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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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『本朝(ほんちょう)廿四(にじゅうし) 孝(こう)』に登場(とうじょう)する山本勘助(やまもとかんすけ)(No.18)の老母(ろうぼ)で、演(えん)じる役者(やくしゃ)は六代目(ろくだいめ)市川(いちかわ)団蔵(だんぞう)です。本作(ほんさく)は「御油(ごゆ) 其(その)二」と外題(げだい)にもあるようにグループ1の「御油(ごゆ)」(No.18)と連動(れんどう)するように描(えが)かれています。 三段目(さんだんめ)で老母(ろうぼ)の長男(ちょうなん)横蔵(よこぞう)を嫡子(ちゃくし)景勝(かげかつ)の身代(みが)わりにするために長尾(ながお)方(かた)が家来(けらい)として取(と)り立(た)てにきます。老母(ろうぼ)は死装束(しにしょうぞく)を突(つ)きつけ横蔵(よこぞう)に家来(けらい)になるように言(い)いますが、横蔵(よこぞう)はすでに武田家(たけだけ)に支(ささ)えているため身代(みが)わりになれないと明(あ)かします。三段目(さんだんめ)の最後(さいご)に横蔵(よこぞう)は亡父(ぼうふ)の名(な)山本勘助(やまもとかんすけ)を継(つ)ぎます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 御油(ごゆ) 其(その) 二山本勘助(にやまもとかんすけ)母(はは)
小冬(こふゆ)は石川五右衛門(いしかわごえもん)を題材(だいざい)とした『木(この)下蔭(したかげ)狭間(はざま)合戦(がっせん)』に登場(とうじょう)する人物(じんぶつ)です。「壬生(みぶ)村(むら)」の段(だん)で家(いえ)の困窮(こんきゅう)により、身売(みう)りされそうになったところを義兄(ぎけい)の石川五右衛門(いしかわごえもん)(No.68)に助(たす)けられます。しかし、五右衛門(ごえもん)が盗賊(とうぞく)であると知(し)った父(ちち)治右衛門(じうえもん)が自害(じがい)しようとするのを止(と)める最中(さいちゅう)に過(よぎ)って刀(かたな)が刺(さ)さり、死(し)んでしまいます。 演(えん)じる役者(やくしゃ)は人気(にんき)の若(わか)女方(おんながた)であった三代(さんだい)目(め)市川門之助(いちかわもんのすけ)です。本図(ほんず)刊行(かんこう)時(じ)にはすでに故人(こじん)でした。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 二川(ふたがわ) 小冬(こふゆ)
平忠度(たいらのただのり)は『平家物語(へいけものがたり)』で取(と)り上(あ)げられている実在(じつざい)した武将(ぶしょう)です。忠度(ただのり)は文武(ぶんぶ)ともに優(すぐ)れた武将(ぶしょう)で、『千載(せんざい)和歌(わか)集(しゅう)』に彼(かれ)が「故郷(こきょう)の花(はな)」という題(だい)で詠(よ)んだ歌(うた)が一句(いっく)掲載(けいさい)されています。忠度(ただのり)を討(う)ったのは岡部忠澄(おかべただずみ)という武将(ぶしょう)ですが、忠澄(ただずみ)は討(う)ち取(と)った後(あと)で忠度(ただのり)と気付(きづ)き、忠澄(ただずみ)を含(ふく)め敵味方(てきみかた)で惜(お)しい人物(じんぶつ)を斬(き)ってしまったと悔(く)やんだといいます。似顔(にがお)の役者(やくしゃ)は端正(たんせい)な顔立(かおだ)ちと華(はな)やかさで人気(にんき)だった八代(はちだい)目(め)市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)です。背景(はいけい)には岡部忠澄(おかべただずみ)にちなんだと思(おも)われる岡部(おかべ)宿(しゅく)が描(えが)かれています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)ノ内(うち) 岡部(おかべ)駅(えき)ノ上(うえ) 忠度(ただのり)(八代(はちだい)目(め)市川團十郎(いちかわだんじゅうろう))
五代目(ごだいめ)沢村(さわむら)長十郎(ちょうじゅうろう)が嘉永(かえい)2年(ねん)(1849)に演(えん)じた『伊達(だて)旭盛(ぜんせい)桜(さくらの)彩(いろ)幕(まく)』の足利(あしかが)三七郎(さんしちろう)義高(よしたか)だと思(おも)われます。『伊達(だて)旭盛(ぜんせい)桜(さくらの)彩(いろ)幕(まく)』は「馬(うま)切(き)り」系統(けいとう)の演目(えんもく)で、上演(じょうえん)年(ねん)に出版(しゅっぱん)された足利(あしかが)三七郎(さんしちろう)義高(よしたか)の浮世絵(うきよえ)には「馬(うま)切(き)り」らしき場面(ばめん)を描(えが)いているものがあります。「馬(うま)切(ぎ)り」は寛政(かんせい)6年(ねん)(1794)初演(しょえん)の『けいせい青陽(せいよう)鶏(けい)』の五幕(まく)目(め)「泉州(せんしゅう)堺(さかい)大和(やまと)橋(ばし)の場(ば)」の通称(つうしょう)です。三七信孝(さんしちのぶたか)が三千両(さんぜんりょう)を積(つ)んだ馬(うま)を橋(はし)の前(まえ)で待(ま)ち伏(ぶ)せて、馬方(うまかた)を斬(き)って、三千両(りょう)を奪(うば)うという筋書(すじが)きです。 本図(ほんず)の背景(はいけい)は石薬師(いしやくし)宿(しゅく)の入口(いりぐち)を描(えが)いており、歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)の蔦屋(つたや)版(ばん)東海道(とうかいどう)を引用(いんよう)しています。また、外題(げだい)の短冊(たんざく)枠(わく)には「馬(うま)切(き)り」にちなんで橋(はし)と千両(ちぎり)箱(はこ)と思(おも)わしきものがあしらわれています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 石薬師(いしやくし) よし高(たか)(五代目(ごだいめ)沢村(さわむら)長十郎(ちょうじゅうろう))
昔話(むかしがたり)黄鳥(うぐいす)塚(づか)』(通称(つうしょう)「鶯塚(おうずか)」)の敵役(かたきやく)である大八(だいはち)(大仁(だいじん)坊(ぼう))を描(えが)いていると思(おも)われます。演(えん)じる役者(やくしゃ)は四代目(だいめ)大谷(おおや)友右衛門(ともえもん)です。 『昔話(むかしがたり)黄鳥(うぐいす)塚(づか)』は栗(りつ)杖(じょう)亭(てい)鬼卵(きらん)の読本(とくほん)を基(もと)にした演目(えんもく)で、長者(ちょうじゃ)の娘(むすめ)梅ヶ枝(うめがえ)の鶯(うぐいす)を助(たす)けたことがきっかけで、長者(ちょうじゃ)の婿(むこ)になった佐々木(ささき)源之助(げんのすけ)が鶯(うぐいす)の助(たす)けで親(おや)の敵(てき)を討(う)つ物語(ものがたり)です。 背景(はいけい)は画面(がめん)中央(ちゅうおう)の鳥居(とりい)及(およ)び鳥居前(とりいまえ)の松(まつ)の木(き)の描写(びょうしゃ)から歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)の蔦屋(つたや)版(ばん)東海道(とうかいどう)を引用(いんよう)したものだと思(おも)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 四日市(よっかいち) 鶯塚(うぐいすづか)大八(だいはち)
『廓文章(くるわのぶんしょう)』というこの演目(えんもく)は通称(つうしょう)「吉田屋(よしだや)」と呼(よ)ばれ、吉田屋(よしだや)の夕霧(ゆうぎり)という遊女(ゆうじょ)が豪商(ごうしょう)の若旦那(わかだんな)の伊左衛門(いさえもん)に身請(みう)けされるまでを描(えが)いた作品(さくひん)です。近松(ちかまつ)門左衛門(もんざえもん)作(さく)の人形(にんぎょう)浄瑠璃(じょうるり)『夕霧(ゆうぎり)阿波(あわの)鳴渡(なると)』の「吉田屋(よしだや)の段(だん)」を、歌舞伎(かぶき)の世話物(せわもの)に書(か)き換(か)えた演目(えんもく)です。演(えん)じているのは四代目(よだいめ)尾上梅幸(おのえばいこう)(四代目(よだいめ)尾上菊五郎(おのえきくごろう))は品(しな)のある風貌(ふうぼう)で人気(にんき)の女形(おんながた)でした。 背景(はいけい)には豊川(とよかわ)に架(か)けられた吉田(よしだ)大橋(おおはし)と吉田城(よしだじょう)とが描(えが)かれており、歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)の蔦屋(つたや)版(ばん)東海道(とうかいどう)を引用(いんよう)したものだと思(おも)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 吉田(よしだ)之(の)駅(えき) 夕霧(ゆうぎり)(四代目(よだいめ)尾上梅幸(おのえばいこう)(四代目(よだいめ)尾上菊五郎(おのえきくごろう))
『博多(はかた)小(こ)女郎(じょろう)波枕(なみまくら)』に登場(とうじょう)する博多(はかた)の奥田(おくだ)屋(や)の遊女(ゆうじょ)小(こ)女郎(じょろう)が描(えが)かれています。演(えん)じる役者(やくしゃ)は三代(さんだい)岩井粂三郎(いわいくめさぶろう)です。小(こ)女郎(じょろう)は知(し)らずに乗(の)り合(あ)わせた海賊船(かいぞくせん)で密輸(みつゆ)の現場(げんば)を目撃(もくげき)して海(うみ)に投(な)げ込(こ)まれた小町屋(こまちや)宗七(そうしち)の恋人(こいびと)です。 背景(はいけい)は海上(かいじょう)一里(いちり)といわれた今切(いまぎれ)の渡(わた)しを船(ふね)が対岸(たいがん)(西岸(せいがん))の荒(あら)井宿(いじゅく)へと向(む)かっている様子(ようす)が描(えが)かれています。遠景(えんけい)に見(み)える船(ふね)の描写(びょうしゃ)から歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)の蔦屋(つたや)版(ばん)東海道(とうかいどう)を引用(いんよう)したものだと思(おも)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 荒井(あらい)駅(えき) 小(こ)女郎(じょろう)(三代目(さんだいめ)岩井粂三郎(いわいくめさぶろう))
『三千両(さんぜんりょう)初(はつ)春駒(はるのこま)曳(ひき)』に登場(とうじょう)する小早川(こばやかわ)帯刀(たてわき)です。織田(おだ)信長(のぶなが)の後継者(こうけいしゃ)争(あらそ)いの話(はなし)です。帯刀(たてわき)は小田(おだ)家(け)の家臣(かしん)です。役者(やくしゃ)は二代目(にだいめ)関(せき)三十郎(さんじゅうろう)で、本図(ほんず)刊行(かんこう)時(じ)にはすでに故人(こじん)でした。 背景(はいけい)には日坂(にっさか)宿(しゅく)の近(ちか)くに位置(いち)する中山(なかやま)峠(とうげ)が描(えが)かれています。道(みち)の真(ま)ん中(なか)にある大(おお)きな石(いし)、夜(よ)啼(なき)石(いし)を、旅人(たびびと)が見(み)ています。歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)の蔦屋(つたや)版(ばん)東海道(とうかいどう)をコピーしています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 日坂(にっさか) 小早川(こばやかわ)帯刀(たてわき)(二代目(にだいめ)関(せき)三十郎(さんじゅうろう))