Fujisawa Net Museum

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富士山(ふじさん)見上(みあ)げて(なが)めるように(えが)かれているのは西行法師(さいぎょうほうし)です。平安時代(へいあんじだい)末期(まっき)から鎌倉時代(かまくらじだい)初期(しょき)にかけての僧侶(そうりょ)で、歌人(かじん)でもあります。奥州(おうしゅう)へと(たび)()るその(みち)すがら富士山(ふじさん)についての和歌(わか)(かぜ)になびく富士(ふじ)(けむり)(そら)()えてゆくへも()らぬわが(おも)ひかな)を()んでいます。
西行法師(さいぎょうほうし)視線(しせん)(さき)には富士山(ふじさん)()られますが、その手前(てまえ)には(おお)きな(まつ)()があります。吉原宿(よしわらしゅく)手前(てまえ)(まつ)(なみ)()()から左手(ひだりて)(がわ)()える富士山(ふじさん)が「左富士(ひだりふじ)」として有名(ゆうめい)であったことから(えら)ばれたのでしょう。江戸(えど)から(きょう)()かう(みち)自分(じぶん)左側(ひだりがわ)富士山(ふじさん)()える場所(ばしょ)()ヶ所(かしょ)しかありませんでした。(もう(いち)ヶ所(かしょ)南湖(なんご)立場(たてば)です)まるでその()(ある)いているかのような臨場(りんじょう)(かん)()たせる演出(えんしゅつ)です。

(そう)(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 吉原(よしわら)

相撲(すもう)神事(しんじ)として古代(こだい)から(もよお)されていましたが、鎌倉幕府(かまくらばくふ)(へん)さんした『吾妻(あづま)(かがみ)』には、頼朝(よりとも)臨席(りんせき)して相撲(すもう)(じん)武士(ぶし)相撲(すもう)()らせたという記事(きじ)見受(みう)けられます。
作品(さくひん)では(とう)(じょう)には、御家人(ごけにん)たち34(めい)名札(なふだ)(かか)げられています。なお、土俵(どひょう)(じょう)()()二人(ふたり)のうち、長居(ながい)(だい)力士(りきし)長居(ながい)は、当時(とうじ)天下無双(てんかむそう)名高(なだか)かった力士(りきし)(みぎ)本田次郎(ほんだじろう)近常(ちかつね)は、畠山重忠(はたけやましげただ)郎党(ろうとう)です。行司(ぎょうじ)(やく)尾形(おがた)緒方(おがた)三郎(さぶろう)惟義(これよし)は、義経(よしつね)(つい)()(さい)義経(よしつね)(とも)気仙沼(けせんぬま)()かい、建久(けんきゅう)3(ねん)(1190)に同地(どうち)羽田神社(はだじんじゃ)再興(さいこう)したといわれる武将(ぶしょう)です。

()大将(たいしょう)頼朝(よりとも)(こう)相撲(すもう)御覧(ごらんの)()

表題(ひょうだい)(うたげ)は、建久(けんきゅう)4(ねん)(1193)に頼朝(よりとも)(おこな)った富士(ふじ)巻狩(まきが)りにあたっての(いわ)いの(うたげ)巻狩(まきが)りを(まえ)血気(けっき)にはやる曽我(そが)五郎(ごろう)時宗(ときむね)左手(ひだりて)障子(しょうじ)手前(てまえ))と、右手(みぎて)(すわ)十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)とを対照(たいしょう)(てき)(えが)いています。中央(ちゅうおう)手前(てまえ)(すわ)るのが、和田義盛(わだよしもり)()小林(こばやし)朝比奈義秀(あさひなよしひで)義秀(よしひで)(ひだり)には、大磯(おおいそ)(くるわ)遊女(ゆうじょ)化粧坂(けはいざか)少将(しょうしょう)(みぎ)には(どう)じく遊女(ゆうじょ)(じゅう)(ろう)祐成(すけなり)(そばめ)虎御前(とらごぜん)(えが)かれています。

和田義盛(わだよしもり)一門(いちもん)(きゅう)(じゅう)(さん)()大磯(おおいそ)におゐて三日(みっか)()夜宴(やうたげ)(もよお)(おり)から小林(こばやし)朝比奈義秀(あさひなよしひで)曽我(そがの)五郎(ごろう)時宗(ときむね)血気(けっき)にはやるを(とめ)(たがい)力量(りきりょう)をあらはす()



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