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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)3年(ねん)(1832) 板元(はんもと):藤岡屋彦太郎(ふじおかやひこたろう) 松原(まつばら)堂(どう) 本朝(ほんちょう)名所(めいしょ)シリーズの15枚(まい)の揃(そろい)物(もの)の一(ひと)つです。これには一(いち)立(りつ)斎(とき)の落款(らっかん)があり、腰越(こしごえ)のあたりから見(み)た景色(けしき)のようで、前景(ぜんけい)としての右手(みぎて)の高(たか)い山(やま)と左手(ひだりて)の低(ひく)い山(やま)に囲(かこ)まれた間(ま)からわずかに見(み)える七里ガ浜(しちりがはま)の砂浜(すなはま)、駕籠(かご)かき、何(なに)かをねだる子(こ)どもらを描(えが)き、ちょうど正面(しょうめん)に海(うみ)に浮(う)かぶ江(え)の島(しま)を配置(はいち)して、左(ひだり)の白(しろ)い帆(ほ)と白(しろ)い富士山(ふじさん)を色彩(しきさい)的(てき)に対比(たいひ)させています。 浜(はま)に打(う)ち寄(よ)せる三角(さんかく)の大波(おおなみ)は、のちに広重(ひろしげ)の作品(さくひん)の特徴(とくちょう)のうちの一(ひと)つとなる典型(てんけい)的(てき)な例(れい)となるものです。
本朝(ほんちょう)名所(めいしょ) 相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)
制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)5年(ねん)(1858) 4月(がつ)頃(ごろ)。 板元(はんもと):蔦吉(つたきち) 広重(ひろしげ)の最(さい)晩年(ばんねん)に制作(せいさく)されたシリーズの一(ひと)つとして有名(ゆうめい)な作品(さくひん)です。冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)シリーズは三亭(さんてい)春馬(しゅんま)の目録(もくろく)付(づけ)で全部(ぜんぶ)で37部(ぶ)となり、江戸(えど)南伝馬町(みなみでんまちょう)の蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)から上梓(じょうし)されたもので、安政(あんせい)5年(ねん)4月(がつ)に改印(かいいん)を受(う)け翌年(よくねん)に刊行(かんこう)されています。広重(ひろしげ)の富士(ふじ)に取材(しゅざい)した揃(そろい)物(もの)は、嘉永(かえい)5年(ねん)12月(がつ)改印(かいいん)の「不二三十六景(ふじさんじゅうろっけい)」の揃(そろい)があるにすぎません。 そのどちらもあの有名(ゆうめい)な「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」の北斎(ほくさい)の死後(しご)に刊行(かんこう)されていることは、彼(かれ)が北斎(ほくさい)に敬意(けいい)を表(あらわ)し、また遠慮(えんりょ)したようにも思(おも)えます。 この画面(がめん)は江(え)の島(しま)と富士(ふじ)、七里ガ浜(しちりがはま)を望(のぞ)む袖ヶ浦(そでがうら)あたりです。手前(てまえ)に描(えが)かれている茶屋(ちゃや)は「出口(でぐち)の茶屋(ちゃや)」と呼(よ)ばれ、天保(てんぽう)9年(ねん)頃(ごろ)の紀行文(きこうぶん)『冨士大山道中(ふじおおやまどうちゅう)雑記(ざっき)附(つき)江之嶋(えのしま)鎌倉(かまくら)』にも「袖ヶ浦(そでがうら)茶屋(ちゃや)有(あり)、此(この)所(ところ)にて鎌倉(かまくら)絵図(えず)并(ならびに)名所記(めいしょき)等(など)商(あきな)ふ茶屋(ちゃや)の婦人(ふじん)、絵図(えず)講釈(こうしゃく)を致(いた)す」と記(しる)されています。茶店(ちゃみせ)の軒先(のきさき)には「蔦吉(つたきち)」、「日本(にっぽん)はし」、「魚(さかな)可(か)し」などの札(さつ)が見(み)られます。
冨士(ふじ)三(さん)十(じゅう)六(ろっ)景(けい) 相模(さがみ)七(しち)里(り)か浜(はま)
狂歌(きょうか):日本橋(にほんばし) たゞ(だ)一(ひと)すぢに都(みやこ)まで 遠(とお)くて近(ちか)き はるがすみかな(あのや幸久) 画面(がめん)手前(てまえ)を横切(よこぎ)るように描(えが)かれた日本橋(にほんばし)を、大名行列(だいみょうぎょうれつ)が渡(わた)る様子(ようす)を描(えが)いています。橋(はし)向(む)こうに立(た)ち並(なら)ぶ蔵(くら)や、川(かわ)の両(りょう)岸(きし)に停泊(ていはく)する舟(ふね)は、一点(いってん)透視(とうし)図法(ずほう)を用(もち)いて描(えが)かれています。遠景(えんけい)の右(みぎ)には江戸城(えどじょう)の城郭(じょうかく)、左(ひだり)には富士山(ふじさん)が描(えが)かれおり、浮(う)かぶように描(えが)かれた富士山(ふじさん)と、大名行列(だいみょうぎょうれつ)の高(たか)く伸(の)びた毛槍(けやり)でもって画面(がめん)上部(じょうぶ)に空(そら)の広(ひろ)がりを演出(えんしゅつ)しています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 日本橋(にほんばし)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):霞(かすみ)日(び)を とつかの駅路(えきろ) とつかはと いそぎて旅(たび)を 双六(すごろく)のうへ(遊竹館一調) 戸塚宿(とつかしゅく)の西側(にしがわ)にあたる大坂(おおさか)の風景(ふうけい)です。戸塚宿(とつかしゅく)は東側(ひがしがわ)(江戸(えど)側(がわ))に権(ごん)太(た)坂(ざか)、西側(にしがわ)(京(きょう)側(がわ))に大(だい)坂(さか)と、坂(さか)に挟(はさ)まれた宿場(しゅくば)であるため、それぞれの坂(さか)を越(こ)えた旅人(たびびと)が休憩(きゅうけい)をとる場所(ばしょ)として賑(にぎ)わっていました。画面(がめん)手前(てまえ)の松(まつ)は、街道(かいどう)の両側(りょうがわ)の傾斜(けいしゃ)から、まるで街道(かいどう)を見下(みお)ろすように立(た)ち、画面(がめん)中央(ちゅうおう)の街道(かいどう)または画面(がめん)奥(おく)に見(み)える戸塚宿(とつかしゅく)に視点(してん)が集中(しゅうちゅう)するような工夫(くふう)が感(かん)じられます。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 戸塚(とつか)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):風(かぜ)ふけば 花(はな)にこゝろを 興津川(おきつがわ) あさき瀬(せ)にだに 袖(そで)はぬれけり(年垣真春) 興津川(おきつがわ)の徒歩(かち)渡(わた)しのようすが描(えが)かれています。薩埵(さつた)峠(とうげ)を背景(はいけい)にした興津川(おきつがわ)の景色(けしき)です。興津川(おきつがわ)では徒歩(かち)渡(わた)しが行(おこな)われており、画(が)中(ちゅう)には川岸(かわぎし)で人足(にんそく)が客(きゃく)を乗(の)せたり降(お)ろしたりする様子(ようす)が描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 興津(おきつ) 興津川(おきつがわ) (狂歌(きょうか)入(にゅう)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):春風(しゅんぷう)に 池(いけ)の氷(こおり)の とけそめて 刎(はね)出(で)る鯉(こい)や 鮒(ふな)も花(はな)なる(狂歌亭真似言) 画面(がめん)右(みぎ)に宿場(しゅくば)の出入口(でいりぐち)を示(しめ)す牓(ぼう)示(じ)杭(くい)がみえることから、宿場(しゅくば)の入(い)り口(くち)を描(えが)いていることがわかります。また、同(どう)じく画面(がめん)右(みぎ)に、御幣(ごへい)をつけた馬(うま)を引(ひ)き連(つ)れる一行(いっこう)が見(み)えますが、これは八朔(はっさくの)御馬(おうま)進(しん)献(けん)という旧暦(きゅうれき)の毎年(まいとし)8月(がつ)に幕府(ばくふ)から御所(ごしょ)へ馬(うま)を献上(けんじょう)する一行(いっこう)を描(えが)いています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 池鯉鮒(ちりゅう)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):梅(うめ)か香(か)に 袖(そで)ふりあふて 泊(とま)り村(むら) つえつき坂(ざか)を のぼる旅人(たびびと)(緑庵松俊) 四日市宿(よっかいちしゅく)の先(さき)に架(か)かる橋(はし)を、巡礼(じゅんれい)者(しゃ)、天狗(てんぐ)の面(めん)を背負(せお)った金毘羅(こんぴら)参(まい)りの男性(だんせい)、伊勢(いせ)参(まい)り(抜(ぬ)け参(まい)り)の子供(こども)たちなどが行(い)き交(か)う様子(ようす)を描(えが)いています。四日市宿(よっかいちしゅく)には、東海道(とうかいどう)と伊勢街道(いせかいどう)の分岐(ぶんき)である日永(ひなが)の追分(おいわけ)があったので、多(おお)くの旅人(たびびと)でにぎわっていたそうです。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 四日市(よっかいち)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):すゞ(ず)か山(やま) ふる双六(すごろく)は たび人(びと)の さきへさきへと いそぐ駅路(えきろ)(森風亭波都賀) 坂(さか)下宿(したしゅく)の手前(てまえ)の筆(ふで)捨(すて)山(やま)の場面(ばめん)を描(えが)いています。この茶屋(ちゃや)は、鈴鹿(すずか)川(かわ)を挟(はさ)んだ対岸(たいがん)に望(のぞ)む筆(ふで)捨(すて)山(やま)の眺望(ちょうぼう)が評判(ひょうばん)でした。筆(ふで)捨(すて)山(やま)の名前(なまえ)は、室町時代(むろまちじだい)の絵師(えし)、狩(か)野(のう)元信(もとのぶ)がこの山(やま)を写(うつ)そうと筆(ふで)を取(と)ったところ天候(てんこう)の変化(へんか)に左右(さゆう)され思(おも)うように写(うつ)しきれず、ついに諦(あきら)めて筆(ふで)を捨(す)てたという故事(こじ)に由来(ゆらい)するものです。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 阪之下(さかのした)筆(ふで)捨(すて)山(やま)之(の)図(ず)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))