Fujisawa Net Museum

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製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14(ねん)(1843)~弘化(こうか)4(ねん)(1847)。
板元(はんもと):伊勢屋市兵衛(いせやいちべえ)

 落雷(らくらい)()れる(なみ)表現(ひょうげん)がダイナミックに(えが)かれた本作(もとさく)には、平塚(ひらつか)にある「馬入川(ばにゅうがわ)」の()由来(ゆらい)(かか)わる伝説(でんせつ)(しる)されています。

詞書(ことばがき)()むと「建久(けんきゅう)9(ねん)(1198)の12(がつ)稲毛(いなげ)三郎(さぶろう)相模川(さがみがわ)に(()(つま)のために(つく)った(はし)の)橋供養(はしくよう)(はし)完成(かんせい)した(とき)におこなう儀式(ぎしき))を(おこな)った。 源頼朝(みなもとのよりとも)もそれに参列(さんれつ)したが、その(さい)落雷(らくらい)により()っていた(うま)(かわ)(はい)()んでしまった。これにより馬入川(ばにゅうがわ)()ばれるようになった。」という内容(ないよう)になっています。

このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)三代(さんだい)豊国(とよくに)国芳(くによし)3人(さんにん)当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)分担(ぶんたん)して(えが)いたものです。風景(ふうけい)(すく)なく人物(じんぶつ)(おも)とし、(した)3(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)史跡(しせき)著名(ちょめい)出来事(できごと)(など)(えが)き、(うえ)3(ぶん)の1に(した)()説明(せつめい)がなされています。

東海道五十三対 平塚

東海道(とうかいどう)()(じゅう)(さん)(つい) 平塚(ひらつか)

製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14(ねん)(1843)~弘化(こうか)4(ねん)(1847)。
板元(はんもと):海老屋林之助(えびやりんのすけ)

川崎(かわさき)」で(えが)かれた新田義興(にったよしおき)最期(さいご)訃報(ふほう))を、家臣(かしん)篠塚(しのづか)八郎(はちろう)故郷(こきょう)(しろ)(おな)じく義興(よしおき)家臣(かしん)たちに()げています。画面(がめん)手前(てまえ)八郎(はちろう)所作(しょさ)大胆(だいたん)(えが)かれており、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)人形(にんぎょう)(うご)きに見立(みた)てた表現(ひょうげん)となっています。
このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)三代(さんだい)豊国(とよくに)国芳(くによし)の3(にん)当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)分担(ぶんたん)して(えが)いたものです。風景(ふうけい)(すく)なく人物(じんぶつ)(おも)とし、(した)3(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)史跡(しせき)著名(ちょめい)出来事(できごと)(など)(えが)き、(うえ)3(ぶん)の1に(した)()説明(せつめい)がなされています。

東海道五十三対 保土ヶ谷

東海道(とうかいどう)()(じゅう)(さん)(つい) 保土ヶ谷(ほどがや)

柳亭種彦(りゅうていたねひこ)未完(みかん)長編(ちょうへん)草双紙(くさぞうし)】。
挿絵(さしえ)歌川国貞(うたがわくにさだ)文政(ぶんせい)12(ねん)(1829(ねん)) - 天保(てんぽう)13(ねん)(1842(ねん)(かん)大当(おおあ)たりし、14(ねん)(わた)って執筆(しっぴつ)種彦(たねひこ)代表作(だいひょうさく)となりましたが、作者(さくしゃ)筆禍(ひっか)当時(とうじ)政治(せいじ)(たい)しての不満(ふまん)(とう)(しる)(ばっ)せられる意味(いみ))と死去(しきょ)により、(だい)38(へん)(152(さつ))までに()わっています。紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語(げんじものがたり)』を下敷(したじ)きにし、時代(じだい)平安時代(へいあんじだい)から室町時代(むろまちじだい)(うつ)して、将軍(しょうぐん)足利義政(あしかがよしまさ)妾腹(しょうふく)()光氏(みつうじ)が、将軍位(しょうぐんい)(ねら)山名宗全(やまなそうぜん)(おさ)えるため、光源氏(ひかるげんじ)(てき)好色遍歴(こうしょくへんれき)(よそお)いながら、宗全一味(そうぜんいちみ)をはかりごとで(ほろ)ぼした(のち)京都(きょうと)(もど)り、将軍後見役(しょうぐんこうけんやく)となって栄華(えいが)(きわ)める、という内容(ないよう)です。

偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)

(こう)提携宿(ていけいやど)(とう)(しる)した【道中記(どうちゅうき)講帳(こうちょう))】。
江戸日本橋(えどにほんばし)から東海道(とうかいどう)伊勢参宮道(いせさんぐうみち)大和廻り順道(やまとめぐりじゅんみち)(とう)定宿(じょうやど)(しる)しています。
関東講(かんとうこう)浪花講(なにわこう)文化元年(ぶんかがんねん)(1804)結成(けっせい))と前後(ぜんご)して創設(そうせつ)された(たび)講中(こうじゅう)で、旅人(たびびと)安心(あんしん)して()まれる旅籠屋(はたごや)提供(ていきょう)するため、主要街道(しゅようかいどう)優良(ゆうりょう)旅籠屋(はたごや)指定(してい)し、組合(くみあい)(はい)ってもらい、旅籠屋(はたごや)には目印(めじるし)看板(かんばん)(かか)げられていました。
()(しま)定宿(じょうやど)江戸(えど)忠五郎(ちゅうごろう)(えびす)吉右衛門(きちえもん)藤沢宿(ふじさわしゅく)蔦屋(つたや)又兵衛(またべい)四ッ谷(よつや)()(羽)()(とり)八左衛門(はちざえもん)(しる)されています。

関東(かんとう)(こう) 江戸(えど)(くみ) 月参(げっさん)(こう) 定宿(じょうやど)判取帳(はんとりちょう)



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