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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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武者絵(むしゃえ)を得意(とくい)とした国芳(くによし)により描(えが)かれた本作(ほんさく)は「小栗(おぐり)十(じゅう)勇士(ゆうし)」という、小栗判官(おぐりはんがん)の優(すぐ)れた家臣(かしん)を描(えが)いたシリーズです。説教(せっきょう)節(ぶし)では「小栗(おぐり)と共(とも)に毒殺(どくさつ)された家臣(かしん)が十(じゅう)人(にん)いた」という内容(ないよう)が伝(つた)えられています。現在(げんざい)でも、戦国武将(せんごくぶしょう)・真田幸村(さなだゆきむら)の家臣(かしん)「真田十勇士(さなだじゅうゆうし)」の物語(ものがたり)がよく知(し)られていますが、同(おな)じように江戸時代(えどじだい)に好(この)まれた家臣団(かしんだん)の活躍(かつやく)物語(ものがたり)が主題(しゅだい)になっています。鬼(おに)鹿毛(かげ)の水(みず)桶(おけ)から水(みず)を飲(の)む姿(すがた)や、甲冑(かっちゅう)を使(つか)って粥(かゆ)のようなものを作(つく)る姿(すがた)など、戦場(せんじょう)における様々(さまざま)な描写(びょうしゃ)が見(み)られる点(てん)が面白(おもしろ)い作品(さくひん)です。
小栗(おぐり)十(じゅう)勇士(ゆうし)の一人(ひとり) 後藤(ごとう)大八郎(だいはちろう)高次(たかつぐ)/後藤(ごとう)兵助(ひょうすけ)助高(すけたか)
制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)5年(ねん)(1834) 12月(がつ) 板元(はんもと):佐野(さの)喜(き) 36枚(まい)揃(そろい)のうち1枚(まい)で、波(なみ)高(たか)く風(かぜ)吹(ふ)き荒(あ)れる七里ガ浜(しちりがはま)から波間(なみま)に見(み)え隠(かく)れする、小動(こゆるぎ)と江(え)の島(しま)とに挟(はさ)まれて見(み)える白(しろ)い雪化粧(ゆきげしょう)の富士(ふじ)が描(えが)かれています。波(なみ)高(たか)く泡立(あわだ)つ海(うみ)と対称(たいしょう)的(てき)に静的(せいてき)な富士(ふじ)、上空(じょうくう)はほんのりと紅色(こうしょく)に染(そ)まり鳥(とり)の群(む)れが飛(と)んでいます。七里ガ浜(しちりがはま)も稲村ガ崎(いなむらがさき)あたりから見(み)た風景(ふうけい)でしょうか、広重(ひろしげ)の視点(してん)はあくまでも低(ひく)く浪(なみ)の高(たか)さを強調(きょうちょう)しています。広重(ひろしげ)の富士(ふじ)をテーマとした作品(さくひん)には安政(あんせい)6年(ねん)(1859年(ねん))刊(かん)の最(さい)晩年(ばんねん)作(さく)「冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)」があります。(除(のぞ)く団扇絵(うちわえ))
不(ふ)二(じ)三(さん)十(じゅう)六(ろっ)景(けい) 相模(さがみ)七里(しちり)が浜風(はまかぜ)波(なみ)
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804~18)頃(ころ)。 板元(はんもと):永寿(えいじゅ)堂(どう) この作品(さくひん)の特徴(とくちょう)は、鮑(あわび)取(と)り、働(はたら)く漁師(りょうし)をすべて女性(じょせい)に見立(みた)てたもので、よく描(えが)かれる見物人(けんぶつにん)は誰(だれ)もいません。しかし鮑(あわび)を取(と)る女性(じょせい)が使用(しよう)している道具(どうぐ)はどう見(み)ても大工(だいく)が使(つか)うノミで、実際(じっさい)には鮑(あわび)おこしという独特(どくとく)な道具(どうぐ)があるのに、考証(こうしょう)的(てき)な間違(まちが)いがありますが、このことは他(た)の絵師(えし)にも多(おお)く見(み)うけられます。
諸国(しょこく)名所(めいしょ)風景(ふうけい) 相州(そうしゅう)江ノ島(えのしま)漁船(ぎょせん)
この絵図(えず)は、嘉永(かえい)6年(ねん)(1853)に小田原(おだわら)を震源(しんげん)とする相模国(さがみのくに)の大地震(おおじしん)発生(はっせい)の後(のち)に発行(はっこう)されたいわゆる「瓦版(かわらばん)」(新聞(しんぶん))で、刷(す)り上(あが)りの出来栄(できば)えから見(み)ると、速報(そくほう)として急(いそ)ぎ作(つく)られた粗雑(そざつ)な瓦版(かわらばん)とは違(ちが)い、やや時間(じかん)をおいて丁寧(ていねい)に作(つく)られたものと見(み)られます。被害状況(ひがいじょうきょう)にも大火(たいか)や大津波(おおつなみ)の情報(じょうほう)が示(しめ)され、さらには、地震(じしん)発生(はっせい)時(じ)のイラストレーションが描(えが)かれており、倒壊(とうかい)した家屋(かおく)から命(いのち)からがら逃(に)げ出(だ)す人(ひと)や、地割(じわ)れの起(お)きる中(なか)、地(じ)べたに敷(し)いた戸板(といた)に乗(の)ってうろたえる人(ひと)などの様子(ようす)が活写(かっしゃ)されていて、当時(とうじ)の人々(ひとびと)のパニックの状況(じょうきょう)が臨場感(りんじょうかん)をもって伝(つた)わってきます。
相模国(さがみのくに)大地震(おおじしん)之(の)図(ず)
蛸(たこ)漁(りょう)をする海女(あま)たちと、それを屋形船(やかたぶね)から眺(なが)める奥(おく)女中(じょちゅう)たちが描(えが)かれております。しかし、よくみると海女(あま)が大(おお)きな蛸(たこ)に逆(ぎゃく)に捕(と)らえられてしまっているようです。 本作(ほんさく)を描(えが)いた楊(よう)洲(しゅう)周延(ちかのぶ)(1838-1912)は明治(めいじ)期(き)に美人(びじん)絵(え)で人気(にんき)となり、文明開化(ぶんめいかいか)の新時代(しんじだい)をとらえた風俗画(ふうぞくが)等(とう)も制作(せいさく)しました。
相(そう)海(かい)蛸(しょう)捕(ほ)の図(ず)
小林(こばやし)清(きよ)親(ちか)(1847-1915)の作画(さくが)期(き)は明治(めいじ)9年(ねん)(1876)から没年(ぼつねん)までで、方円(ほうえん)舎(しゃ)、真生(しんせい)楼(ろう)、真生(しんせい)などの画(が)号(ごう)があります。 明治(めいじ)の広重(ひろしげ)と称(しょう)され、写真(しゃしん)、西洋(せいよう)画(が)、日本画(にほんが)の三(みっ)つを折衷(せっちゅう)融合(ゆうごう)した“光線画(こうせんが)”という独自(どくじ)の描法を開発(かいはつ)したことで知(し)られます。 清親(きよちか)は明治(めいじ)後半(こうはん)に入(はい)るとしだいに版画(はんが)から離(はな)れ、肉筆画(にくひつが)を好(この)んで描(えが)くようになり、浮世絵師(うきよえし)から日本画家(にほんがか)に転(てん)じてしまいますが、その頃(ころ)の作品(さくひん)の一(ひと)つと考(かんが)えられます。
日本(にっぽん)名勝(めいしょう)図会(ずえ) 江(え)の島(しま)
定方(さだかた)塊(かい)石(せき)(1882-1966)の名(な)は耀(てる)慶(よし)。関西学院(かんせいがくいん)卒業(そつぎょう)。日本画(にほんが)を巨勢(こせ)小石(しょうせき)に師事(しじ)し女婿(じょせい)となりました。渡仏(とふつ)し、サロン・()ドートンヌに入選(にゅうせん)。のち木版画(もくはんが)も手掛(てが)け、昭和(しょうわ)5年(ねん)(1930)頃(ごろ)「塊(かい)石(せき)富士(ふじ)百(ひゃっ)景(けい)第(だい)一(いっ)輯(しゅう)(八景(はっけい))」を版行(はんこう)しました。
江之島(えのしま)稚児(ちご)ヶ渕(ふち)の富士(ふじ)
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30)頃(ころ)。板元(はんもと):山口(やまぐち) 構図(こうず)は二代(にだい)勝川春好(かつかわしゅんこう)の(江(え)の島(しま)道中(どうちゅう))に類似(るいじ)し、七里ガ浜(しちりがはま)を歩(ある)く旅人(たびびと)を前景(ぜんけい)として描(えが)き、遠景(えんけい)に江(え)の島(しま)を配置(はいち)しています。人物(じんぶつ)の配置(はいち)も女(おんな)主人(しゅじん)を中心(ちゅうしん)にして、従者(じゅうしゃ)及(およ)び裸(はだか)で何(なに)かをねだる地元(じもと)の子(こ)どもなど共通(きょうつう)の部分(ぶぶん)がありますが、ここでは女性(じょせい)が他(た)の旅人(たびびと)から煙草(たばこ)の火(ひ)をもらう様子(ようす)は、風俗(ふうぞく)的(てき)に興味深(きょうみぶか)いところです。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島道(しまどう)中(ちゅう))