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万延(まんえん)元年(がんねん) (1860)
本作(ほんさく)は、東海道(とうかいどう)甲州街道(こうしゅうかいどう)(かく)両道(りょうどう)から富士山(ふじさん)への行程(こうてい)がわかるように(えが)かれています。(おも)黄札(きふだ)甲州街道(こうしゅうかいどう)(かく)場所(ばしょ)を、青札(あおふだ)東海道(とうかいどう)(かく)宿場(しゅくば)、そして赤札(あかふだ)霊場(れいじょう)寺社(じしゃ)名前(なまえ)(しる)されています。本作(ほんさく)富士山(ふじさん)御縁年(ごえんねん)()わせて刊行(かんこう)されたと(おも)われます。
()(ちゅう)左下(ひだりした)藤沢(ふじさわ)には、「遊行寺(ゆぎょうじ)」や「()(しま)(いち)鳥居(とりい)」、の文字(もじ)とともに、鳥居(とりい)大鋸橋(だいぎりばし)(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))が緻密(ちみつ)(えが)かれています。また、藤沢(ふじさわ)(となり)にある()()は「大山(おおやま)(いち)鳥居(とりい)」の文字(もじ)鳥居(とりい)(えが)かれ、当時(とうじ)()()交差点(こうさてん)現在(げんざい)藤沢市(ふじさわし)城南(じょうなん)(あた)り)に()鳥居(とりい)が、大山道(おおやまみち)起点(きてん)として認識(にんしき)されていたことがうかがえます。

富士山(ふじさん)(りょう)道中(どうちゅう)一覧(いちらん)()()

園原屋正助(そのはらやしょうすけ)(ばん) 
文久(ぶんきゅう)2(ねん)(1862(ねん)

 日本橋(にほんばし)()()し、京都(きょうと)()がりとする道中双六(どうちゅうすごろく)保土ヶ谷(ほどがや)戸塚(とつか)(かん)からの金沢道(かなざわみち)や、()()からの大山道(おおやまみち)富士川(ふじかわ)(さき)身延(みのぶ)(みち)掛川(かけがわ)からの秋葉(あきは)(みち)など、(おお)くの脇道(わきみち)()()まれています。
 金沢道(かなざわみち)は、のうけんどう(能見堂(のうけんどう))・金沢(かなざわ)(八景(はっけい))・明神(みょうじん)(瀬戸神社(せとじんじゃ))・光明寺(こうみょうじ)鶴ヶ岡(つるがおか)大仏(だいぶつ)由井(ゆい)()(はま)七里(しちり)()(はま)江乃島(えのしま)藤沢(ふじさわ)(つづ)き、()()のマスからの大山道(おおやまみち)は、まへふとう(前不動(まえふどう))・大山(おおやま)石尊(せきそん)大権現(だいごんげん)から道了宮(どうりょうぐう) (道了尊(どうりょうそん)大雄山(だいゆうざん)最乗寺(さいじょうじ))を()小田原(おだわら)(いた)(みち)(しる)されています。

当年(とうねん)新板(しんばん)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)案内(あんない)双陸(すごろく)

富士講(ふじこう)による富士(ふじ)(もうで)は、お伊勢参(いせまい)りや金比羅(こんぴら)(まい)りとともに「三大(さんだい)(まい)り」として江戸町(えどちょう)(みん)(した)しまれ、「江戸(えど)八百(はっぴゃく)八町(やちょう)に、八百(はっぴゃく)八講(やこう)講中(こうじゅう)(はち)(まん)(にん)」とも()われるほど隆盛(りゅうせい)しました。
(とく)に、庚申(こうしん)(ねん)にあたる万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)は60(ねん)(いち)()御縁(ごえん)(ねん)富士山(ふじさん)申年(さるどし)誕生(たんじょう)したとされる)にあたり、庚申(こうしん)(ねん)登山(とざん)をすれば(さん)(じゅう)(さん)(かい)(のぼ)ったのと(おな)じご利益(りやく)()られるとされました。また、女人禁制(にょにんきんせい)結界(けっかい)緩和(かんわ)されたため、(おお)くの女性(じょせい)(とう)(はい)しました。()(ちゅう)にも、群衆(ぐんしゅう)(なか)女性(じょせい)(えが)かれています。
()上部(じょうぶ)には「冨士山(ふじさん)略記(りゃっき)」が(しる)されています。

庚申(こうしん)(ねん)冨士山(ふじさん)参詣(さんけい)群衆(ぐんしゅう)()()



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