ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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雨上(あめあ)がりの虹(にじ)が後景(こうけい)の空(そら)に描(えが)かれています。画面(がめん)手前(てまえ)で争(あらそ)っている人足(にんそく)たちは、雨宿(あまやど)りの間(あいだ)に博打(ばくち)をしていたのでしょうか、地面(じめん)には一文(いちもん)銭(せん)が散(ち)らばっています。脚(きゃ)絆(はん)の柄(がら)が違(ちが)うことから、グループ間(かん)の諍(いさかい)いであることも伺(うかが)えます。画面(がめん)奥(おく)にむかって下(くだ)り坂(ざか)となっており、御(お)長柄(ながえ)の先端(せんたん)が見(み)え、行列(ぎょうれつ)が先(さき)に進(すす)んでいることがわかります。2人(ふたり)の従者(じゅうしゃ)が慌(あわ)てて行列(ぎょうれつ)に追(お)いつこうとしています。
東海道(とうかいどう) 程(ほど)ヶ(が)谷(や) 其二(そのに)
制作(せいさく)時期(じき):安政(やすまさ)元年(がんねん)(1854)2月(がつ)。 板元(はんもと):蔦(つた)吉(きち) これは「相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)眺望(ちょうぼう)」と対(つい)で、蔦(つた)吉(きち)から出版(しゅっぱん)された中(なか)短冊(たんざく)版(ばん)です。「武相(ぶそう)名所(めいしょ)手鑑(てかがみ)」のための武相(ぶそう)旅行(りょこう)は、5月10日(がつとおか)から6月(がつ)24日(にじゅうよっか)までの45日間(にちかん)におよび、金沢八景(かなざわはっけい)、浦賀(うらが)、秋屋(あきや)、鎌倉(かまくら)、江(え)の島(しま)、大磯(おおいそ)、湯本(ゆもと)、箱根(はこね)を巡(めぐ)る大(だい)旅行(りょこう)でした。この時(とき)書(か)き残(のこ)した「武(ぶ)相(そう)旅(たび)絵日記(えにっき)」を下地(したじ)にしたものが嘉永(かえい)6年(ねん)(1853年(ねん))以後(いご)の作品(さくひん)に多(おお)く、これもその一(ひと)つです。特(とく)にこれら対(つい)の作品(さくひん)は、「秋屋(あきや)の海岸(かいがん)高所(こうしょ)から見(み)た図(ず)」や「秋屋(あきや)の海岸(かいがん)」(両方(りょうほう)肉筆(にくひつ))の二幅(にふく)と構図(こうず)がよく似(に)ています。
鎌倉(かまくら)七里(しちり)が浜(はま)風景(ふうけい)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)~13年(ねん)(1840~1843)頃(ころ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 諸国(しょこく)名所(めいしょ)というシリーズもので、1「京(きょう)嵐山(あらしやま)渡月橋(とげつきょう)」、2「京師(けいし)清水寺(きよみずでら)」、3「下総(しもうさ)利根川(とねがわ)」、4「上州(じょうしゅう)榛名(はるな)山奥(やまおく)之(の)院(いん)」、5「上州(じょうしゅう)伊香保(いかほ)湯里(ゆさと)」、6「信州(しんしゅう)更科(さらしな)田毎月(たごとのつき)」、7「信州(しんしゅう)諏訪湖(すわこ)」、8「駿河(するが)三保(みほ)浦(うら)」、9「勢州(せいしゅう)二見浦(ふたみのうら)」、10「摂州(せっしゅう)住吉(すみよし)出見(いでみ)浜(はま)」、11「相州(そうしゅう)江之島(えのしま)」、12「相州(そうしゅう)七里浜(しちりがはま)」、13「浪花(なにわ)天保山(てんぽうざん)風景(ふうけい)」、14「箱根(はこね)湯治場(とうじば)」、15「播州(ばんしゅう)舞子(まいこ)浜(はま)」、16「武州(ぶしゅう)金沢八景(かなざわはっけい)」、17「武州(ぶしゅう)小金井(こがねい)」、18「武州(ぶしゅう)玉河(たまかわ)之(の)図(ず)」、19「武州(ぶしゅう)杉田(すいた)梅(うめ)図(ず)」、20「陸奥(むつ)松島(まつしま)風景(ふうけい)」です。 大(おお)きさは大判(おおばん)を四(よん)分(ぶん)の一(いち)にした小品(しょうひん)ですが、広重(ひろしげ)の脂(あぶら)の乗(の)り切(き)った頃(ころ)の作品(さくひん)で、遠近(えんきん)感(かん)のある気品(きひん)の高(たか)い作品(さくひん)となっています。島(しま)へ向(むか)う人々(ひとびと)を点景(てんけい)人物(じんぶつ)として大鳥居(おおとりい)を描(えが)き、島(しま)の前(まえ)に点在(てんざい)する人家(じんか)を配置(はいち)し、その後(ご)に江(え)の島(しま)の木々(きぎ)を描写(びょうしゃ)しています。
諸国(しょこく)名所(めいしょ) 相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)~13年(ねん)(1840~1843)頃(ころ)。 板元(はんもと):森屋治兵衛(もりやじへえ) これは広重(ひろしげ)自身(じしん)の描(えが)いた「東海道(とうかいどう)之(の)内江(うちえ)ノ嶋路(しまじ)片瀬(かたせ)自(じ)七(しち)面(めん)山見(ざんみ)浜辺(はまべ)」に構図(こうず)が類似(るいじ)しています。制作(せいさく)年代(ねんだい)が5・6年(ねん)こちらの方(ほう)が後(あと)であることから、それを参考(さんこう)にしたことが考(かんが)えられます。図柄(ずがら)としては前作(ぜんさく)の構成(こうせい)の非凡(ひぼん)さに較(くら)べてかなり平凡(へいぼん)なものです。シリーズものではない各地(かくち)の名所(めいしょ)を描(えが)いた単発(たんぱつ)ものは他(た)にも多(おお)くありますが、祭礼(さいれい)・行事(ぎょうじ)に関係(かんけい)するもの以外(いがい)には、概(がい)して出来(でき)ばえの良(よ)いものは少(すく)ないようです。 ただ逆(ぎゃく)に広重(ひろしげ)の作品(さくひん)をたどって見(み)ると、ほとんどがシリーズものであったことが分(わ)かります。江(え)の島(しま)に関(かん)したものでもそうしたことがいえ、単発(たんぱつ)に発行(はっこう)されたものの多(おお)くは、祭礼(さいれい)か御(ご)開帳(かいちょう)とかに関係(かんけい)があったように考(かんが)えられます。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)之(の)図(ず)
赤(あか):八重垣姫(やえがきひめ)(『本朝(ほんちょう)廿(にじゅう)四(し)孝(こう)』より) 華(はな)やかな赤(あか)い振袖(ふりそで)を着(き)た「八重垣姫(やえがきひめ)」が描(えが)かれています。なお『本朝(ほんちょう)廿(にじゅう)四(し)孝(こう)』などの時代物(じだいもの)の歌舞伎(かぶき)に登場(とうじょう)するお姫様(ひめさま)を“赤姫(あかひめ)”と呼(よ)び、赤(あか)い着物(きもの)を着(き)ることが定番(ていばん)となっています。 八重垣姫(やえがきひめ)は上杉謙信(うえすぎけんしん)のひとり娘(むすめ)、また武田信玄(たけだしんげん)の息子(むすこ)「勝頼(かつより)」の許婚(いいなづけ)でもあるという設定(せってい)です。手(て)に持(も)っているのは武田家(たけだけ)の宝(たから)の一(ひと)つ「諏訪法性(すわほっしょう)の御兜(おんかぶと)」で、物語中(ものがたりちゅう)の重要(じゅうよう)なアイテムの一(ひと)つです。 兜(かぶと)の白(しろ)い毛(け)部分(ぶぶん)や着物(きもの)の裾(すそ)には空摺(からず)りが施(ほどこ)されています。空摺(からず)りとは版木(はんぎ)に絵(え)の具(ぐ)をつけず、刷り圧(すりあつ)だけで紙面(しめん)に模様(もよう)をつける技法(ぎほう)のことです。 五行説(ごぎょうせつ)において重要(じゅうよう)な色(いろ)とされていた「黄(き)」「青(あお)」「赤(あか)」「白(しろ)」「黒(くろ)」の5色(しょく)に、それぞれ美人(びじん)が当(あ)てはめて描(えが)かれています。またこの美人(びじん)たちは、歌舞伎(かぶき)の登場人物(とうじょうじんぶつ)に擬(なぞら)えて描(えが)かれており、各色(かくしょく)は、その役(やく)が決(き)まって着(き)る衣装(いしょう)の色(いろ)と対応(たいおう)しています。 「青(あお)」に描(えが)かれているのは、小栗判官(おぐりはんがん/rt>)ものの物語(ものがたり)に登場(とうじょう)する照手姫(てるてひめ)。小栗判官(おぐりはんがん)は藤沢(ふじさわ)の遊行寺(ゆぎょうじ)とゆかりのある人物(じんぶつ)で、する照手姫(てるてひめ)は小栗判官(おぐりはんがん)の恋人(こいびと)です。
五(いつつ)衣(きぬ)色(いろの)染分(そめわけ) 赤(あか)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)3年(ねん)(1832)。 板元(はんもと):藤岡屋彦太郎(ふじおかやひこたろう)、 松原(まつばら)堂(どう) この本朝(ほんちょう)名所(めいしょ)シリーズも全部(ぜんぶ)で15点(てん)あり、1「天橋立(あまのはしだて)」、2「遠州(えんしゅう)秋葉山(あきばさん)」、3「大阪(おおさか)天保山(てんぽうざん)」、4「薩摩(さつま)富士(ふじ)」、5「三州(みしま)鳳来寺(ほうらいじ)行者越(ぎょうじゃごえ)」、6「信州(しんしゅう)更科(さらしな)田毎(たごと)之(の)月(つき)」、7「駿州(すんしゅう)清見(きよみ)が関(せき)」、8「駿州(すんしゅう)冨士川(ふじがわ)渡船(わたりぶね)之(の)図(ず)」、9「摂州(せっしゅう)住吉(すみよし)出見(いでみ)之(の)浜(はま)」、10「摂州(せっしゅう)布引(ぬのびき)之(の)滝(たき)」、11「相州(そうしゅう)江(え)ノ嶋(しま)岩屋(いわや)之(の)図(ず)」、12「相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)」、13「箱根(はこね)湯治場(とうじば)之(の)図(ず)」、14「播州(ばんしゅう)舞子(まいこ)之(の)浜(はま)」、15「武州(ぶしゅう)金沢八景(かなざわはっけい)」です。制作(せいさく)年代(ねんだい)には多少(たしょう)のずれがあり、この作品(さくひん)は天保(てんぽう)3年(ねん)頃(ごろ)の作(さく)とされています。 この作品(さくひん)は中(なか)でも出色(しゅっしょく)の一(ひと)つとされ、岩屋(いわや)にいる人物(じんぶつ)に襲(おそ)いかかろうとする大波(おおなみ)が、大胆(だいたん)でダイナミックな構図(こうず)の中心(ちゅうしん)をなしています。事実(じじつ)、岩屋(いわや)へ向(むこ)う道(どう)は大波(おおなみ)のためにしばしば通行止(つうこうど)めになったといわれます。また、これと色(いろ)ちがいの作品(さくひん)も存在(そんざい)しています。
本朝(ほんちょう)名所(めいしょ) 相州(そうしゅう)江(え)ノ嶋(しま)岩屋(いわや)之(の)図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)末期(まっき)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 小高(こだか)い丘(おか)の上(うえ)から見下(みお)ろすように七里ヶ浜(しちりがはま)が描(えが)かれており、腰越(こしごえ)あたりから見(み)た風景(ふうけい)であると考(かんが)えられます。わずかに覗(のぞ)く浜辺(はまべ)には、笠(かさ)を被(かぶ)り、杖(つえ)を持(も)った旅人(たびびと)達(たち)が往来(おうらい)する様子(ようす)が描(えが)かれます。遠景(えんけい)には雪(ゆき)を頂(いただ)いた富士(ふじ)が描(えが)かれ、上空(じょうくう)にある朱色(しゅいろ)が夕焼(ゆうやけ)のような趣(おもむき)を見(み)せています。 小判(こばん)(こばん)という小(こ)さい画面(がめん)にも、青(あお)・朱(しゅ)・緑(みどり)・黄(き)の色(いろ)がバランスよく配(はい)されていることが本作(もとさく)の特徴(とくちょう)です。 この作品(さくひん)は「相州(そうしゅう)名所(めいしょ)江(え)之(の)嶋(しま)金亀(こんき)山(さん)之(の)図(ず)」と2枚(まい)1組(くみ)で出版(しゅっぱん)されたもので、ふつう相模(さがみ)の名所(めいしょ)と言(い)えば、江(え)の島(しま)に次(つ)いで七里ガ浜(しちりがはま)が画題(がだい)としてとりあげられることが多(おお)いのですが、この作品(さくひん)は七里ガ浜(しちりがはま)の風景(ふうけい)を描(えが)いたと言(い)うよりは「七里ガ浜(しちりがはま)より江(え)の島(しま)富士(ふじ)遠望(えんぼう)」というべき構図(こうず)です。広重(ひろしげ)の視点(してん)は七里ガ浜(しちりがはま)を見(み)おろす小高(こだか)い丘(おか)の上(うえ)から、遠(とお)く水平線(すいへいせん)上(じょう)の江(え)の島(しま)と富士(ふじ)を眺望(ちょうぼう)している図(ず)で、あの美(うつく)しく弧(こ)を描(えが)くように続(つづ)く七里ガ浜(しちりがはま)は、画面(がめん)の下隅(したすみ)にわずかに人(ひと)の歩(ある)く姿(すがた)でそれとわかる程度(ていど)にしか描(えが)かれていません。画面(がめん)の中心(ちゅうしん)はあくまでも江(え)の島(しま)と富士(ふじ)です。 七里ガ浜(しちりがはま)の腰越(こしごえ)のあたりから見(み)た風景(ふうけい)でしょうか。雪(ゆき)を頂(いただ)いた富士(ふじ)とその上空(じょうくう)の朱(しゅ)のぼかしがあたかも夕焼(ゆうやけ)のような趣(おもむき)を見(み)せ、手前(てまえ)の漁家(りょうけ)の黄色(きいろ)が印象(いんしょう)に残(のこ)る作品(さくひん)となっています。
相州(そうしゅう)名所(めいしょ) 鎌倉(かまくら)七里(しちりが)浜(はま)
ダイナミックな構図(こうず)が目(め)を引(ひ)く本作(ほんさく)は、照手(てるて)姫(ひめ)の父(ちち)、横山(よこやま)の家(いえ)での一(いち)場面(ばめん)を描(えが)いたものです。画面(がめん)左(ひだり)に荒馬(あらうま)の「鬼(おに)鹿毛(かげ)」を乗(の)りこなす小栗判官(おぐりはんがん)が描(えが)かれ、中央(ちゅうおう)には横山(よこやま)と照手(てるて)姫(ひめ)、右(みぎ)で横山(よこやま)の手下(てした)を組(く)み伏(ふ)せている人物(じんぶつ)は、小栗判官(おぐりはんがん)の家臣(かしん)「池庄司(いけしょうじ)助長(すけなが)」です。小栗(おぐり)達(たち)と横山(よこやま)の者(もの)が戦闘(せんとう)している様子(ようす)ですが、このような場面(ばめん)は説教(せっきょう)節(ぶし)にはなく、武者絵(むしゃえ)としてアレンジされた作品(さくひん)と考(かんが)えられます。
小栗判官(おぐりはんがん)助重(すけしげ)横山(よこやま)ノ館(やかた)ニ於(おい)テ鬼(おに)鹿毛(かげ)ニ乗(の)リ 逓(きな)奇(んを)難(かわす)ヲ 図(えがく)