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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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講(こう)の提携宿(ていけいやど)等(とう)を記(しる)した【道中記(どうちゅうき)(講帳(こうちょう))】。 江戸日本橋(えどにほんばし)から東海道(とうかいどう)、伊勢参宮道(いせさんぐうみち)、大和廻り順道(やまとめぐりじゅんみち)等(とう)の定宿(じょうやど)を記(しる)しています。 関東講(かんとうこう)は浪花講(なにわこう)(文化元年(ぶんかがんねん)(1804)結成(けっせい))と前後(ぜんご)して創設(そうせつ)された旅(たび)の講中(こうじゅう)で、旅人(たびびと)に安心(あんしん)して泊(と)まれる旅籠屋(はたごや)を提供(ていきょう)するため、主要街道(しゅようかいどう)の優良(ゆうりょう)旅籠屋(はたごや)を指定(してい)し、組合(くみあい)に入(はい)ってもらい、旅籠屋(はたごや)には目印(めじるし)の看板(かんばん)が掲(かか)げられていました。 江(え)の島(しま)の定宿(じょうやど)は江戸(えど)や忠五郎(ちゅうごろう)と戎(えびす)や吉右衛門(きちえもん)。藤沢宿(ふじさわしゅく)は蔦屋(つたや)又兵衛(またべい)。四ッ谷(よつや)は八(は)(羽)(は)鳥(とり) や八左衛門(はちざえもん)が記(しる)されています。
関東(かんとう)講(こう) 江戸(えど)組(くみ) 月参(げっさん)講(こう) 定宿(じょうやど)判取帳(はんとりちょう)
大(だい)ヒットした国貞(くにさだ)の「役者(やくしゃ)見立(みたて)東海道(とうかいどう)」シリーズに先(さき)がけて刊行(かんこう)された役者東海道(やくしゃとうかいどう)シリーズの一枚(いちまい)です。 「神奈川(かながわ)」の場面(ばめん)を描(えが)いています。大山詣(おおやままいり)の一行(いっこう)が江戸(えど)を出(で)たあとの一泊目(いっぱくめ)は、神奈川(かながわ)や保土ヶ谷(ほどがや)で宿(やど)をとることが多(おお)かったようです。 本画(ほんが)は、「いざ大山(おおやま)へ」という出で立(いでたち)で、大山(おおやま)へ奉納(ほうのう)する木太刀(きだち)と、大森(おおもり)(現(げん)・東京都大田区(とうきょうとおおたく))名物(めいぶつ)の麦藁細工(むぎわらざいく)の纏(まとい)を担(かつ)いでいます。
見立(みたて)役者(やくしゃ)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つぎ)ノ内(うち) 神名川(かながわ) 秀調(しゅうちょう)
日本(にほん)の各国(かっこく)(令制国(りょうせいこく))の名勝(めいしょう)が、その地(ち)の説明文(せつめいぶん)と共(とも)に描(えが)かれた三代(さんだい)広重(ひろしげ)によるシリーズ作品(さくひん)です。相模国(さがみのくに)の勝景(しょうけい)としては江の島岩屋(えのしまいわや)の風景(ふうけい)が選(えら)ばれ、奥(おく)には富士(ふじ)を望(のぞ)みます。
日本(にっぽん)六(ろく)拾(じつ)二洲(にしゅう)地誌(ちし)略図(りゃくず) 相模国(さがみのくに) 江之島(えのしま)岩屋(いわや)
制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい)。 落款(らっかん)なし 泥絵(どろえ)とは、泥絵具(どろえのぐ)という粗悪(そあく)な顔料(がんりょう)に胡粉(ごふん)を混(ま)ぜた絵具(えのぐ)で描(えが)いたもので、宝暦(ほうれき)頃(ごろ)を最初(さいしょ)として、19世紀(せいき)前半(ぜんはん)頃(ごろ)まで職人(しょくにん)画工(がこう)の手(て)で作(つく)られた遠近法(えんきんほう)を主体(しゅたい)とした洋風(ようふう)表現(ひょうげん)の強(つよ)い絵(え)のことです。 眼鏡絵(めがねえ)として制作(せいさく)されたものが多(おお)いので、銅版(どうはん)や木版(もくはん)で制作(せいさく)された作品(さくひん)以外(いがい)の肉筆(にくひつ)眼鏡絵(めがねえ)を泥絵(どろえ)と称(しょう)する場合(ばあい)もあります。この絵(え)も左右(さゆう)逆(ぎゃく)影(かげ)に描(えが)かれており、のぞき眼鏡(めがね)用(よう)に制作(せいさく)されたものであることがわかります。 作品(さくひん)としては、中国(ちゅうごく)やオランダから渡来(とらい)した「覗(のぞ)きからくり」のための絵(え)を宝暦(ほうれき)年間(ねんかん)(1751-1764年(ねん))に円山応挙(まるやまおうきょ)が制作(せいさく)したのが最初(さいしょ)のものと言(い)われています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)風景(ふうけい))
忠臣蔵(ちゅうしんぐら)の物語(ものがたり)を扱(あつか)った『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の登場人物(とうじょうじんぶつ)が、人気役者(にんきやくしゃ)の似顔(にがお)で描(えが)かれたシリーズのうちの一(ひと)つです。描(えが)かれた人物(じんぶつ)は四代目(よんだいめ)瀬川路考(せがわろうこう)の戸無瀬(となせ)、初代(しょだい)瀬川仙女(せがわせんじょ)の小浪(こなみ)という母娘(おやこ)で、二人(ふたり)は東海道(とうかいどう)を通(とお)り、小浪(こなみ)の許婚(いいなずけ)である大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)(史実(しじつ)の大石内蔵助(おおいしくらのすけ))の息子(むすこ)である大星力弥(おおぼしりきや)に会(あ)いに行(い)きます(八段目(はちだんめ)「道行旅路嫁入(みちゆきたびじのよめいり)」)。物語物語中(ものがたりちゅう)では二人(ふたり)が江の島(えのしま)に向(む)かうという設定(せってい)はありませんが、旅(たび)の情景(じょうけい)を表(あらわ)すために東海道(とうかいどう)の寄(よ)り道(みち)として多(おお)くの人(ひと)が訪(おとず)れた江の島(えのしま)を背景(はいけい)に用(もち)いたと考(かんが)えられます。
役者(やくしゃ)見立(みたて)忠臣蔵(ちゅうしんぐら)八(はち)段(だん)目(め)之(の)図(ず)
鮮(あざ)やかな赤(あか)を背景(はいけい)に「浜松屋(はままつや)」の一場面(いちばめん)が描(えが)かれます。「浜松屋(はままつや)」は弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)がもろ肌脱(はだぬ)ぎで名台詞(めいぜりふ)を述(の)べるのが見所(みどころ)の場面(ばめん)です。 「浜松屋(はままつや)」のあらすじは、呉服屋(ごふくや)の浜松屋(はままつや)に良家(りょうけ)の令嬢(れいじょう)が現(あらわ)れ婚礼(こんれい)の衣装(いしょう)を買(か)いに来(き)ますが、万引(まんび)きしたとして店(みせ)の者(もの)と言(い)い争(あらそ)いになります。しかし、その令嬢(れいじょう)が実(じつ)は弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)で、罪(つみ)を着(き)せられたとして店(みせ)から金(かね)をゆすり取(と)ろうとします。そこに日本駄右衛門(にっぽんだえもん)が善人(ぜんにん)のふりをして現(あらわ)れ、弁天小僧(べんてんこぞう)の正体(しょうたい)を暴(あば)きます。バレては仕方(しかた)ないと、弁天小僧(べんてんこぞう)は着物(きもの)を脱(ぬ)ぎ、「知(し)らざぁいって聞(き)かせやしょう」台詞(せりふ)へと繋(つな)がります。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より白浪(しらなみ)五(ご)人(にん)男(おとこ))
弁天小僧(べんてんこぞう)、日本駄右衛門(にっぽんだえもん)、南郷力丸(なんごうりきまる)の三人(さんにん)が浜松屋(はままつや)の主人(しゅじん)幸兵衛(こうべえ)を囲(かこ)んでおり、床(ゆか)には「千両(せんりょう)」という大金(たいきん)が置(お)かれています。弁天小僧(べんてんこぞう)と南郷力丸(なんごうりきまる)が一(いち)度(ど)は浜松屋(はままつや)から引(ひ)き上(あ)げた後(のち)、日本駄右衛門(にっぽんだえもん)の手引(てび)きで再(ふたた)び浜松屋(はままつや)に押(お)し入(い)り、有(あ)り金(がね)全(すべ)てを奪(うば)い取(と)ろうとする「蔵前(くらまえ)」の場面(ばめん)を描(えが)いています。 女性物(じょせいもの)の艶(つや)やかな着物(きもの)を着崩(きくず)し、片手(かたて)に盃(さかずき)を持(も)ちながら腰掛(こしか)ける弁天小僧(べんてんこぞう)の姿(すがた)は、まさに粋(いき)な盗賊(とうぞく)といった様子(ようす)です。
手前(てまえ)には、美男子(びだんし)であったと名高(なだか)い八代目(はちだいめ)市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)演(えん)じる松若丸(まつわかまる)(画中(がちゅう)では松若(まつわか))が描(えが)かれ、画題枠(がだいわく)には「戸塚藤沢宿間(とつかふじさわしゅくかん) 吉田橋(よしだばし)」と書(か)かれていますが、背景(はいけい)には吉田橋(よしだばし)は描(えが)かれておりません。戸塚(とつか)の吉田橋(よしだばし)は柏尾川(かしおがわ)に架(か)かる橋(はし)で、東海道(とうかいどう)と鎌倉(かまくら)へと向(む)かう道(みち)への分岐点(ぶんきてん)でもありました。吉田橋(よしだばし)に松若丸(まつわかまる)が描(えが)かれた理由(りゆう)は、松若丸(まつわかまる)が京(きょう)の公家(くげ)である「吉田家(よしだけ)」の子息(しそく)という設定(せってい)に拠(よ)るものです。松若丸(まつわかまる)は謡曲(ようきょく)『隅田川(すみだがわ)』をアレンジした「隅田川(すみだがわ)もの」歌舞伎(かぶき)において、悲劇(ひげき)の死(し)を遂(と)げる少年(しょうねん)「梅若丸(うめわかまる)」の双子(ふたご)の兄(あに)として登場(とうじょう)します。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 戸塚(とつか)藤沢(ふじさわ)間(かん) 吉田橋(よしだばし) 松若(まつわか)