんかざいほごいいん))であったことから寺田(てらだ)()寄贈(きぞう)され、(のち)寺田(てらだ)()から藤沢市(ふじさわし)寄贈(きぞう)されました。口径(こうけい)12.5cm、底径(ていけい)8.0cm、器高(きこう)3.3cmを(はか)完形品(かんけいひん)相模型(さがみがた)土師器(はじき)(つき)です。年代(ねんだい)は8世紀後半(せいきこうはん)(かんが)えられます。「土甘(とがみ)」の名称(めいしょう)天平(てんぴょう)7(ねん)(735)の『相模國天平七年封戸租交易帳(さがみのくにてんぴょうしちねんふごそこうえきちょう)』の(なか)に「土甘郷(どかみごう)」と()えるのが初見(しょけん)です。「土甘郷(とがみごう)」は片瀬川(かたせがわ)引地川(ひきじがわ)(はさ)まれた鵠沼地区(くげぬまちく)中心(ちゅうしん)とした一帯(いったい)であると推測(すいそく)されています。ただし「土甘郷(とがみごう)」の名称(めいしょう)承平年間(じょうへいねんかん)(931~938)に編纂(へんさん)された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に記載(きさい)されるのが最後(さいご)であり、平安後期(へいあんこうき)になると当該地(とうがいち)は「鵠沼郷(くげぬまごう)」という名称(めいしょう)(あらわ)れ、「土甘(とかみ)名称(めいしょう)中世(ちゅうせい)では「砥上ヶ原(とがみがはら)(砥上原)」という地名(ちめい)のみに(のこ)ることになります。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)藤沢市(ふじさわし)

サイズさいず

口径(こうけい)12.5cm
底径(ていけい)8.0cm
器高(きこう)3.3cm

分類ぶんるい

文化財(ぶんかざい) () ()指定(してい)重要文化財(じゅうようぶんかざい)考古資料(こうこしりょう)

資料番号しりょうばんごう

90046

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