Fujisawa Net Museum

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製作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2年(にねん)(1855)。
板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)

鞠子宿(まりこしゅく)(ない)様子(ようす)(えが)かれています。鞠子(まりこ)はとろろ(じる)有名(ゆうめい)宿場(しゅくば)でした。両側(りょうがわ)(つづ)茶屋(ちゃや)には「とろろ(じる)」の看板(かんばん)がいくつもかかっています。(ひだり)手前(てまえ)店先(みせさき)(きゃく)がとろろ(じる)をすすっています。また茶屋(ちゃや)(かべ)には浮世絵(うきよえ)(おも)われる絵画(かいが)(かざ)ってあり、当時(とうじ)浮世絵(うきよえ)一般的(いっぱんてき)普及(ふきゅう)していたことが(うかが)える作品(さくひん)でもあります。

このシリーズが(たて)(がた)(ばん)であるため、一般(いっぱん)(たて)()東海道(とうかいどう)()ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 (さい))の作品(さくひん)です。広重(ひろしげ)東海道(とうかいどう)ものは大体(だいたい)において、横型(よこがた)風景画(ふうけいが)(おお)いなかで、(たて)(がた)(ぶつ)もいくつかあります。この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿(やど)鳥瞰図(ちょうかんず)(えが)かれ、町並(まちな)(とう)遠近法(えんきんほう)(もち)い、(よこ)(ばん)では()られない雰囲気(ふんいき)をかもし()しています。

五十三次名所図会 廿一 鞠子(竪絵東海道)

五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 二十一(にじゅういち) 鞠子(まりこ) 駅中(えきちゅう)名物(めいぶつ)とろゝ(しる)をひさく((たて)()東海道(とうかいどう)

製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14(ねん)(1843)~弘化(こうか)4(ねん)(1847)。
板元(はんもと):伊場仙(いばせん)(伊場(いば)()仙三郎(せんざぶろう))

()(かえ)って富士(ふじ)(あお)()女性(じょせい)は、歌舞伎(かぶき)の『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の登場人物(とうじょうじんぶつ)腰元(こしもと)のおかるです。恋人(こいびと)早野(はやの)勘平(かんぺい)()()びてゆく途中(とちゅう)の、戸塚(とつか)坂道(さかみち)での場面(ばめん)(えが)かれております。
仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』は江戸時代(えどじだい)()きた事件(じけん)(もと)にした物語(ものがたり)ですが、江戸時代(えどじだい)当時(とうじ)(はなし)歌舞伎(かぶき)にすることは禁止(きんし)されていたため、“鎌倉時代(かまくらじだい)物語(ものがたり)”として上演(じょうえん)されました。

このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)三代(さんだい)豊国(とよくに)国芳(くによし)の3(にん)当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)分担(ぶんたん)して(えが)いたものです。風景(ふうけい)(すく)なく人物(じんぶつ)(おも)とし、(した)3(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)史跡(しせき)著名(ちょめい)出来事(できごと)(など)(えが)き、(うえ)3(ぶん)の1に(した)()説明(せつめい)がなされています。

東海道五十三対 戸塚

東海道(とうかいどう)()(じゅう)(さん)(つい) 戸塚(とつか)

江戸(えど)における花見(はなみ)名所(めいしょ)であった御殿山(ごてんやま)風景(ふうけい)(えが)かれます。御殿山(ごてんやま)寛文年間(かんぶんねんかん)(1661~73)より(さくら)移植(いしょく)され、江戸時代後期(えどじだいこうき)には600(ぽん)もの(さくら)があったと(つた)えられています。満開(まんかい)(さくら)()宴会(えんかい)(たの)しむ人々(ひとびと)や、(きゃく)()茶屋(ちゃや)(むすめ)といった(にぎ)やかな花見(はなみ)様子(ようす)()られます。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 品川(しながわ)

東海道(とうかいどう)の3番目(ばんめ)と4番目(ばんめ)宿場(しゅくば)である神奈川(かながわ)()では(こと)なる漢字(かんじ)使(つか)われていますと注入れ(ちゅうい)れ)と程ヶ谷(ほどがや)(かすみ)(はさ)んで(えが)かれています。神奈川宿(かながわしゅく)周辺(しゅうへん)(しる)されている「浅間社(あさましゃ)」は浅間神社(あさまじんじゃ)で、当時(とうじ)神奈川宿(かながわしゅく)程ヶ谷宿(ほどがやしゅく)(あいだ)宿(やど)として(さか)えました。その(よこ)にある「人穴(ひとあな)」は、江戸時代(えどじだい)には富士信仰(ふじしんこう)(むす)()けられていたようですが、現在(げんざい)横穴(よこあな)古墳(こふん)(※古代(こだい)権力者(けんりょくしゃ)(はか))であったことがわかっています。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 神名川(かながわ) (ほど)()

(こころ)なき()にもあはれは()られけり鴫立沢(しぎたちざわ)(あき)夕暮(ゆうぐれ)」――西行(さいぎょう)
平安時代(へいあんじだい)歌人(かじん)西行(さいぎょう)(ゆかり)ある土地(とち)の、大磯(おおいそ)鴫立沢(しぎたちざわ)風景(ふうけい)(えが)かれます。鴫立沢(しぎたちざわ)には江戸時代(えどじだい)初期(しょき)俳諧道場(はいかいどうじょう鴫立庵(しぎたつあん)」が(ひら)かれ、数多(かずおお)くの俳人(はいじん)たちが(おとず)れました。画面(がめん)右下(みぎした)(えが)かれた「西行庵(さいぎょうあん)」は西行(さいぎょう)坐像(ざぞう)安置(あんち)されている円位堂(えんいどう)円位(えんい)西行(さいぎょう)法名(ほうみょう))と(おも)われます。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 大磯(おおいそ)(しぎ)立沢(たちざわ)

本作(ほんさく)には、平塚宿(ひらつかしゅく)から大磯宿(おおいそしゅく)にかけての風景(ふうけい)(えが)かれます。画面(がめん)右下(みぎした)(しる)されている「唐土ヶ原(もろこしがはら)」(現在(げんざい)唐ヶ原(とうがはら)は、5世紀(せいき)朝鮮(ちょうせん)人々(ひとびと)集団移住(しゅうだんいじゅう)したと(つた)えられており、右上(みぎうえ)には()える高麗寺山(こうらいじさん)は、高句麗(こうくり)から渡来(とらい)した高麗若人(こまのじゃっこう)(まつ)った(てら)地名(ちめい)由来(ゆらい)となっています。そこから画面(がめん)(おく)()かい、大磯宿(おおいそしゅく)鴫立沢(しぎたちざわ)(つづ)きます。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 大磯(おおいそ) 平塚(ひらつか)



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