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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)5年(ねん)(1858)頃(ころ)。 板元(はんもと):蔦吉(つたきち) 広重(ひろしげ)の最(さい)晩年(ばんねん)に制作(せいさく)されたシリーズの一(ひと)つです。画題(がだい)にあるように江(え)の島(しま)の参道(さんどう)の入口(いりぐち)にある大(おお)鳥居(とりい)を見通(みとお)した富士(ふじ)と、それに連(つら)なる箱根(はこね)の山々(やまやま)を描(えが)いており、手前(てまえ)の大鳥居(おおとりい)が画面(がめん)の奥行(おくゆ)きを出(だ)す効果(こうか)を利用(りよう)した作品(さくひん)で、それは構成(こうせい)上(じょう)成功(せいこう)していますが実際(じっさい)の風景(ふうけい)ではこのようにはいきません。
冨士(ふじ)三(さん)十(じゅう)六(ろっ)景(けい) 相模(さがみ)江之島(えのしま)入口(いりぐち)
制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)6年(ねん)(1859)。 板元(はんもと):魚栄(うおえい) この「諸国(しょこく)名所(めいしょ)百(ひゃく)景(けい)」は安政(あんせい)6年(ねん)~文久(ぶんきゅう)元年(がんねん)(1859-1861年(ねん))まで約(やく)3年間(ねんかん)で100枚(まい)近(ちか)くが出版(しゅっぱん)され、二代(にだい)歌川広重(うたがわひろしげ)の代表(だいひょう)的(てき)な作品(さくひん)となっています。この百景(ひやつけい)のうちに、武相(ぶそう)関係(かんけい)では「武州(ぶしゅう)横浜(よこはま)野毛(のげ)」があります。
諸国(しょこく)名所(めいしょ)百(ひゃっ)景(けい) 相州(そうしゅう)七(しち)里(り)が浜(はま)
製作時期(せいさくじき)安政元年(あんせいがんねん)(1854)。 板元(はんもと):丸久(まるきゅう)(丸屋久四郎(まるやきゅうしろう)) このシリーズは広重(ひろしげ)と豊国(とよくに)との双筆(そうひつ)(合作(がっさく)、描(えが)き分(わ)け)になる東海道(とうかいどう)続(つづき)ものです。 各絵(かくえ)の上部(じょうぶ)の宿駅(しゅくえき)の風景(ふうけい)を広重(ひろしげ)が描(えが)き、その下(した)に各宿(かくやど)に関係(かんけい)のある人物(じんぶつ)を豊国(とよくに)が描(えが)いていますが、二人(ふたり)の代表的(だいひょうてき)浮世絵師(うきよえし)がそれぞれ、得意(とくい)とする分野(ぶんや)を分担(ぶんたん)している人気(にんき)の高(たか)いシリーズでした。 描(えが)かれている人物(じんぶつ)は小栗判官(おぐりはんがん)伝説(でんせつ)の主人公(しゅじんこう)の一人(ひとり)、照天姫(あまのてるひめ)で、地獄(じごく)からよみがえって土車(つちぐるま)で熊野(くまの)まで送(おく)られた夫(おっと)の小栗(おぐり)を、車(くるま)の綱(つな)を引(ひ)いて運(はこ)んだという話(はなし)がこの絵(え)の題材(だいざい)です。 この話(はなし)は当時(とうじ)有名(ゆうめい)なものでしたので、特(とく)に解説(かいせつ)をしないでも、街道(かいどう)で車(くるま)を引(ひ)く女性(じょせい)というだけで照天姫(あまのてるひめ)だと分(わ)かったものでしょう。 上半部(じょうはんぶ)の風景(ふうけい)は宿場(しゅくば)からは少(すこ)し離(はな)れた南湖(なんこ)の松林(まつばやし)で、熊野(くまの)までの長(なが)い道(みち)のりを暗示(あんじ)しているようです。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)
製作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)5年(ねん)(1872)頃(ころ)。 板元(はんもと):沢村屋(さわむらや) このシリーズは上部(じょうぶ)に文人墨客(ぶんじんぼっかく)の文章(ぶんしょう)と絵(え)、下部(かぶ)には各(かく)宿駅(しゅくえき)ゆかりの故事(こじ)、伝承(でんしょう)や風景(ふうけい)が描(えが)かれています。藤沢(ふじさわ)の図(ず)は、上部(じょうぶ)に其角堂(きかくどう)(俳人(はいじん)、穂積(ほづみ)永機(えいき)[1823~1904])の俳句(はいく)を、下部(かぶ)には茶屋(ちゃや)でお茶(ちゃ)を差(さ)し出(だ)す女性(じょせい)の姿(すがた)が描(えが)かれています。 表題(ひょうだい)の「山(やま)帰(がえり)」の山(やま)とは大山(おおやま)(雨降山(あふりやま))のことで、女性(じょせい)のうしろの縁台(えんだい)には、大山(おおやま)詣(まいり)をあらわす御神酒(おみき)枠(わく)(大山(おおやま)から水(みず)や酒(さけ)を持(も)ち帰(かえ)る容器(ようき))が置(お)かれています。また、右端(みぎはし)に描(えが)かれている柱(はしら)は当時(とうじ)設置(せっち)されたばかりの「電信柱(でんしんばしら)」で、各(かく)図(ず)に描(えが)かれて明治(めいじ)の街道(かいどう)を象徴(しょうちょう)しています。
書画(しょが)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 相模(さがみ)藤沢(ふじさわ) 山(やま)帰(がえり)定(じょう)憩(けい)
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1844~1853)頃(ころ)。 板元(はんもと):山田屋庄次郎(やまだやしょうじろう)(山庄(やましょう)) 駕籠(かご)から降(お)りたばかりの3人(にん)の美人(びじん)が江(え)の島(しま)弁才天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)に詣(もうで)ようとしているところでしょうか、美人(びじん)見立(みた)ての江(え)の島(しま)詣(もうで)です。右(みぎ)の麻葉(あさば)模様(もよう)の浴衣(ゆかた)の女性(じょせい)は腰(こし)のところで細(ほそ)帯(おび)を締(し)めなおしています。中央(ちゅうおう)と左(ひだり)の女性(じょせい)は「柏木(かしわぎ)」、「早蕨(さわらび)」、「藤裏葉(ふじのうらば)」、「蜻蛉(とんぼ)」などの源氏香(げんじこう)の模様(もよう)を散(ち)らした揃(そろ)いの浴衣(ゆかた)を着物(きもの)の上(うえ)に重(かさ)ね着(き)し日傘(ひがさ)を持(も)っています。この様(よう)に普通(ふつう)の着物(きもの)の上(うえ)に浴衣(ゆかた)を着(き)るのは旅(たび)をする時(とき)の合羽(かっぱ)の代用(だいよう)によく用(もち)いたといわれます。 江(え)の島(しま)に関(かん)する他(た)の錦絵(にしきえ)に描(えが)かれた女性(じょせい)はほとんどこの装(よそお)いをしています。海辺(うみべ)の旅(たび)となる江(え)の島(しま)詣(もうで)には潮風(しおかぜ)を防(ふせ)ぐ意味(いみ)で必需品(ひつじゅひん)であったものなのでしょう。中央(ちゅうおう)の女性(じょせい)は勝山髷(かつやままげ)、左右(さゆう)の女性(じょせい)は島田髷(しまだまげ)にべっ甲(こう)の櫛(くし)、笄簪(こうがい)と銀(ぎん)の平打(ひらうち)の簪(かんざし)を飾(かざ)っています。全体(ぜんたい)に粋(いき)ないでたちは、いずれも芸事(げいごと)に関係(かんけい)する女性(じょせい)たちと考(かんが)えられます。なおこの版画(はんが)が出版(しゅっぱん)されたのは、嘉永(かえい)4年(ねん)辛亥(かのとい)(1851年(ねん))の窟(いわや)弁財天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)に合(あ)わせたとも考(かんが)えられます。この開帳(かいちょう)を明記(めいき)した作品(さくひん)を、広重(ひろしげ)は大判(おおばん)3枚(まい)続(つづき)で3組(くみ)描(えが)いており、これもその一(ひと)つです。
江(え)の嶋(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)詣(もうで)
制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ねん)~安政(あんせい)3年(ねん)(1834~1856)。 板元(はんもと):越平(こしひら) 越村屋平助(こしむらやへいすけ)から出版(しゅっぱん)された「六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)」は、玄魚(げんぎょ)の「大日本(だいにっぽん)六十余州(ろくじゅうよしゅう)名勝図会(めいしょうずえ)」の目録(もくろく)で大判(おおばん)錦絵(にしきえ)縦(たて)1枚(まい)の70枚(まい)一(いち)組(く)みからなる大作(たいさく)で、嘉永(かえい)6年(ねん)~安政(あんせい)3年(ねん)(1853-1856年(ねん))にかけて刊行(かんこう)されています。 この六十余州(ろくじゅうよしゅう)に代表(だいひょう)されるように弘化(こうか)元年(がんねん)から安政(あんせい)5年(ねん)(1844-1858年(ねん))まで、広重(ひろしげ)48才(さい)から62才(さい)で没(ぼっ)するまでの作品(さくひん)の多(おお)くは縦(たて)版(ばん)で、特(とく)に晩年(ばんねん)にあたる安政(あんせい)期(き)のシリーズ「五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ)」、「冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)」等(など)で、横(よこ)板(ばん)とはまた一味(ひとあじ)違(ちが)う効果(こうか)と情趣(じょうしゅ)を表現(ひょうげん)しようとしたあとがうかがわれます。彼(かれ)は「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」の続(ぞく)刊(かん)中(ちゅう)に病(やまい)に倒(たお)れ、安政(あんせい)5年(ねん)9月(がつ) 6日(か)未明(みめい)62才(さい)の生涯(しょうがい)を閉(と)じています。 辞世(じせい)は「車路(くるまじ)に筆(ふで)を残(のこ)して旅(たび)の空(そら)西(にし)の御国(おくに)の名(めい)ところを見舞(みまい)」とあり、死後(しご)もなお名所絵(めいしょえ)に意欲(いよく)を燃(も)やす風景(ふうけい)絵師(えし)広重(ひろしげ)らしい歌(うた)です。
六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ) 相模(さがみ)江(え)之(の)嶋(しま)岩屋(いわや)ノ(の)口(くち)
富士山(ふじさん)の真東(まひがし)にある須走(すばしり)口(ぐち)の浅間神社(あさまじんじゃ)の鳥居(とりい)の前(まえ)に集(あつ)まる人々(ひとびと)の様子(ようす)を描(えが)いています。 菅笠(すげがさ)に白装束(しろしょうぞく)をまとい、首(くび)から数珠(じゅず)をかけた先達(せんだつ)(登山(とざん)の案内人(あんないにん))が描(えが)かれています。 何人(なんにん)かが肩(かた)に背負(せお)っているのは、御(ご)三幅(みの)の入(はい)った札箱(ふだばこ)です。御(ご)三幅(みの)とは登(のぼる)拝(はい)の際(さい)に祭壇(さいだん)に掲(かか)げる3本(ほん)の掛軸(かけじく)のことで、御(ご)身抜(みぬけ)(富士(ふじ)信仰(しんこう)の世界観(せかいかん)を表(あらわ)した掛軸(かけじく))、浅間神社(あさまじんじゃ)の祭神(さいじん)である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)命(いのち)の御影(ごえい)(神仏(しんぶつ)の姿(すがた)を絵(え)に描(か)いたもの)、小(しょう)御嶽(みたけ)神(かみ)の掛軸(かけじく)、をいいます。この画(え)は、もともと団扇(うちわ)に仕立(した)てるために摺(す)られたものが、使用(しよう)されずに残(のこ)ったものです。
富士山(ふじさん)東口(ひがしぐち)須(ず)走(ばし)り之(の)図(ず)
明治(めいじ)十八年(じゅうはちねん)四月(しがつ)十五日(じゅうごにち)より、深川(ふかがわ)不動堂(ふどうどう)で成田山(なりたさん)新勝寺(しんしょうじ)の開帳(かいちょう)があり、民衆(みんしゅう)が参詣(さんけい)にきている様子(ようす)を描(えが)いたものです。開帳(かいちょう)は六十日間(ろくじゅうにちかん)おこなわれ、庶民(しょみん)に利益(りえき)を施(ほどこ)したと記(しる)されています。内陣(ないじん)の不動明王(ふどうみょうおう)を拝(おが)もうと大勢(おおぜい)の人々(ひとびと)が集(あつ)まっており、当時(とうじ)の成田山(なりたさん)の不動明王(ふどうみょうおう)信仰(しんこう)の賑(にぎ)わいが伝(つた)わってきます。
不動尊(ふどうそん)内陣(ないじん)之(の)図(ず)(船橋市(ふなばしし)西(にし)図書館(としょかん)所蔵(しょぞう))