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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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弘化(こうか)4年(ねん)-嘉永(かえい)5年(ねん)(1847-52) 初代(しょだい)広重(ひろしげ)の蔦屋(つたや)版(ばん)東海道(とうかいどう)シリーズの一枚(いちまい)です。原宿(はらじゅく)は、東海道(とうかいどう)で最(もっと)も富士山(ふじさん)に近(ちか)い位置(いち)にあるため、画(が)中(ちゅう)では、富士山(ふじさん)が枠線(わくせん)を超(こ)えて雄大(ゆうだい)に描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう) 十四(じゅうよん) 五十三次(ごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 原(はら)
製作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)(1847)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。板元(はんもと):丸屋清次郎(まるやせいじろう) このシリーズは表題(ひょうだい)の書体(しょたい)から俗(ぞく)に隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)、行書(ぎょうしょ)版(ばん)と共(とも)に三(さん)大(だい)傑作(けっさく)シリーズの一(ひと)つです。藤沢宿(ふじさわしゅく)の夜(よる)の風景(ふうけい)で、右側(みぎがわ)にある鳥居(とりい)が江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)(江(え)の島道(しまみち)入口(いりぐち))、左手(ひだりて)にあるのが大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))です。宿場(しゅくば)に着(つ)いた人々(ひとびと)と客引(きゃくひ)きをする宿(やど)の人々(ひとびと)の様子(ようす)が描(えが)かれ、にぎわいが感(かん)じられます。
東海道(とうかいどう)七(なな) 五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)(隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)(1848)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。 板元(はんもと):藤(ふじ)慶(けい)(藤屋(ふじや)慶次郎(けいじろう)) このシリーズは前面(ぜんめん)に美人(びじん)姿(すがた)を大(おお)きく描(えが)いているので一般(いっぱん)に美人(びじん)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。広重(ひろしげ)は風景画(ふうけいが)の大家(たいか)であると共(とも)に美人画(びじんが)でも評価(ひょうか)が高(たか)かったようです。 右端(みぎはし)に「相州(そうしゅう) 江(え)の嶋(しま)詣(もうで)」とあるのでこの女性(じょせい)が江(え)の島(しま)帰(がえ)りであることがわかりますが、女性(じょせい)の脇(わき)の駕籠(かご)の上(うえ)に乗(の)っている品物(しなもの)は、江(え)の島(しま)名物(めいぶつ)「アワビの粕漬(かすづ)け」です。背景(はいけい)(上段(じょうだん))は藤沢宿(ふじさわしゅく)の景観(けいかん)で、後(うし)ろに見(み)える山(やま)は大山(おおやま)です。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)図会(ずえ)七(なな) 藤沢(ふじさわ)(美人(びじん)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。 板元(はんもと):村市(むらいち)(村田屋市五郎(むらたやいちごろう)) 鴨川(かもがわ)に架(か)かる三條(さんじょう)大橋(おおはし)を行(い)き交(か)う人々(ひとびと)を描(えが)いています。 京風(きょうふう)の絹被衣(きぬかつぎ)(外出(がいしゅつ)時(じ)に頭(あたま)から着物(きもの)をかぶる)をかぶる公家(くげ)の子女(しじょ)らしき女性(じょせい)たち、大原女(おはらめ)(頭(あたま)に薪(たきぎ)をのせて売(う)る女性(じょせい))、茶筅(ちゃせん)売(う)り(茶筅(ちゃせん)を売(う)り歩(ある)く念仏(ねんぶつ)僧(そう))、など、さまざまな身分(みぶん)や商売(しょうばい)の人々(ひとびと)が行(い)き交(か)っています。 橋(はし)のむこうの対岸(たいがん)には、東山(ひがしやま)のすそに広(ひろ)がる京(きょう)の家(いえ)並(な)みが見(み)えます このシリーズは、人物(じんぶつ)を大(おお)きく中心(ちゅうしん)に描(えが)いているため、一般(いっぱん)に人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。
五十三次(ごじゅうさんつぎ) 京(きょう)三條(さんじょう)橋(ばし)(人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。 板元(はんもと):村市(むらいち)(村田屋市五郎(むらたやいちごろう)) 画面(がめん)手前(てまえ)に宿場町(しゅくばまち)の賑(にぎ)わいを描(えが)き、後景(こうけい)に琵琶湖(びわこ)を遠望(えんぼう)しています。 このシリーズは、人物(じんぶつ)を大(おお)きく中心(ちゅうしん)に描(えが)いているため、一般(いっぱん)に人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。
五十三次(ごじゅうさんつぎ) 大津(おおつ)(人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。 板元(はんもと):村市(むらいち)(村田屋市五郎(むらたやいちごろう)) 女性(じょせい)2人(にん)が畑(はたけ)でアオバナを摘(つ)む作業(さぎょう)をしています。 アオバナとはツユクサの変種(へんしゅ)で、鮮(あざ)やかな青色(あおいろ)が重宝(ちょうほう)され、染料(せんりょう)として多(おお)く用(もち)いられました。 このシリーズは、人物(じんぶつ)を大(おお)きく中心(ちゅうしん)に描(えが)いているため、一般(いっぱん)に人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。
五十三次(ごじゅうさんつぎ) 草津(くさつ)(人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。 板元(はんもと):村市(むらいち)(村田屋市五郎(むらたやいちごろう)) 金勝山(ごんぜやま)の場面(ばめん)を描(えが)いています。 画面(がめん)左(ひだり)の大(おお)きな岩(いわ)は十(じゅう)数(すう)人(にん)の力(ちから)でも動(うご)かないが、身(み)を清(きよ)めると指先(ゆびさき)の力(ちから)で動(うご)かせるという伝承(でんしょう)があります。 このシリーズは、人物(じんぶつ)を大(おお)きく中心(ちゅうしん)に描(えが)いているため、一般(いっぱん)に人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。
五十三次(ごじゅうさんつぎ) 石部(いしべ)(人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。 板元(はんもと):村市(むらいち)(村田屋市五郎(むらたやいちごろう)) 雪景色(ゆきげしき)の宿場(しゅくば)の町並(まちな)みを、画面(がめん)手前(てまえ)の茶屋(ちゃや)から女性(じょせい)が眺(なが)めています。 このシリーズは、人物(じんぶつ)を大(おお)きく中心(ちゅうしん)に描(えが)いているため、一般(いっぱん)に人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。
五十三次(ごじゅうさんつぎ) 水口(みなくち)(人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう))