ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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板元(はんもと):山口屋忠助(やまぐちやちゅうすけ) 舟調(しゅうちょう)の風景画(ふうけいが)には江戸(えど)の名所(めいしょ)を描(えが)いた浮絵(うきえ)がありますが、この作品(さくひん)もそのジャンルの一(ひと)つで、七里ガ浜(しちりがはま)の砂浜(すなはま)を連(つら)なって歩(ある)く旅人(たびびと)の背景(はいけい)に、江(え)の島(しま)と富士山(ふじさん)を配(はい)しています。江(え)の島(しま)へ向(む)かう人(ひと)と、江(え)の島(しま)詣(もうで)を終(お)えて土産物(みやげもの)の粕漬(かすづけ)を手(て)にしている人(ひと)の行(い)き交(か)う姿(すがた)が描(えが)かれています。
新(しん)板(ばん)相州(そうしゅう)江嶌(えのしま)之(の)図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30)頃(ころ)。板元(はんもと)印(しるし)なし 江(え)の島(しま)の形(かたち)をデフォルメして、鮑(あわび)の形(かたち)になっていると考(かんが)えられます。挿入(そうにゅう)の狂歌(きょうか)は「むらさきの霞(かすみ)に不二(ふじ)を色(いろ)とりて春(はる)のけしきをうつし江(え)のしま」御簾(みす)冨佐子(ふさこ)、「むら汐(しお)のさちに拾(ひろ)ふてもちよせにかひある春(はる)のしるし江(え)の嶋(しま)」森羅亭(しんらてい)万象(ばんしょう)、とありますように、歌(うた)に合(あ)わせて形(かたち)を変(か)えたのでしょう。また、海岸線(かいがんせん)の部分(ぶぶん)に銀泥(ぎんでい)、波(なみ)の部分(ぶぶん)に空摺(からず)りを施(ほどこ)すなど技巧(ぎこう)的(てき)な作品(さくひん)です。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)風景(ふうけい))
山岸(やまぎし)主計(かずえ)(1891-1984)は尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)卒業(そつぎょう)後(ご)、上京(じょうきょう)し木版画(もくはんが)の彫(ほ)り師(し)として修行(しゅぎょう)を積(つ)み、大正(たいしょう)2年(ねん)(1913)から5年(ねん)まで読売新聞社(よみうりしんぶんしゃ)で新聞(しんぶん)挿絵(さしえ)彫(ほ)りを担当(たんとう)しました。 傍(かたわ)ら黒田(くろだ)清輝(せいき)に師事(しじ)して西洋(せいよう)画(が)(油彩画(ゆさいが))の基礎(きそ)を学(まな)び、大正(たいしょう)15年(ねん)(1926)から欧米(おうべい)各国(かっこく)を回(まわ)って風景(ふうけい)版画(はんが)を多数(たすう)制作(せいさく)しています。
江(え)の島(しま)海岸(かいがん)
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30)頃(ころ)。 板元(はんもと):西村(にしむら)与八(よはち)、永寿(えいじゅ)堂(どう) 北寿(ほくじゅ)は近年(きんねん)研究(けんきゅう)がすすめられ、北斎(ほくさい)の画風(がふう)を受(う)け継(つ)ぎながらも独自(どくじ)の風景(ふうけい)表現(ひょうげん)を探求(たんきゅう)した絵師(えし)として注目(ちゅうもく)されています。全体(ぜんたい)的(てき)な構図(こうず)は北斎(ほくさい)の作品(さくひん)からの影響(えいきょう)を感(かん)じるものの、陸地(りくち)の配色(はいしょく)に緑(みどり)と茶色(ちゃいろ)を用(もち)いている点(てん)やぼかしを使用(しよう)した雲(くも)の表現(ひょうげん)などに北寿(ほくじゅ)の工夫(くふう)が見(み)られ、これらは銅(どう)版画(はんが)から得(え)た発想(はっそう)と思(おも)われます。 彼(かれ)の代表(だいひょう)的(てき)な洋風(ようふう)浮世絵(うきよえ)には「武州千住大橋之景(ぶしゅうせんじゅおおはしのけい)」、「川崎宿六郷川渡之図(かわさきしゅくろくごうがわわたしのず)」などがありますが、この作品(さくひん)もまたこの傾向(けいこう)のもので、視点(してん)を低(ひく)く取(と)り七里ガ浜(しちりがはま)を前景(ぜんけい)にして遠景(えんけい)に江(え)の島(しま)・富士(ふじ)を描(えが)き、山(やま)や島(しま)をキュビステックな面(めん)としてとらえた個性(こせい)的(てき)な画面(がめん)構成(こうせい)となっています。手前(てまえ)の画面(がめん)には馬(うま)に乗(の)る女性(じょせい)が描(えが)かれていて、普通(ふつう)牛(うし)に乗(の)る女性(じょせい)の姿(すがた)が多(おお)いのに較(くら)べて珍(めずら)しい風俗(ふうぞく)を示(しめ)しています。
江(え)之(の)嶋(しま)七里ヶ浜(しちりがはま)
名(な)は文(もん)次郎(じろう)、東京(とうきょう)・芝(しば)に生(う)まれました。川端(かわばた)玉(ぎょく)章(しょう)門下(もんか)の青柳(あおやぎ)墨(ぼく)川(せん)、荒木(あらき)寛(かん)畝(ぽ)に日本画(にほんが)を学(まな)び、26歳(さい)のときに、白馬会(はくばかい)洋画(ようが)研究所(けんきゅうじょ)で岡田(おかだ)三郎(さぶろう)助(すけ)に洋画(ようが)を学(まな)びました。 その後(ご)、鏑木(かぶらき)清方(きよかた)に入門(にゅうもん)し、巴(は)水(すい)の号(ごう)を得(え)ます。大正(たいしょう)7年(ねん)、伊東(いとう)深水(しんすい)の木版画(もくはんが)「近江(おうみ)八景(はっけい)」から影響(えいきょう)を受(う)け、風景(ふうけい)木版画(もくはんが)での作品(さくひん)を発表(はっぴょう)し、「新版画(しんはんが)」の旗手(きしゅ)として活躍(かつやく)しました。
相州(そうしゅう)七(しち)里(り)が浜(はま)
岸田劉生(きしだりゅうせい)は、明治(めいじ)24年(ねん)(1891)岸田吟香(きしだぎんこう) の四(よん)男(なん)として東京(とうきょう)・銀座(ぎんざ)に生(う)まれ、白馬会(はくばかい)葵橋(あおいばし) 洋画(ようが)研究所(けんきゅうじょ)に入(はい)り黒田清輝(くろだせいき)に師事(しじ)しました。 明治(めいじ)44年(ねん)(1911)には『白樺(しらかんば)(しらかば)』主催(しゅさい)の美術(びじゅつ)展(てん)がきっかけで、『白樺(しらかんば)』周辺(しゅうへん)の文人(ぶんじん)とも知(し)り合(あ)うようになりました。なお劉生(りゅうせい)自身(じしん)も様々(さまざま)な著作(ちょさく)において文章(ぶんしょう)を残(のこ)しています。
白樺(しらかんば)十(じゅう)周年(しゅうねん)記念(きねん)集(しゅう) 表紙(ひょうし)
大正(たいしょう)6年(ねん)(1917)、結核(けっかく)を疑(うたが)われた劉生(りゅうせい)は、友人(ゆうじん)の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の住(す)んでいた藤沢市鵠沼(ふじさわしくげぬま)の貸(か)し別荘(べっそう)に転地療養(てんちりょうよう)の目的(もくてき)で居住(きょじゅう)しました。大正(たいしょう)7年(ねん)頃(ごろ)から娘(むすめ)の麗子(れいこ)の肖像(しょうぞう)を描(えが)くようになり、また、大正(たいしょう)13年(ねん)頃(ごろ)からは、浮世絵(うきよえ)や宋元画(そうげんが) の鑑賞(かんしょう)や収集(しゅうしゅう)が始(はじ)まっていきました。ルネッサンスの写実(しゃじつ)でもなお不足(ふそく)を感(かん)ずる劉生(りゅうせい)は東洋(とうよう)に回帰(かいき)してきます。作品(さくひん)はそう言(い)う傾向(けいこう)で描(えが)かれた村娘(むらむすめ)図(ず)のひとつと思(おも)われ、南画(なんが) 的(てき)な自由(じゆう)な筆致(ひっち)で描(えが)かれています。
村(そん)嬢(じょう)図(ず)
大判(おおばん)横(よこ)1枚(まい) 縦(たて)24.9 横(よこ)37.2 制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30)頃(ころ)。板元(はんもと)印(しるし)なし 辰斎(しんさい)の洋風(ようふう)表現(ひょうげん)の錦絵(にしきえ)の代表作(だいひょうさく)の一(ひと)つで、絵(え)の周囲(しゅうい)に額縁(がくぶち)のように囲(かこ)みをつくり、そこにオランダ東(ひがし)インド会社(がいしゃ)のマークであるVOCやHOLLANDなどの文字(もじ)を入(い)れて洋画(ようが)的(てき)な雰囲気(ふんいき)を出(だ)すやり方(かた)は、ほかに北寿(ほくじゅ)や英泉(えいせん)など何(なん)人(にん)かの絵師(えし)の作品(さくひん)に見(み)られ、一種(いっしゅ)のはやりであったのかも知(し)れません。七里ガ浜(しちりがはま)は画面(がめん)の構成(こうせい)上(じょう)遠近(えんきん)感(かん)を出(だ)しやすかったのか、他(た)の絵師(えし)も洋風(ようふう)的(てき)な浮世絵(うきよえ)として制作(せいさく)しているものに多(おお)くみられます。この作品(さくひん)は洋風画(ようふうが)家(か)として知(し)られる司馬江漢(しばこうかん)の描(えが)いた肉筆(にくひつ)の「相州(そうしゅう)鎌倉(かまくら)七里浜(しちりがはま)図(ず)」に類似(るいじ)しており、中(なか)でも手前(てまえ)の浜辺(はまべ)にいる二人(ふたり)の漁師(りょうし)の姿(すがた)はほぼ同(おな)じで、また波(なみ)の表現(ひょうげん)にも共通(きょうつう)の部分(ぶぶん)があるので、江漢(こうかん)の作品(さくひん)を参考(さんこう)にした可能性(かのうせい)も考(かんが)えられます。というのは江漢(こうかん)の作品(さくひん)が、奉納(ほうのう)額(がく)として芝(しば)愛宕山(あたごやま)に掲(かか)げられていたからです。
相州(そうしゅう)七里(しちりが)浜(はま)