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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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小林(こばやし)清(きよ)親(ちか)(1847-1915)の作画(さくが)期(き)は明治(めいじ)9年(ねん)(1876)から没年(ぼつねん)までで、方円(ほうえん)舎(しゃ)、真生(しんせい)楼(ろう)、真生(しんせい)などの画(が)号(ごう)があります。 明治(めいじ)の広重(ひろしげ)と称(しょう)され、写真(しゃしん)、西洋(せいよう)画(が)、日本画(にほんが)の三(みっ)つを折衷(せっちゅう)融合(ゆうごう)した“光線画(こうせんが)”という独自(どくじ)の描法を開発(かいはつ)したことで知(し)られます。 清親(きよちか)は明治(めいじ)後半(こうはん)に入(はい)るとしだいに版画(はんが)から離(はな)れ、肉筆画(にくひつが)を好(この)んで描(えが)くようになり、浮世絵師(うきよえし)から日本画家(にほんがか)に転(てん)じてしまいますが、その頃(ころ)の作品(さくひん)の一(ひと)つと考(かんが)えられます。
日本(にっぽん)名勝(めいしょう)図会(ずえ) 江(え)の島(しま)
販売(はんばい)物(ぶつ)ではない私家(しか)版(ばん)の浮世絵(うきよえ)である摺物(すりもの)です。本作品(ほんさくひん)は全(ぜん)15枚(まい)続(つづ)きのうちの1枚(まい)です。 作品(さくひん)名(めい)にある鎌倉(かまくら)志(し)は、徳川(とくがわ)光圀(みつくに)が、貞享(じょうきょう)2年(ねん)(1674)に鎌倉(かまくら)を巡視(じゅんし)した見聞録(けんぶんろく)「新編(しんぺん)鎌倉(かまくら)志(し)」からきています。同(おな)じく題名(だいめい)にある歌橋(うたはし)は、鎌倉時代(かまくらじだい)に謀反(むほん)で疑(うたが)われた渋川(しぶかわ)兼守(かねもり)という武将(ぶしょう)が荏柄(えがら)天神(てんじん)に和歌(わか)を奉納(ほうのう)し、その歌(うた)が将軍(しょうぐん)の源実朝(みなもとのさねとも)に認(みと)められ許(ゆる)された故事(こじ)からきています。その後(あと)、兼守(かねもり)が鎌倉(かまくら)の二階堂(にかいどう)川(かわ)に橋(はし)を寄進(きしん)したためその橋(はし)は歌橋(うたはし)と呼(よ)ばれるようになりました。一人目(ひとりめ)の狂歌(きょうか)の詠(よ)み人(びと)は相州(そうしゅう)雨降(あめふらし)山(やま)と記(しる)されているように神奈川県(かながわけん)伊勢原市(いせはらし)の大山(おおやま)に在(ざい)していたと思(おも)われます。
鎌倉(かまくら)志(し) 荏柄(えがら)天神(てんじん) 歌橋(うたはし)
江戸(えど)後期(こうき)の「有卦(うけ)絵(え)」というおめでたい浮世絵(うきよえ)です。有卦(うけ)絵(え)の名前(なまえ)の由来(ゆらい)は陰陽道(いんようどう)の干支(えと)に元(もと)づく幸運(こううん)が訪(おとず)れやすい年回(としまわ)りを「有卦(うけ)」といい、七年(ねん)間(かん)吉事(きちじ)(幸運(こううん))が続(つづ)くとされています。民衆(みんしゅう)宗教(しゅうきょう)のなかで有(う)掛(け)の周期(しゅうき)入(い)りした人(ひと)が知人(ちじん)や自分(じぶん)の幸運(こううん)のために有卦(うけ)絵(え)を贈(おく)りあう習慣(しゅうかん)や家(いえ)に飾(かざ)る風習(ふうしゅう)がありあました。 福(ふく)を呼(よ)び込(こ)むため「ふ」の字(じ)で始(はじ)まる日用品(にちようひん)や吉(きち)物(ぶつ)が描(えが)かれました。こちらの作品(さくひん)では七福神(しちふくじん)が宝(たから)船(ふね)に乗(の)り「ふ」の物(もの)と描(えが)かれています。右(みぎ)から毘沙門天(びしゃもんてん)と「ふく寿(じゅ)艸(そう)(草(そう))」、布袋(ほてい)と「ふくろ」、恵比寿(えびす)と「ふご(畚(ふご))」、「南極(なんきょく)老人(ろうじん)星(ほし)」の二柱(ちゅう)、福禄寿(ふくろくじゅ)と寿老人(じゅろうじん)、が一人(ひとり)ずつ「ふえ(笛(ふえ))」と「文(ふみ)ひろげ」、弁財天(べんざいてん)と「ふで(筆(ふで))」、そして大黒(だいこく)と「ふたまた(二股大根(ふたまただいこん))」がそれぞれ描(えが)かれています。さらに、「ふ」ではじまる舟唄(ふなうた)が宝船(たからぶね)の形(かたち)をとり書(か)かれています(例(れい):絵図(えず)中心(ちゅうしん)から右(みぎ)に書(か)かれている「… ふそくなき 出世(しゅっせ)の えん(縁(えん))…」。
ふな歌(うた)字(じ)うける入(いり)ふね(七福神(しちふくじん)の舩(ふね) ふの字(じ))
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)6(1809)年(ねん)。板元(はんもと):森屋治兵衛(もりやじへえ) 歌麿(うたまろ)は天明(てんめい)7年(ねん)(1787年(ねん))頃(ころ)には上野(うえの)忍岡(しのぶがおか)御数寄屋町(おすきやまち)に住(す)み、のち板元(はんもと)蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)方(かた)に寄宿(きしゅく)しています。その援助(えんじょ)を受(う)け独特(どくとく)の美人画(びじんが)を制作(せいさく)しています。特(とく)に寛政(かんせい)3年(ねん)頃(ごろ)より美人(びじん)大首絵(おおくびえ)という女性(じょせい)の上半身(じょうはんしん)を描(えが)いた作品(さくひん)が評判(ひょうばん)となります。 この作品(さくひん)は江(え)の島(しま)を描(えが)いたという判然(はんぜん)とした確証(かくしょう)はありませんが、右(みぎ)の1枚(まい)に開帳(かいちょう)の文字(もじ)が入(はい)った提灯(ちょうちん)があり、江(え)の島(しま)の雰囲気(ふんいき)を漂(ただよ)わせています。この図(ず)の主題(しゅだい)は美人画(びじんが)ですが、子(こ)どもの泳(およ)ぐさまを見物(けんぶつ)している体裁(ていさい)を取(と)っています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう))
十(じゅう)二(に)枚(まい)揃(そろい)の最後(さいご)の作品(さくひん)で、機織(はたお)り(はたおり)の様子(ようす)が描(えが)かれています。織機(しょっき)に座(すわ)る髪(かみ)を下(くだ)した女性(じょせい)が、手足(てあし)を使(つか)って絹(きぬ)を織(お)っており、右手(みぎて)には杼(ひ)(ひ)を手(て)にしています。 本作(ほんさく)は二(に)枚(まい)続(つづき)の作品(さくひん)のうちの一(いち)枚(まい)で、もう一(いち)枚(まい)には養蚕(ようさん)と日本(にっぽん)が古(ふる)くから結(むす)びついていたとする歴史(れきし)について記(しる)されています。 (上部(じょうぶ)詞書(ことばがき)) 「蚕(かいこ)の神(かみ)を祭(まつ)る事(こと)ハむかし 軻遇突智(かぐつち)(かぐつち)埴山(はにやま)姫(ひめ)(はにやまひめ)に逢(あ)いて 雅(わか)産(むす)霊(び)(わかむすび)を産(うみ) 此(この)神(かみ)の頭(あたま)に蚕(かいこ)と桑(くわ)となれり 故(ゆえ)に 日本(にっぽん)にてハ雅(わか)産(むす)霊(び)を祭(まつ)るへきものか 人皇(じんこう)二(に)十(じゅう)二(に)代(だい) 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう) 乃(の) 御(ご)后(きさき) みつから養蚕(ようさん)し給(たま)ふ 唐土(とうど)にてハ黄帝(こうてい)の后(きさき) 西(にし)綾(あや)氏(し)を始(はじめ)とする也(なり)」
女(じょ)織(しょく)蚕(かいこ)手業(てわざ)草(ぐさ) 十二(じゅうに)
女性(じょせい)たちが蚕(かいこ)の糸(いと)を紡(つむ)いで絹(きぬ)を製造(せいぞう)する「養蚕(ようさん)(ようさん)」の仕事(しごと)に励(はげ)む様子(ようす)を描(えが)いた作品(さくひん)で、実際(じっさい)には一(いち)から十二(じゅうに)まであるシリーズ作品(さくひん)となっています。また、主(おも)に紫(むらさき)を色(いろ)版(ばん)に使用(しよう)した「紫(むらさき)絵(え)(むらさきえ)」と呼(よ)ばれる色調(しきちょう)の作品(さくひん)です。 この工程(こうてい)は「糸(いと)綿(わた)(いとわた)を撰(えら)(えら)み分(わ)(わ)くる図(ず)」となっており、繭(まゆ)から取(と)り出(だ)した糸(いと)を、その色(いろ)の白(しら)さや品質(ひんしつ)などに分(わ)ける作業(さぎょう)の様子(ようす)が描(えが)かれます。 寛政(かんせい)年間(ねんかん)に行(おこな)われた錦絵(にしきえ)出版(しゅっぱん)の取(と)り締(し)まりにも関連(かんれん)して、歌麿(うたまろ)はこの時期(じき)に働(はたら)く女性(じょせい)を題材(だいざい)とした作品(さくひん)を多(おお)く描(えが)いています。 (上部(じょうぶ)詞書(ことばがき)より) 「糸(いと)綿(わた)を択(えら)み分(わく)る図(ず) 簇(まゆはり) (まゆはり)より糸(いと)をおろし 色(いろ)白(しろ)くいさぎよきを細糸(ほそいと)のまゆとし 色(いろ)黒(くろ)きを粗(あら)糸乃(いとの)まゆとす 真綿(まわた)に引(ひい)ても上中(じょうちゅう)下(げ)をゑらみ分(わか)ち 形(かたち)を作(つく)りて束(たば)綿(わた)幾(いく)ばく把(わ)とするなり」
女(じょ)織(しょく)蚕(かいこ)手業(てわざ)草(ぐさ) 十(じゅう)
江戸時代(えどじだい)において錦絵(にしきえ)を売(う)っていた絵草紙(えぞうし)屋(や)(えぞうしや)の店先(みせさき)を描(えが)いた作品(さくひん)。店先(みせさき)には錦絵(にしきえ)が所狭(ところせま)しと陳列(ちんれつ)されており、江戸時代(えどじだい)においてどのように浮世絵(うきよえ)が売(う)られていたかを知(し)ることができます。店内(てんない)の商品(しょうひん)を見(み)ると、歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)・美人(びじん)・相撲(すもう)の力士(りきし)が描(えが)かれた作品(さくひん)や、細長(ほそなが)い形(かたち)の柱絵(はしらえ)(はしらえ)と呼(よ)ばれる浮世絵(うきよえ)も見(み)られます。 本作(ほんさく)は浮世絵(うきよえ)が作(つく)られる工程(こうてい)から人々(ひとびと)の手(て)に渡(わた)るまでを田畑(たはた)の耕作(こうさく)の様子(ようす)に見立(みた)てて描(えが)いた一連(いちれん)の作品(さくひん)の内(うち)の一(いち)枚(まい)で、この作品(さくひん)の板元(はんもと)である鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)の絵草紙(えぞうし)問屋(とんや)の店先(みせさき)が描(えが)かれていると考(かんが)えられます。
江戸(えど)名物(めいぶつ)錦(にしき)画(え)耕作(こうさく) 店先(みせさき)
制作(せいさく)時期(じき):享和(きょうわ)年間(ねんかん)(1801~04)頃(ころ)。板元(はんもと):鶴(つる)新(しん) この作品(さくひん)は1月(がつ)から12月(がつ)までの12枚(まい)揃(そろい)で制作(せいさく)されたもののうちの1枚(まい)で、表題(ひょうだい)はすべて同(おな)じです。12枚(まい)全部(ぜんぶ)は確認(かくにん)されず、現在(げんざい)わかっているものは、「陬月(すうげつ)〔正月(しょうがつ)〕)の大神楽(おおかぐら)」「睦月(むつき)(むつき〔正月(しょうがつ)〕)の女郎買(じょろかい)」「皐月(さつき)(〔5月(がつ)〕)の肴(さかな)売(うり)」「水無月(みなづき)(〔6月(がつ)〕)の水(みず)売(うり)」「初秋(しょしゅう)の多満(たま)祭(さい)」「名月(めいげつ)の遊興(ゆうきょう)」「霜月(しもつき)(〔11月(がつ)〕)の神詣(かみもうで)」「玄英(げんえい) (冬(ふゆ)の別名(べつめい))の雑司(ぞうし)谷(がや)」の9点(てん)です。 この作品(さくひん)は商家(しょうか)の女房(にょうぼう)が伴(とも)の若者(わかもの)を連(つ)れて江(え)の島(しま)詣(もうで)に出(で)かける姿(すがた)を描(えが)いたもので、菅笠(すげがさ)をかぶり黒(くろ)襟(えり)のコートを着(き)て手甲(てっこう)をした女房(にょうぼう)と天秤(てんびん)で荷物(にもつ)を振(ふ)り分(わ)けて肩(かた)にかけた従者(じゅうしゃ)の姿(すがた)は、当時(とうじ)の近場(ちかば)の旅(たび)の典型(てんけい)的(てき)なスタイルです。この作品(さくひん)は他(た)に所有(しょゆう)されているところは少(すく)なく、多少(たしょう)補色(ほしょく)した部分(ぶぶん)が見(み)うけられますが、貴重(きちょう)な資料(しりょう)であるといえます。
風流(ふりゅう)四季(しき)の遊(あそび) 弥生(やよい)の江之島(えのしま)詣(もうで)