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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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嘉永(かえい)6年(ねん)(1853) 二代将軍(にだいしょうぐん)となった源頼家(みなもとのよりいえ)も父(ちち)頼朝(よりとも)にならい、建仁(けんにん)3年(ねん)(1203)に富士(ふじ)の巻狩(まきがり)を行(おこな)いました(画(が)中(ちゅう)では「頼朝(よりとも)卿(きょう)」となっています)。この時(とき)の巻狩(まきがり)で、仁田四郎(にったのしろう)忠常(ただつね)は人穴(ひとあな)探索(たんさく)を命(めい)じられ、人穴(ひとあな)の中(なか)に入(はい)りました。本図(もとず)は、人穴(ひとあな)に入(はい)った仁田四郎(にったのしろう)の前(まえ)に、富士山(ふじさん)を御神体(ごしんたい)とする浅間神社(あさまじんじゃ)の主祭神(しゅさいしん)である木花開耶姫(このはなのさくやひめ)が現(あらわ)れたところを描(えが)いています。
建仁三年(けんにんさんねん)源頼朝卿(みなもとのよりともきょう)冨士之御狩(ふじのおんかり)の時(とき)仁田(にった)ノ四郎(しろう)忠常(ただつぐ)命(めい)に依(より)て人穴(ひとあな)入(はい)ル図(ず)
大判(おおばん)3枚(まい) 「富士(ふじ)の人穴(ひとあな)」の話(はなし)は「明治座新狂言(めいじざしんきょうげん)(歌舞伎(かぶき))」にも取(と)り上(あ)げられたようで、歌川芳員(うたがわよしかず)が描(えが)いた図(ず)が、芝居(しばい)の一場面(いちばめん)として「組上絵(くみあげえ)」のかたちで再現(さいげん)されています。 組上絵(くみあげえ)とは、組上燈籠(くみあげどうろう)とも呼(よ)ばれ、江戸時代(えどじだい)から明治(めいじ)にかけて親(した)しまれていた浮世絵(うきよえ)の「おもちゃ絵(え)」の一種(いっしゅ)で、切(き)りぬいて遊(あそ)ぶ. ペーパークラフトのことです。組立(くみた)てると立体的(りったいてき)な紙(かみ)のジオラマとなりました。
組(くみ)上絵(あげえ) 明治座(めいじざ)新(しん)狂言(きょうげん) 富士(ふじ)の人穴(ひとあな)
万延(まんえん)元年(がんねん) (1860) 本作(ほんさく)は、東海道(とうかいどう)と甲州街道(こうしゅうかいどう)の各(かく)両道(りょうどう)から富士山(ふじさん)への行程(こうてい)がわかるように描(えが)かれています。主(おも)に黄札(きふだ)は甲州街道(こうしゅうかいどう)の各(かく)場所(ばしょ)を、青札(あおふだ)は東海道(とうかいどう)の各(かく)宿場(しゅくば)、そして赤札(あかふだ)は霊場(れいじょう)や寺社(じしゃ)の名前(なまえ)が記(しる)されています。本作(ほんさく)も富士山(ふじさん)の御縁年(ごえんねん)に合(あ)わせて刊行(かんこう)されたと思(おも)われます。 画(が)中(ちゅう)左下(ひだりした)の藤沢(ふじさわ)には、「遊行寺(ゆぎょうじ)」や「江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)」、の文字(もじ)とともに、鳥居(とりい)と大鋸橋(だいぎりばし)(現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))が緻密(ちみつ)に描(えが)かれています。また、藤沢(ふじさわ)の隣(となり)にある四(よ)ツ谷(や)は「大山(おおやま)一(いち)ノ鳥居(とりい)」の文字(もじ)と鳥居(とりい)が描(えが)かれ、当時(とうじ)四(よ)ツ谷(や)の交差点(こうさてん)(現在(げんざい)の藤沢市(ふじさわし)城南(じょうなん)辺(あた)り)に立(た)つ鳥居(とりい)が、大山道(おおやまみち)の起点(きてん)として認識(にんしき)されていたことがうかがえます。
富士山(ふじさん)両(りょう)道中(どうちゅう)一覧(いちらん)之(の)図(ず)
万延(まんえん)元年(がんねん)(1860) No. と同(おな)じく富士山(ふじさん)の御縁年(ごえんねん)にあたる庚申(こうしん)年(ねん)に刊行(かんこう)されたことから、富士山(ふじやま)への登(とう)拝(はい)を促(うなが)す意図(いと)があったとされています。画(が)中(ちゅう)右上(みぎうえ)にある立(た)て札(ふだ)は、実際(じっさい)に宿場(しゅくば)などに立(た)てられ、今年(ことし)は庚申(こうしん)年(ねん)であること、女性(じょせい)の登山(とざん)も許可(きょか)することなどが書(か)かれています。 女性(じょせい)の富士登山(ふじとざん)は、通常(つうじょう)は二(に)合(ごう)目(め)まででそれより上(うえ)に登(のぼ)ることは禁止(きんし)されていました。庚申(こうしん)年(ねん)でも実際(じっさい)登(のぼ)ることを許(ゆる)されたのは、五合(ごごう)目(め)付近(ふきん)までであったそうです。明治(めいじ)5年(ねん)(1872)神社(じんじゃ)仏閣(ぶっかく)の女人結界(にょにんけっかい)場所(ばしょ)の廃止(はいし)により、女性(じょせい)の登山(とざん)が解禁(かいきん)されました。
冨士山(ふじやま)北口(きたぐち)女人(にょにん)登山(とざん)之(の)図(ず)
万延(まんえん)元年(がんねん)(1860) 富士山(ふじさん)は庚申(こうしん)の年(とし)に姿(すがた)を現(あらわ)したとされ、この年(とし)に登山(とざん)をすれば、33回(かい)登(のぼ)ったのと同(おな)じご利益(りやく)が得(え)られるとされていました。本作(ほんさく)が描(えが)かれた万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)は御縁年(ごえんねん)である庚申(こうしん)年(ねん)にあたり、また御(ご)縁(えん)年(ねん)は女人禁制(にょにんきんせい)の規制(きせい)も緩和(かんわ)されたため、図(ず)中(ちゅう)にも群衆(ぐんしゅう)の中(なか)に女性(じょせい)が描(えが)かれています。多(おお)くの富士講(ふじこう)の信者(しんじゃ)が登(とう)拝(はい)する様子(ようす)から富士(ふじ)詣(もうで)の隆盛(りゅうせい)ぶりが伝(つた)わってきます。
庚申(こうしん)年(ねん)富士山(ふじさん)参詣(さんけい)群集(ぐんしゅう)之(の)図(ず)
安政(あんせい)元年(がんねん)(1854) 江(え)の島(しま)の老舗(しにせ)旅館(りょかん)である岩本院(いわもといん)(現在(げんざい)の岩本楼(いわもとろう))の高層(こうそう)階(かい)から女性(じょせい)が富士山(ふじさん)を眺(なが)めながらくつろぐ様子(ようす)が描(えが)かれています。 岩本院(いわもといん)は、元来(がんらい)江(え)の島(しま)の岩屋(いわや)本宮(ほんぐう)の別当寺(べつとうじ)であり、将軍(しょうぐん)や大名(だいみょう)の宿泊施設(しゅくはくしせつ)も兼(か)ねた場所(ばしょ)でした。江戸時代(えどじだい)には人気(にんき)旅館(りょかん)として多(おお)くの旅人(たびびと)が訪(おとず)れるようになりました。幕末(ばくまつ)に上演(じょうえん)された歌舞伎(かぶき)『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(通称(つうしょう)、白波(しらなみ)五(ご)人(にん)男(おとこ))の台詞(だいし)「岩本院(いわもといん)の稚児(ちご)あがり」から、弁天(べんてん)小僧(こぞう)の出身地(しゅっしんち)としても知(し)られるようになりました。
風景(ふうけい)江(え)の嶋(しま)図会(ずえ) 従岩本院(じゅういわもといん)不二(ふじ)眺望(ちょうぼう)
園原屋正助(そのはらやしょうすけ)版(ばん) 文久(ぶんきゅう)2年(ねん)(1862年(ねん)) 日本橋(にほんばし)を振(ふ)り出(だ)し、京都(きょうと)を上(あ)がりとする道中双六(どうちゅうすごろく)。保土ヶ谷(ほどがや)・戸塚(とつか)間(かん)からの金沢道(かなざわみち)や、四(よ)ツ谷(や)からの大山道(おおやまみち)、富士川(ふじかわ)の先(さき)の身延(みのぶ)道(みち)、掛川(かけがわ)からの秋葉(あきは)道(みち)など、多(おお)くの脇道(わきみち)が書(か)き込(こ)まれています。 金沢道(かなざわみち)は、のうけんどう(能見堂(のうけんどう))・金沢(かなざわ)(八景(はっけい))・明神(みょうじん)(瀬戸神社(せとじんじゃ))・光明寺(こうみょうじ)・鶴ヶ岡(つるがおか)・大仏(だいぶつ)・由井(ゆい)ヶ(が)浜(はま)・七里(しちり)ヶ(が)浜(はま)・江乃島(えのしま)・藤沢(ふじさわ)と続(つづ)き、四(よ)ツ谷(や)のマスからの大山道(おおやまみち)は、まへふとう(前不動(まえふどう))・大山(おおやま)石尊(せきそん)大権現(だいごんげん)から道了宮(どうりょうぐう) (道了尊(どうりょうそん)、大雄山(だいゆうざん)最乗寺(さいじょうじ))を経(へ)て小田原(おだわら)に至(いた)る道(みち)が記(しる)されています。
当年(とうねん)新板(しんばん)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)案内(あんない)双陸(すごろく)
富士講(ふじこう)による富士(ふじ)詣(もうで)は、お伊勢参(いせまい)りや金比羅(こんぴら)参(まい)りとともに「三大(さんだい)詣(まい)り」として江戸町(えどちょう)民(みん)に親(した)しまれ、「江戸(えど)八百(はっぴゃく)八町(やちょう)に、八百(はっぴゃく)八講(やこう)、講中(こうじゅう)八(はち)万(まん)人(にん)」とも言(い)われるほど隆盛(りゅうせい)しました。 特(とく)に、庚申(こうしん)年(ねん)にあたる万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)は60年(ねん)に一(いち)度(ど)の御縁(ごえん)年(ねん)(富士山(ふじさん)は申年(さるどし)に誕生(たんじょう)したとされる)にあたり、庚申(こうしん)年(ねん)に登山(とざん)をすれば三(さん)十(じゅう)三(さん)回(かい)登(のぼ)ったのと同(おな)じご利益(りやく)が得(え)られるとされました。また、女人禁制(にょにんきんせい)の結界(けっかい)も緩和(かんわ)されたため、多(おお)くの女性(じょせい)が登(とう)拝(はい)しました。図(ず)中(ちゅう)にも、群衆(ぐんしゅう)の中(なか)に女性(じょせい)が描(えが)かれています。 図(ず)の上部(じょうぶ)には「冨士山(ふじさん)略記(りゃっき)」が記(しる)されています。
庚申(こうしん)年(ねん)冨士山(ふじさん)参詣(さんけい)群衆(ぐんしゅう)之(の)図(ず)