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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)5年(ねん)(1858)頃(ころ)。 板元(はんもと):蔦吉(つたきち) 広重(ひろしげ)の最(さい)晩年(ばんねん)に制作(せいさく)されたシリーズの一(ひと)つです。画題(がだい)にあるように江(え)の島(しま)の参道(さんどう)の入口(いりぐち)にある大(おお)鳥居(とりい)を見通(みとお)した富士(ふじ)と、それに連(つら)なる箱根(はこね)の山々(やまやま)を描(えが)いており、手前(てまえ)の大鳥居(おおとりい)が画面(がめん)の奥行(おくゆ)きを出(だ)す効果(こうか)を利用(りよう)した作品(さくひん)で、それは構成(こうせい)上(じょう)成功(せいこう)していますが実際(じっさい)の風景(ふうけい)ではこのようにはいきません。
冨士(ふじ)三(さん)十(じゅう)六(ろっ)景(けい) 相模(さがみ)江之島(えのしま)入口(いりぐち)
張交図(はりまぜず)とは、1枚(いちまい)の中(なか)に複数(ふくすう)箇所(かしょ)の名所(めいしょ)(風景(ふうけい)、名産(めいさん)、物語(ものがたり)等(とう))を並(なら)べたもので、広重(ひろしげ)は東海道(とうかいどう)をはじめ、各地(かくち)の張交作品(はりまぜさくひん)を手(て)がけています。 1枚目(いちまいめ)は、(上段(じょうだん)から)日本橋(にほんばし)(夏(なつ)の名物(めいぶつ)、麦湯(むぎゆ)の屋台(やたい))、品川(しながわ)(大森(おおもり)〔現(げん)大田区(おおたく)〕名物(めいぶつ)の麦藁細工(むぎわらざいく)の纏(まとい))、加奈川(かながわ)(神奈川(かながわ)湊(みなと)の風景(ふうけい))、保土ヶ谷(ほどがやしゅく)(保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)の留(とめ)め女(おんな))、川崎(かわさき)(大師河原(だいしがわら)名物(めいぶつ)の梨(なし))。 2枚目(にまいめ)は、(右下(みぎした)から)戸塚(とつか)(名物(めいぶつ)「焼(や)き餅(もち)」)、藤沢(ふじさわ)(宿場(しゅくば)の飯盛女(めしもりおんな))、 四谷(よつや)追分(おいわけ)(四ツ谷(よつや)の追分(おいわけ)。人馬(にんば)の継(つ)ぎ立(だ)て場(ば)でもあったことを駕籠(かご)と馬(うま)の足(あし)で象徴(しょうちょう))、伊勢原(いせはら)(大山麓(おおやまふもと)の街(まち))、大滝(おおたき)(参詣者(さんけいしゃ)の水垢離(みずごり)の場(ば)であった大山(おおやま)の滝(たき))。 3枚目(さんまいめ)は、(右下(みぎした)から)田村(たむら)(四ツ谷(よつや)から大山(おおやま)へ向(む)かう際(さい)の相模川(さがみがわ)の渡(わた)し場(ば))、子安(こやす)(子安(こやす)の木地細工(きじざいく))、大山前不動(おおやままえふどう)(大山寺(たいさんじ)の手前(てまえ)にある堂(どう))、石尊寺(せきそんじ)来迎谷(らいごうだに)(富士山(ふじさん)に日(ひ)が沈(しず)む情景(じょうけい)は阿弥陀如来(あみだにょらい)の来迎(らいごう)と例(たと)えられていた)、良弁之滝(ろうべんのたき)(良弁上人(りょうべんしょうにん)が身(み)を清(きよ)めたという伝承(でんしょう)がある)。 いずれも、大山詣(おおやままいり)に誘(さそ)う名所(めいしょ)・名物(めいぶつ)の数々(かずかず)が描(えが)かれています。
大山道(おおやまどう)中張(ちゅうはり)交(まぜ)図会(ずえ)
箱根七湯(はこねしちとう)の一(ひと)つ「堂ヶ島湯宿(どうがしまゆやど)」の風景(ふうけい)が描(えが)かれています。堂ヶ島(どうがしま)は南北朝時代(なんぼくちょうじだい)の高僧(こうそう)である夢窓疎石(むそうそせき)によって開(ひら)かれたと伝(つた)えられ、古(ふる)くから多数(たすう)の湯治客(とうじきゃく)を集(あつ)めました。画面(がめん)右(みぎ)には、「白糸の滝(しらいとのたき)」の表記(ひょうき)があり、山(やま)の高(たか)いところから水(みず)が流(なが)れ落(お)ちる様(さま)が描(えが)かれます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 箱根(はこね)湯治場(とうじば)
箱根山麓(はこねさんろく)と渓谷(けいこく)が描(えが)かれ、画面(がめん)右(みぎ)より、明礬山(みょうばんやま)、駒ケ嶽(こまがたけ)、冠ケ嶽(かんむりがたけ)と表記(ひょうき)されています。明礬山(みょうばんやま)は現在(げんざい)の神山付近(かみやまふきん)の山(やま)であったと考(かんが)えられ、明礬山(みょうばんやま)から産出(さんしゅつ)された明礬(みょうばん)は箱根土産(はこねみやげ)の一(ひと)つであったそうです。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 箱根(はこね)高嶺(たかみね)
箱根(はこね)の山並(やまな)みを背景(はいけい)に、芦ノ湖(あしのこ)の風景(ふうけい)が描(えが)かれています。画面(がめん)右(みぎ)に書(か)かれている「賽ノ河原(さいのかわら)」は、江戸時代(えどじだい)には地蔵信仰(じぞうしんこう)の地(ち)として有名(ゆうめい)で、多数(たすう)の石仏(せきぶつ)・石塔(せきとう)が湖畔(こはん)に並(なら)んでいたとされます。左下(ひだりした)に書(か)かれている「権現道(ごんげんどう)」は、箱根権現(はこねごんげん)と称(しょう)される箱根神社(はこねじんじゃ)に続(つづ)く道(みち)です。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 箱根(はこね)湖水(こすい) 権現(ごんげん)社(しゃ)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)13年(ねん)(1842)。 板元(はんもと):江崎屋(えさきや)吉兵衛(きちべえ) このシリーズは表題(ひょうだい)の書体(しょたい)から俗(ぞく)に行書(ぎょうしょ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。 画面(がめん)右(みぎ)に江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)、左(ひだり)に大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))を描(えが)いています。 大鋸(だいぎり)橋(ばし)を通(とお)っているのは東海道(とうかいどう)で、この鳥居(とりい)が東海道(とうかいどう)から江(え)の島道(しまみち)への入口(いりぐち)になっています。 橋(はし)の上(うえ)の人物(じんぶつ)が担(かつ)いでいるは御神酒(おみき)枠(わく)(大山(おおやま)から水(みず)や酒(さけ)を持(も)ち帰(かえ)るためのもの)で、一行(いっこう)が大山(おおやま)詣(もうで)の帰(かえ)りであることが分(わ)かります。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 藤沢(ふじさわ)(行書(ぎょうしょ)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)頃(ごろ)(1840)。 板元(はんもと):佐野屋(さのや)喜兵衛(きへえ) このシリーズは図柄(ずがら)の中(なか)に狂歌(きょうか)が1首(しゅ)ずつ折(お)り込(こ)まれているために俗(ぞく)に「狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう)」と呼(よ)ばれています。 保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)と反対(はんたい)に遊行寺(ゆぎょうじ)の側(がわ)から大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))と江(え)の島(しま)一ノ(いちの)鳥居(とりい)を描(えが)いたもので、背景(はいけい)にある山(やま)は大山(おおやま)です。 橋(はし)の上(うえ)の人物(じんぶつ)が担(かつ)いでいるのは御神酒(おみき)枠(わく)(大山(おおやま)から水(みず)や酒(さけ)を持(も)ち帰(かえ)るためのもの)で大山(おおやま)詣(もうで)を象徴(しょうちょう)しています。橋(はし)のたもとの高札場(こうさつば)など、宿場(しゅくば)の様子(ようす)も窺(うかが)えます。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)年間(ねんかん)頃(ごろ)(1843~1847)。 板元(はんもと):有田屋(ありだや)青右衛門(あおえもん) このシリーズは俗(ぞく)に板元(はんもと)名(めい)から有田屋(ありだや)版(ばん)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。 広重(ひろしげ)の小判(こばん)東海道(とうかいどう)はめずらしく、横(よこ)判物(はんじもの)はそれぞれに工夫(くふう)をこらして描(えが)いていますが、大方(おおかた)似(に)かよった構図(こうず)になっていて、正面(しょうめん)の橋(はし)が東海道(とうかいどう)の通(とお)る大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))、左(ひだり)に江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)が描(えが)かれています。 保永(やすなが)堂(どう)版(ばん)と同(おな)じく橋(はし)の上(うえ)には御神酒(おみき)枠(わく)(大山(おおやま)から水(みず)や酒(さけ)を持(も)ち帰(かえ)るためのもの)を担(かつ)いだ大山(おおやま)詣(もうで)の一行(いっこう)が、鳥居(とりい)の下(した)には杖(つえ)をついた江(え)の島(しま)詣(もうで)の一行(いっこう)が描(えが)かれています。背景(はいけい)に山(やま)のように見(み)えるのは遊行寺(ゆぎょうじ)です。
東海道(とうかいどう)七(なな) 五拾(ごじゅう)三次(さんつぎ)之(の)内(うち) 藤沢(ふじさわ)(有田屋(ありだや)版(ばん))