Fujisawa Net Museum

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制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30)(ころ)
板元(はんもと):西村(にしむら)与八(よはち)永寿(えいじゅ)(どう)

北寿(ほくじゅ)近年(きんねん)研究(けんきゅう)がすすめられ、北斎(ほくさい)画風(がふう)()()ぎながらも独自(どくじ)風景(ふうけい)表現(ひょうげん)探求(たんきゅう)した絵師(えし)として注目(ちゅうもく)されています。全体(ぜんたい)(てき)構図(こうず)北斎(ほくさい)作品(さくひん)からの影響(えいきょう)(かん)じるものの、陸地(りくち)配色(はいしょく)(みどり)茶色(ちゃいろ)(もち)いている(てん)やぼかしを使用(しよう)した(くも)表現(ひょうげん)などに北寿(ほくじゅ)工夫(くふう)()られ、これらは(どう)版画(はんが)から()発想(はっそう)(おも)われます。

(かれ)代表(だいひょう)(てき)洋風(ようふう)浮世絵(うきよえ)には「武州千住大橋之景(ぶしゅうせんじゅおおはしのけい)」、「川崎宿六郷川渡之図(かわさきしゅくろくごうがわわたしのず)」などがありますが、この作品(さくひん)もまたこの傾向(けいこう)のもので、視点(してん)(ひく)()七里ガ浜(しちりがはま)前景(ぜんけい)にして遠景(えんけい)()(しま)富士(ふじ)(えが)き、(やま)(しま)をキュビステックな(めん)としてとらえた個性(こせい)(てき)画面(がめん)構成(こうせい)となっています。手前(てまえ)画面(がめん)には(うま)()女性(じょせい)(えが)かれていて、普通(ふつう)(うし)()女性(じょせい)姿(すがた)(おお)いのに(くら)べて(めずら)しい風俗(ふうぞく)(しめ)しています。

昇亭北寿 江之嶋七里ヶ浜

()()(しま)七里ヶ浜(しちりがはま)

大判(おおばん)(よこ)1(まい) (たて)24.9 (よこ)37.2
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30)(ころ)板元(はんもと)(しるし)なし
辰斎(しんさい)洋風(ようふう)表現(ひょうげん)錦絵(にしきえ)代表作(だいひょうさく)(ひと)つで、()周囲(しゅうい)額縁(がくぶち)のように(かこ)みをつくり、そこにオランダ(ひがし)インド会社(がいしゃ)のマークであるVOCやHOLLANDなどの文字(もじ)()れて洋画(ようが)(てき)雰囲気(ふんいき)()すやり(かた)は、ほかに北寿(ほくじゅ)英泉(えいせん)など(なん)(にん)かの絵師(えし)作品(さくひん)()られ、一種(いっしゅ)のはやりであったのかも()れません。七里ガ浜(しちりがはま)画面(がめん)構成(こうせい)(じょう)遠近(えんきん)(かん)()しやすかったのか、()絵師(えし)洋風(ようふう)(てき)浮世絵(うきよえ)として制作(せいさく)しているものに(おお)くみられます。この作品(さくひん)洋風画(ようふうが)()として()られる司馬江漢(しばこうかん)(えが)いた肉筆(にくひつ)の「相州(そうしゅう)鎌倉(かまくら)七里浜(しちりがはま)()」に類似(るいじ)しており、(なか)でも手前(てまえ)浜辺(はまべ)にいる二人(ふたり)漁師(りょうし)姿(すがた)はほぼ(おな)じで、また(なみ)表現(ひょうげん)にも共通(きょうつう)部分(ぶぶん)があるので、江漢(こうかん)作品(さくひん)参考(さんこう)にした可能性(かのうせい)(かんが)えられます。というのは江漢(こうかん)作品(さくひん)が、奉納(ほうのう)(がく)として(しば)愛宕山(あたごやま)(かか)げられていたからです。

柳々居辰斎 相州七里浜

相州(そうしゅう)七里(しちりが)(はま)



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