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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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江(え)の島(しま)に詣(もう)でる人気役者達(にんきやくしゃたち)が描(えが)かれます。ファンにとっては役者達(やくしゃたち)のオフの姿(すがた)が見(み)られる作品(さくひん)であったと言(い)えるでしょう。本作(ほんさく)は1857年(ねん)の江(え)の島(しま)弁才天(べんざいてん開帳(かいちょうに向(む)けて制作(せいさく)された作品(さくひん)であると考(かんが)えられます。また落款(らっかん)の文字(もじ)から、作者(さくしゃ)の国貞(くにさだ)(三代(さんだい)豊国(とよくに))による想像(そうぞう)で描(えが)かれた役者達(やくしゃたち)の江(え)の島(しま)詣(もうで)であると思(おも)われます。
江(え)之(の)嶋(しま)乃(の)景(けい)
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):辻岡屋文助(つじおかやぶんすけ) 菅笠(すげがさ)を被(かぶ)った旅装束(たびしょうぞく)の女性(じょせい)が、若(わか)い娘(むすめ)が引(ひ)く牛(うし)に乗(の)り、七里ヶ浜(しちりがはま)の浜辺(はまべ)を悠々(ゆうゆう)と行(い)く様子(ようす)が描(えが)かれています。 海(うみ)はやや波立(なみだ)ち、海上(かいじょう)には船(ふね)の白(しろ)い帆(ほ)が漂(ただよ)っています。 波打(なみう)ち際(ぎわ)を見(み)ると、若干(じゃっかん)の雲母(きら)が施(ほどこ)される等(とう)、摺(す)りの工夫(くふう)が見(み)られます 。 本作(ほんさく)は、文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代将軍(じゅうよんだいしょうぐん)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)に際(さい)して出版(しゅっぱん)された、通称(つうしょう)「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と呼(よ)ばれるシリーズ作品(さくひん)です。そのため、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれており、この作品(さくひん)でも右上(みぎうえ)に行列(ぎょうれつ)がやってくる様子(ようす)が見(み)えます。ただし、実際(じっさい)に将軍(しょうぐん)が七里ヶ浜(しちりがはま)に来(き)たわけではなく、あくまでも想定(そうてい)で描(えが)かれた作品(さくひん)と考(かんが)えられます。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代将軍(じゅうよんだいしょうぐん)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。 東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(もの)となっています。 描(えが)いている絵師(えし)も三代(さんだい)歌川豊国(うたがわとよくに)、二代(にだい)広重(ひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)を越(こ)える当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。 この画(え)は名所(めいしょ)の一(ひと)つ「七里ヶ浜(しちりがはま)」に行列(ぎょうれつ)が来(き)たという想定(そうてい)で描(えが)かれたものです。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)之(の)内(うち) 鎌倉(かまくら)七里(しちり)が浜(はま)の風景(ふうけい)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ) 照天(てるて)姫(ひめ) 東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 平塚(ひらつか) 小栗(おぐり)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「日本橋(にほんばし) 朝之景(あさのかげ)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 広重(ひろしげ)の作品(さくひん)では橋(はし)の上(うえ)に大名行列(だいみょうぎょうれつ)の出立風景(しゅったつふうけい)が描(えが)かれますが、本作(ほんさく)では橋(はし)の上(うえ)は荷(に)を満載(まんさい)した大八車(だいはちぐるま)、橋(はし)の手前(てまえ)は天秤棒(てんびんぼう)を担(かつ)いだ棒手振(ぼてふ)りが描(えが)かれるなど、庶民(しょみん)の通交風景(つうこうふうけい)となっています。 また画面(がめん)左上(ひだりうえ)には富士山(ふじさん)が書(か)き加(くわ)えられ、正月(しょうがつ)の風情(ふぜい)でしょうか、並(なら)ぶように凧(たこ)が揚(あ)がっています。手前(てまえ)の女性(じょせい)の振(ふ)り袖(そで)の柄(がら)も大輪(たいりん)の梅(うめ)で、正月(しょうがつ)にふさわしいものとなっています。板元(はんもと)は森屋治兵衛(もりやじへえ)。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 日本橋(にほんばし)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 川崎(かわさき)之(の)図(ず)
本作品(ほんさくひん)の背景(はいけい)には、広重(ひろしげ)による保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)東海道(とうかいどう)の二川(ふたがわ)の絵柄(えがら)がほぼそのまま用(もち)いられており、左(ひだり)には「名物(めいぶつ) かしは餅(もち)」の看板(かんばん)も見(み)られます。手前(てまえ)の人物(じんぶつ)は四代目(よだいめ)市(いち)川小(かわこ)団次(だんじ)演(えん)じる石川(いしかわ)友市(ともいち)で、実(じつ)は大泥棒(おおどろぼう)の石川五右衛門(いしかわごえもん)と同一(どういつ)人物(じんぶつ)です。石川(いしかわ)友市(ともいち)の衣装(いしょう)には正面(しょうめん)摺(ずり)(絵具(えのぐ)を使用(しよう)しないで、圧力(あつりょく)で紙(かみ)の面(めん)をつぶして艶(つや)を出(だ)す技法(ぎほう))が施(ほどこ)されており、一見(いっけん)真(ま)っ黒(くろ)に見(み)える部分(ぶぶん)にも、角度(かくど)によっては模様(もよう)が浮(う)かび上(あ)がるようになっています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 二川(ふたがわ) 石川(いしかわ)友市(ともいち)(四代目(よだいめ)市(いち)川小(かわこ)団次(だんじ))
『本朝(ほんちょう)廿四(にじゅうし) 孝(こう)』に登場(とうじょう)する山本勘助(やまもとかんすけ)(No.18)の老母(ろうぼ)で、演(えん)じる役者(やくしゃ)は六代目(ろくだいめ)市川(いちかわ)団蔵(だんぞう)です。本作(ほんさく)は「御油(ごゆ) 其(その)二」と外題(げだい)にもあるようにグループ1の「御油(ごゆ)」(No.18)と連動(れんどう)するように描(えが)かれています。 三段目(さんだんめ)で老母(ろうぼ)の長男(ちょうなん)横蔵(よこぞう)を嫡子(ちゃくし)景勝(かげかつ)の身代(みが)わりにするために長尾(ながお)方(かた)が家来(けらい)として取(と)り立(た)てにきます。老母(ろうぼ)は死装束(しにしょうぞく)を突(つ)きつけ横蔵(よこぞう)に家来(けらい)になるように言(い)いますが、横蔵(よこぞう)はすでに武田家(たけだけ)に支(ささ)えているため身代(みが)わりになれないと明(あ)かします。三段目(さんだんめ)の最後(さいご)に横蔵(よこぞう)は亡父(ぼうふ)の名(な)山本勘助(やまもとかんすけ)を継(つ)ぎます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 御油(ごゆ) 其(その) 二山本勘助(にやまもとかんすけ)母(はは)
小冬(こふゆ)は石川五右衛門(いしかわごえもん)を題材(だいざい)とした『木(この)下蔭(したかげ)狭間(はざま)合戦(がっせん)』に登場(とうじょう)する人物(じんぶつ)です。「壬生(みぶ)村(むら)」の段(だん)で家(いえ)の困窮(こんきゅう)により、身売(みう)りされそうになったところを義兄(ぎけい)の石川五右衛門(いしかわごえもん)(No.68)に助(たす)けられます。しかし、五右衛門(ごえもん)が盗賊(とうぞく)であると知(し)った父(ちち)治右衛門(じうえもん)が自害(じがい)しようとするのを止(と)める最中(さいちゅう)に過(よぎ)って刀(かたな)が刺(さ)さり、死(し)んでしまいます。 演(えん)じる役者(やくしゃ)は人気(にんき)の若(わか)女方(おんながた)であった三代(さんだい)目(め)市川門之助(いちかわもんのすけ)です。本図(ほんず)刊行(かんこう)時(じ)にはすでに故人(こじん)でした。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 二川(ふたがわ) 小冬(こふゆ)