Fujisawa Net Museum

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製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14(ねん)(1843)~弘化(こうか)4(ねん)(1847)。
板元(はんもと):海老屋林之助(えびやりんのすけ)

川崎(かわさき)」で(えが)かれた新田義興(にったよしおき)最期(さいご)訃報(ふほう))を、家臣(かしん)篠塚(しのづか)八郎(はちろう)故郷(こきょう)(しろ)(おな)じく義興(よしおき)家臣(かしん)たちに()げています。画面(がめん)手前(てまえ)八郎(はちろう)所作(しょさ)大胆(だいたん)(えが)かれており、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)人形(にんぎょう)(うご)きに見立(みた)てた表現(ひょうげん)となっています。
このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)三代(さんだい)豊国(とよくに)国芳(くによし)の3(にん)当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)分担(ぶんたん)して(えが)いたものです。風景(ふうけい)(すく)なく人物(じんぶつ)(おも)とし、(した)3(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)史跡(しせき)著名(ちょめい)出来事(できごと)(など)(えが)き、(うえ)3(ぶん)の1に(した)()説明(せつめい)がなされています。

東海道五十三対 保土ヶ谷

東海道(とうかいどう)()(じゅう)(さん)(つい) 保土ヶ谷(ほどがや)

武者絵(むしゃえ)得意(とくい)とした国芳(くによし)により(えが)かれた本作(ほんさく)は「小栗(おぐり)(じゅう)勇士(ゆうし)」という、小栗判官(おぐりはんがん)(すぐ)れた家臣(かしん)(えが)いたシリーズです。説教(せっきょう)(ぶし)では「小栗(おぐり)(とも)毒殺(どくさつ)された家臣(かしん)(じゅう)(にん)いた」という内容(ないよう)(つた)えられています。現在(げんざい)でも、戦国武将(せんごくぶしょう)真田幸村(さなだゆきむら)家臣(かしん)真田十勇士(さなだじゅうゆうし)」の物語(ものがたり)がよく()られていますが、(おな)じように江戸時代(えどじだい)(この)まれた家臣団(かしんだん)活躍(かつやく)物語(ものがたり)主題(しゅだい)になっています。(おに)鹿毛(かげ)(みず)(おけ)から(みず)()姿(すがた)や、甲冑(かっちゅう)使(つか)って(かゆ)のようなものを(つく)姿(すがた)など、戦場(せんじょう)における様々(さまざま)描写(びょうしゃ)()られる(てん)面白(おもしろ)作品(さくひん)です。

小栗(おぐり)(じゅう)勇士(ゆうし)一人(ひとり) 後藤(ごとう)大八郎(だいはちろう)高次(たかつぐ)/後藤(ごとう)兵助(ひょうすけ)助高(すけたか)

石橋(いしばし)(やま)合戦(かっせん)のエピソードのひとつに「頼朝(よりとも)(ふし)木隠(きがく)れ」があります。頼朝(よりとも)石橋(いしばし)(やま)合戦(かっせん)(やぶ)れた(のち)山中(さんちゅう)伏木(ふしき)(かく)れているのを、捜索(そうさく)していた梶原景時(かじわらかげとき)姿(すがた)()つけましたが、味方(みかた)には「だれもいない」と()げやりすごし、頼朝(よりとも)(たす)けたというもので、浮世絵(うきよえ)でもよく()()げられる画題(がだい)です。
本作(ほんさく)では、梶原景時(かじわらかげとき)ではなく、平家(へいけ)(かた)大将(たいしょう)(かく)である大庭景親(おおばかげちか)(おお)きく(えが)かれ、その(した)洞穴(ほらあな)に「源頼朝(みなもとのよりとも)(きょう)」らが(ひそ)んでいるさまが(えが)かれています。()(ちゅう)左下(ひだりした)には、頼朝(よりとも)()(したが)って洞穴(ほらあな)(かく)れた武将(ぶしょう)()(しる)されています。(安達(あだち)(ふじ)九郎(くろう)盛長(もりなが)土屋(つちや)三郎(さぶろう)(むね)(とお)岡崎(おかざき)四郎(しろう)義真(よしざね)(ざね))、新開(しんかい)次郎(じろう)(ただうじ)()土肥(どい)次郎(じろう)実平(さねひら)土肥(どい)(とお)(っひら)軍記物(ぐんきもの)では()たと(しる)されている田代信綱(たしろのぶつな)()()えません。

石橋(いしばし)山伏(やまぶし)木隠(きがくれ) 大場(おおば)三郎(さぶろう)景親(かげちか)

古今(ここん)合戦(かっせん)のうち36(けん)(えら)んで歌川国芳(うたがわくによし)(えが)いたシリーズの1(まい)です。宇治川(うじがわ)(たたか)いは、木曾義仲(きそよしなか)源義経(みなもとのよしつね)との(あいだ)(おこな)われた合戦(かっせん)です。その(なか)で、佐々木高綱(ささきたかつな)梶原景季(かじわらかげすえ)先陣(せんじん)(あらそ)いのエピソードがよく()られています。義経(よしつね)(ぜい)佐々木高綱(ささきたかつな)梶原景季(かじわらかげすえ)は、それぞれ源頼朝(みなもとのよりとも)から名馬(めいば)(たまわ)っており、(とも)戦地(せんち)一番乗(いちばんの)りの手柄(てがら)()てようと(いさ)んで(かわ)()(にゅう)ろうとします。その(とき)高綱(たかつな)が「(うま)腹帯(はらおび)(ゆる)んでいる、()(たま)え」と(かげ)(すえ)()げ、それを()()けた(かげ)(すえ)(うま)腹帯(はらおび)()(なお)している(ひま)に、高綱(たかつな)一番乗(いちばんの)りを()たしました。(かげ)(すえ)高綱(たかつな)手前(てまえ)には、水泳(すいえい)達人(たつじん)太子(おおごの)小橋(こきょう)()(えが)かれています。

(ゆう)(かい)(さん)(じゅう)(ろっ)合戦(かせん) ()梶原景季(かじわらかげすえ) 畠山重忠(はたけやましげただ) 佐々木高綱(ささきたかつな) 太子(おおごの)小橋(こきょう)())」

相撲(すもう)神事(しんじ)として古代(こだい)から(もよお)されていましたが、鎌倉幕府(かまくらばくふ)(へん)さんした『吾妻(あづま)(かがみ)』には、頼朝(よりとも)臨席(りんせき)して相撲(すもう)(じん)武士(ぶし)相撲(すもう)()らせたという記事(きじ)見受(みう)けられます。
作品(さくひん)では(とう)(じょう)には、御家人(ごけにん)たち34(めい)名札(なふだ)(かか)げられています。なお、土俵(どひょう)(じょう)()()二人(ふたり)のうち、長居(ながい)(だい)力士(りきし)長居(ながい)は、当時(とうじ)天下無双(てんかむそう)名高(なだか)かった力士(りきし)(みぎ)本田次郎(ほんだじろう)近常(ちかつね)は、畠山重忠(はたけやましげただ)郎党(ろうとう)です。行司(ぎょうじ)(やく)尾形(おがた)緒方(おがた)三郎(さぶろう)惟義(これよし)は、義経(よしつね)(つい)()(さい)義経(よしつね)(とも)気仙沼(けせんぬま)()かい、建久(けんきゅう)3(ねん)(1190)に同地(どうち)羽田神社(はだじんじゃ)再興(さいこう)したといわれる武将(ぶしょう)です。

()大将(たいしょう)頼朝(よりとも)(こう)相撲(すもう)御覧(ごらんの)()

表題(ひょうだい)(うたげ)は、建久(けんきゅう)4(ねん)(1193)に頼朝(よりとも)(おこな)った富士(ふじ)巻狩(まきが)りにあたっての(いわ)いの(うたげ)巻狩(まきが)りを(まえ)血気(けっき)にはやる曽我(そが)五郎(ごろう)時宗(ときむね)左手(ひだりて)障子(しょうじ)手前(てまえ))と、右手(みぎて)(すわ)十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)とを対照(たいしょう)(てき)(えが)いています。中央(ちゅうおう)手前(てまえ)(すわ)るのが、和田義盛(わだよしもり)()小林(こばやし)朝比奈義秀(あさひなよしひで)義秀(よしひで)(ひだり)には、大磯(おおいそ)(くるわ)遊女(ゆうじょ)化粧坂(けはいざか)少将(しょうしょう)(みぎ)には(どう)じく遊女(ゆうじょ)(じゅう)(ろう)祐成(すけなり)(そばめ)虎御前(とらごぜん)(えが)かれています。

和田義盛(わだよしもり)一門(いちもん)(きゅう)(じゅう)(さん)()大磯(おおいそ)におゐて三日(みっか)()夜宴(やうたげ)(もよお)(おり)から小林(こばやし)朝比奈義秀(あさひなよしひで)曽我(そがの)五郎(ごろう)時宗(ときむね)血気(けっき)にはやるを(とめ)(たがい)力量(りきりょう)をあらはす()



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