Fujisawa Net Museum

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平成(へいせい)26年(ねん)(2015)10月(がつ)25日(にち)指定(してい)/農作業(のうさぎょう)にともなう労働唄(ろうどうか)の一つ(ひとつ)で、神奈川県(かながわけん)と東京都(とうきょうと)の南部(なんぶ)に限定的(げんていてき)に分布(ぶんぷ)します。昭和(しょうわ)53年(ねん)(1978)に「かながわの歌(うた)50選(せん)」選定(せんてい)されています。唄(うた)の拍数(はくすう)と焼米(やきごめ)を搗(つ)く拍数(はくすう)が異(こと)なるため習得(しゅうとく)が難(むずか)しく、地域(ちいき)ごとに伝(つた)えられてきたため、それぞれ調子(ちょうし)・歌詞(かし)が異(こと)なります。5月中旬頃(がつちゅうじゅんごろ)、余(あま)った籾(もみ)を蒸(む)して煎(い)り、臼(うす)に入(い)れ三本(さんぼん)の杵(きね)で搗(つ)く際(さい)に、搗(つ)く調子(ちょうし)をそろえるために唄(うた)う唄(うた)です。特(とく)に若(わか)い娘(むすめ)のいる家(いえ)に若者(わかもの)が集(つど)い、男女交流(だんじょこうりゅう)の一つ(ひとつ)として行(おこな)われました。搗(つ)きあげた米(こめ)は、大豆(だいず)(煎(い)って皮(かわ)を除(のぞ)いたもの)を混(ま)ぜて神供(かみぞな)えしたり、間食(かんしょく)としました。所管(しょかん):遠藤農作業唄保存会(えんどうのうさぎょううたほぞんかい)

遠藤(えんどう)焼(やき)米(ごめ)つき唄(うた)・臼(うす)ひき唄(うた)

大正(たいしょう)15年(ねん)(1926)10月20日(がつはつか)指定(してい)/板碑型(いたびがた)、尖頭角柱石塔(せんとうかくちゅうせきとう)、総高(そうだか)126.5㎝、幅(はば)28.2㎝/「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の6文字(もじ)が大(おお)きく刻(きざ)まれています。応永(おうえい)23年(ねん)(1416)、鎌倉(かまくら)を中心(ちゅうしん)に足利持氏(あしかがもちうじ)打倒(だとう)のため上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(らん)が起(お)こり、多数(たすう)の将兵(しょうへい)・軍馬(ぐんば)が血(ち)に染(そ)まりました。この石塔(せきとう)は、乱(らん)の鎮定後(ちんていご)、三回忌(さんかいき)にあたる応永(おうえい)25年(ねん)(1418)に遊行(ゆぎょう)14代(だい)太空上人(たいくうしょうにん)が建(た)てた供養塔(くようとう)です。この兵乱(へいらん)で落命(らくめい)した「敵御方(てきみかた)」の人畜亡魂(じんちくぼうこん)がことごとく浄土往生(じょうどおうじょう)するよう、この塔婆(とうば)の前(まえ)を通(とお)り過(す)ぎる僧俗(そうぞく)は十念(じゅうねん)(南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を10回(かい)唱(とな)えるをしてほしい、と刻(きざ)まれています。所在(しょざい)・所管(しょかん):西富(にしとみ)・清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))

藤沢(ふじさわ)敵(てき)御方(みかた)供養(くよう)塔(とう)

昭和(しょうわ)35年(ねん)(1960)10月4日(がつよっか)指定(してい)(それ以前(いぜん)は国指定(くにしてい))/周囲約(しゅういやく)4㎞、面積約(めんせき)0.37k㎡、標高約(ひょうこうやく)60.4㎞/江(え)の島(しま)は凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)から成(な)る陸(りく)けい島(とう)で、海蝕洞窟(かいしょくどうくつ)、奇岩(きがん)、奇嘴(きし)が島(しま)の裾(すそ)を巡(めぐ)っています。第三紀(だいさんき)(6千万(せんまん)-100万年前(まんねんまえ))中頃(なかごろ)から第四紀(だいよんき)沖積世(ちゅうせきせい)(1万年前(まんねんまえ))初(はじ)め頃(ごろ)までに沈下(ちんか)~隆起(りゅうき)~浸食(しんしょく)を繰(く)り返(かえ)し、片瀬丘陵(かたせきゅうりゅう)の南端(なんたん)が切(き)り離(はな)され形成(けいせい)されました。山上(さんじょう)に縄文早期(じょうもんそうき)の遺跡(いせき)が発見(はっけん)されていますが、主(おも)に記録(きろく)に現(あら)われるのは鎌倉時代(かまくらじだい)からです。寿永元年(じゅえいがんねん)(1182)源頼朝(みなもとのよりとも)が弁財天(べざいてん)を勧請(かんじょう)してから武士(ぶし)の信仰(しんこう)を集(あつ)め、江戸時代(えどじだい)には庶民(しょみん)の間(あいだ)にも弁才天(べざいてん)信仰(しんこう)が盛(さか)んとなり、江戸(えど)からの遊山(ゆさん)の地(ち)としても賑(にぎ)わいました。手(て)が届(とど)きそうな海上(かいじょう)にポッカリと浮(う)かぶ姿(すがた)は美(うつく)しく、伊豆大島(いずおおしま)・三浦(みうら)・房総半島(ぼうそうはんとう)・天城(あまぎ)・箱根(はこね)・富士山(ふじさん)を見渡(みわた)すことができます。

江ノ島(えのしま)

昭和(しょうわ)38年(ねん)(1963)3月(がつ)25日(にち)指定(してい)/杉山検校(すぎやまけんぎょう):慶長(けいちょう)15-元禄(げんろく)7年(ねん)(1610-94)。実名(じつめい)は和一(わいち)。伊勢国(いせのくに)(三重県(みえけん))生(う)まれ。幼(おさな)い時(とき)に失明(しつめい)し、鍼術(しんじゅつ)を志(こころざ)して江戸(えど)の検校(けんぎょう)山瀬琢一(やませたくいち)、その後(ご)京都(きょうと)の入江豊明(いりえよりあき)に師事(しじ)しました。その過程(かてい)で管鍼術(かんしんじゅつ)を創案(そうあん)したといわれています。
徳川(とくがわ) 5 代(だい)将軍(しょうぐん)綱吉(つなよし)の病(やまい)を治(なお)した功績(こうせき)で、本所(ほんじょ)一ツ目(ひとつめ)(東京都墨田区(とうきょうとすみだく))に邸宅(ていたく)を賜(たまわ)り、元禄(げんろく)5年(ねん)(1692)関東総検校(かんとうそうけんぎょう)となりました。江の島弁財天(えのしまべんざいてん)信仰(しんこう)が篤(あつ)く、下之宮社殿改修(しものみやしゃでんかいしゅう)、護摩堂(ごまどう)・三重塔(さんじゅうのとう)・江の島道弁財天道標(えのしまみちべんざいてんどうひょう)などを建立寄進(こんりゅうきしん)しています。私宅(したく)で没(ぼっ)し根岸弥勒寺(ねぎしみろくじ)(東京都墨田区(とうきょうとすみだく))に葬(ほうむ)られました。この墓碑(ぼひ)は翌年(よくねん)の命日(めいにち)に次(つぎ)の総検校(そうけんぎょう)三島世一(みしまよいち)が造立(ぞうりゅう)したものです。背後(はいご)に夫人(ふじん)の墓(はか)と思(おも)われる同型(どうけい)の墓碑(ぼひ)が建(た)てられています。所在(しょざい):江(え)の島(しま)・西浦霊園上(にしうられいえんじょう)

杉山和一(すぎやまわいち)の墓(はか)

昭和(しょうわ)40年(ねん)(1965)5月(がつ)31日(にち)指定(してい)/大橋重政(おおはししげまさ):元和(がんな)4-寛文(かんぶん)12年(ねん)(1618-72)。書家(しょか)。江戸幕府(えどばくふ)の祐筆(ゆうひつ)。江戸(えど)生(う)まれで、父(ちち)重保(しげやす)は2代将軍(だいしょうぐん)秀忠(ひでただ)の祐筆(ゆうひつ)。重政(しげまさ)も寛永(かんえい)8年(ねん)(1631)14歳(さい)で3代将軍(だいしょうぐん)家光(いえみつ)の祐筆(ゆうひつ)になり、祐筆吟味役(ゆうひつぎんみやく)・評定所出仕(ひょうていじょしゅし)を歴任(れきにん)、『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』仮名序(かかなじょ)のほか、幕府公用文(ばくふこうようぶん)や将軍(しょうぐん)の手本(てほん)を執筆(しっぴつ)しました。父(ちち)から受(う)け継(つ)いだ書法(しょほう)に独自(どくじ)の書法(しょほう)を加味(かみ)し、大橋流書法(おおはしりゅうしょほう)を普及(ふきゅう)させ、その開祖(かいそ)とされています。鵠沼(くげぬま)が所領(しょりょう)で、内(うち)9石(せき)を空乗寺(くうじょうじ)に寄進(きしん)しています。同寺(どうじ)に葬(ほうむ)られ、承応(じょうおう)2年(ねん)(1653)に没(ぼっ)した夫人(ふじん)とともに墓碑銘(ぼひめい)にその名(な)が刻(きざ)まれています。
所在(しょざい)・所管(しょかん):鵠沼(くげぬま)・空乗寺(くうじょうじ)

大橋(おおはし)重政(しげまさ)の墓(はか)

昭和(しょうわ)44年(ねん)(1969)2月8日(がつようか)指定(してい)/羽鳥小学校(はとりしょうがっこう)東側(ひがしがわ)に塾跡(じゅくあと)の石碑(せきひ)と新(あら)たに建(た)てられた門(もん)が建(た)っています。耕余塾(こうよじゅく)は、明治(めいじ)5年(ねん)(1872)羽鳥村名主(はとりむらなぬし)三觜八郎右衛門(みつはしはちろうえもん)が教育普及(きょういくふきゅう)のため、小笠原東陽(おがさわらとうよう)を招(まね)いて開(ひら)いた郷学校(ごうがっこう)の読書院(どくしょいん)にはじまります。学制布告(がくせいふこく)で翌年(よくねん)羽鳥小学校(はとりしょうがっこう)と改称(かいしょう)しましたが、東陽(とうよう)は小学校(しょうがっこう)と別(べつ)に読書院(どくしょいん)を残(のこ)し独自(どくじ)の教育(きょういく)を続(つづ)けました。入塾者(にゅうじゅくしゃ)が増(ふ)え、同(どう)11年(ねん)(1878)新塾舎(しんじゅくしゃ)完成(かんせい)と同時(どうじ)に耕余塾(こうよじゅく)と改称(かいしょう)、変則中学(へんそくちゅうがく)として再出発(さいしゅっぱつ)しました。当時(とうじ)の塾生(じゅくせい)は約(やく)90名(めい)で、北(きた)は奥羽(おうう)、西(にし)は静岡(しずおか)以西(いせい)に及(およ)び、多(おお)くが寄宿(きしゅく)していました。東陽(とうよう)は同(どう)20年(ねん)(1887)没(ぼっ)し、娘婿(むすめむこ)松岡利紀(まつおかとしのり)が塾長(じゅくちょう)を継(つ)ぎましたが、同(どう)30年(ねん)(1897)の暴風(ぼうふう)で塾舎(じゅくしゃ)が全壊(ぜんかい)、再建(さいけん)できず同(どう)33年(ねん)(1900)閉塾(へいじゅく)しました。後(のち)に政界(せいかい)・実業界(じつぎょうかい)で活躍(かつやく)した吉田茂(よしだしげる)、中島信行(かなじまのぶゆき)、山田嘉毅(やまだよしたか)などは卒業生(そつぎょうせい)です。所在(しょざい)・所管(しょかん):羽鳥(はとり)・藤沢市(ふじさわし)教育委員会(きょういくいいんかい)

耕余塾(こうよじゅく)の跡(あと)

昭和(しょうわ)51年(ねん)(1976)4月(がつ) 15 日(にち)指定(してい)
主(しゅ)として縄文後期(じょうもんこうき)の貝塚(かいづか)を伴(ともな)う集落跡(しゅうらくあと)です。昭和(しょうわ)34-36年(ねん)(1959-61)に3回(さんかい)にわたり部分的(ぶぶんてき)ながら発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われ、相模湾沿岸(さがみわんえんがん)に数少(かずすく)ない貴重(きちょう)な貝塚(かいづか)であることが確認(かくにん)されました。この地域(ちいき)の貝塚(かいづか)はどこも貝層(かいそう)が少(すく)なく、西富貝塚(にしとみかいづか)も30種以上(さんじゅうしゅいじょう)の貝(かい)が見(み)つかっているものの、ハマグリ・ダンペイキサゴがそのほとんどを占(し)めています。また貝層(かいそう)の下(した)から竪穴式(たてあなしき)・平地式(へいちしき)・敷石(しきいし)などの住居跡(じゅうきょあと)も確認(かくにん)され、中(なか)でも敷石遺構(しきいしいこう)は海岸地帯(かいがんちたい)で、しかも貝塚(かいづか)を伴(ともな)う遺跡(いせき)での発見例(はっけんれい)は数少(かずすく)なく、西富貝塚(にしとみかいづか)の特色(とくしょく)といえます。出土(しゅつど)した土器類(どきるい)は多様(たよう)でしかも多量(たりょう)に発見(はっけん)され、この集落跡(しゅうらくあと)の時代決定(じだいけってい)に大(おお)きな役割(やくわり)を果(は)たしました。所在(しょざい)・所管(しょかん):西富(にしとみ)・清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))

西富(にしとみ)貝塚(かいづか)

昭和(しょうわ)52年(ねん)(1997)4月(がつ)13日(にち)指定(してい)/横穴墓(よこあなぼ)とは丘陵(きゅうりょう)の斜面(しゃめん)に横穴(よこあな)を掘(ほ)って造(つく)った墓(はか)で、5世紀後半(せいきこうはん)から8世紀(せいき)に多(おお)く造(つく)られ、一般(いっぱん)に群(ぐん)をなして存在(そんざい)します。この横穴墓群(よこあなぼぐん)は片瀬丘陵(かたせきゅうりゅう)にある100基以上(きいじょう)の横穴墓群中(よこあなぼぐんちゅう)の一(ひと)つで、棺(ひつぎ)を安置(あんち)する玄室(げんしつ)の内部(ないぶ)に高(たか)い棺座(かんざ)を設(もう)けたり、棺座上(かんざじょう)に掘(ほ)りくぼめて造付石棺(つくりつけせっかん)としたりするものが多(おお)く見受(みう)けられ、8世紀頃(せいきごろ)を中心(ちゅうしん)とした時期(じき)の造営(ぞうえい)とされています。昭和(しょうわ)43年(ねん)(1968)に行(おこ)なわれた発掘調査(はっくつちょうさ)で、当初(とうしょ)開口(かいこう)していた6基(ろっき)の横穴古墳(よこあなこふん)に加(くわ)え、埋没(まいぼつ)していた2基(き)が発見(はっけん)され、土師器片(はじきへん)、須恵器(すえきへん)、中近世(ちゅうきんせい)のカワラケ片(へん)、砥石(といし)、骨片(こっぺん)が出土(しゅつど)しました。所在(しょざい)・所管(しょかん):川名(かわな)・神光寺(じんこうじ)

神光寺(じんこうじ)横穴(よこあな)古墳(こふん)(横穴墓(よこあなぼ))群(ぐん)



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