Fujisawa Net Museum

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資料名しりょうめい

(きゅう)(いな)元屋(もとや)呉服店(ごふくてん)  内蔵(うちぐら)

作者さくしゃ

時代じだい

日本(にほん) 昭和(しょうわ)

解説かいせつ

平成(へいせい)27(ねん)(2015)8月4日(がつよっか)登録(とうろく)旧稲元屋呉服店(きゅういなもとやごふくてん)は、戦前(せんぜん)藤沢(ふじさわ)代表(だいひょう)する呉服商(ごふくしょう)です。初代(しょだい)は、藤沢(ふじさわ)豪商(ごうしょう)豊元屋(とよもとや)」の七子(しちし)で、厚木(あつぎ)雑貨商(ざっかしょう)内田商店(うちだしょうてん)」に奉公(ほうこう)した(のち)弘化(こうか)2(ねん)(1845)に生家(せいか)家業(かぎょう)である雑貨薪炭商(ざっかしんたんしょう)稲穂屋(いなほや)」を()いで現在地(げんざいち)創業(そうぎょう)しました。「稲元屋(いなもとや)」の屋号(やごう)は、「稲穂屋(いなほや)」と生家(せいか)豊元屋(とよもとや)」から1()ずつ()って名付(なづ)けたものです。創業後(そうぎょうご)()もなく呉服商(ごふくしょう)転業(てんぎょう)、さらに婚礼需要(こんれいじゅよう)見込(みこ)んで箪笥部(たんすぶ)(くわ)事業(じぎょう)拡大(かくだい)しました。旧稲元屋(きゅういなもとや)は、明治(めいじ)24(ねん)(1891)10(がつ)関東地方陸軍大演習(かんとうちほうりくぐんだいえんしゅう)(さい)明治天皇(めいじてんのう)行在所(あんざいしょ)(つと)めました。さらに、昭和初期(しょうわしょき)までに皇族(こうぞく)らの宿泊所(しゅくはくじょ)として10()(もち)いられるなど、藤沢(ふじさわ)でも有数(ゆうすう)名家(めいか)でした。昭和(しょうわ)15(ねん)(1940)に建立(こんりゅう)された行在所(あんざいしょ)記念碑(きねんひ)も、敷地(しきち)南側(みなみがわ)現存(げんそん)しています。かつては一番庫(いちばんこ)から八番庫(はちばんこ)まで(くら)がありましたが、昭和(しょうわ)52(ねん)(1977)の火災(かさい)老朽化(ろうきゅうか)した(くら)解体(かいたい)内蔵(うちぐら)一番蔵(いちばんぐら)2棟(ふたむね)のみが現存(げんそん)します。
内蔵(うちぐら)は、桁行(けたゆ)三間半(さんげんはん)×梁間(はりま)二間(にけん)平側(ひらがわ)入口(いりぐち)(もう)けます。切妻造銅板葺(きりづまづくりどうばんぶき)で、の平側(ひらがわ)下屋(げや)(もう)け、板敷(いたじ)きでガラス()()てて室内化(しつないか)しています(蔵前(くらまえ))。かつては、板敷(いたじ)きの廊下(ろうか)店舗(てんぽ)住居(じゅうきょ)へと接続(せつぞく)していました。1(かい)床高(ゆかだか)は72㎝と(たか)く、「内蔵(うちぐら)」との呼称(こしょう)のとおり家財(かざい)文書(ぶんしょ)(おさ)める家財蔵(かざいぐら)として(もち)いられました。(かべ)は、擬石風(ぎせきふう)(あら)()仕上(しあ)げで、軒裏(のきうら)(ぬり)()げのみ白漆喰(しろしっくい)仕上(しあ)げています。入口(いりぐち)蛇腹(じゃばら)四段(よんだん)重厚(じゅうこう)(つく)りで、見込(みこ)部分(ぶぶん)扉面(とびらめん)のみ黒漆喰塗(くろしっくい<ぬり/rt>)仕上(しあ)げています。2(かい)北側(きたがわ)には、蛇腹三段(じゃばらさんだん)(まど)(もう)け、(とびら)窓枠(まどわく)庇軒裏(ひさしのきうら)などすべて黒漆喰(くろしっくい)仕上(しあ)げです。屋根(やね)(ひさし)ともに銅板葺(どうばんぶ)きで棟装飾(むねそうしょく)など丁寧(ていねい)造作(ぞうさく)です。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)、2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)銅板葺(どうばんぶき)蔵前(くらまえ)()す。建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)10(ねん)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

サイズさいず

分類ぶんるい

文化財(ぶんかざい) (くに) (くに)登録有形文化財(とうろくゆうけいぶんかざい)

資料番号しりょうばんごう

90109

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