Fujisawa Net Museum

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富士講(ふじこう)による富士(ふじ)(もうで)は、お伊勢参(いせまい)りや金比羅(こんぴら)(まい)りとともに「三大(さんだい)(まい)り」として江戸町(えどちょう)(みん)(した)しまれ、「江戸(えど)八百(はっぴゃく)八町(やちょう)に、八百(はっぴゃく)八講(やこう)講中(こうじゅう)(はち)(まん)(にん)」とも()われるほど隆盛(りゅうせい)しました。
(とく)に、庚申(こうしん)(ねん)にあたる万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)は60(ねん)(いち)()御縁(ごえん)(ねん)富士山(ふじさん)申年(さるどし)誕生(たんじょう)したとされる)にあたり、庚申(こうしん)(ねん)登山(とざん)をすれば(さん)(じゅう)(さん)(かい)(のぼ)ったのと(おな)じご利益(りやく)()られるとされました。また、女人禁制(にょにんきんせい)結界(けっかい)緩和(かんわ)されたため、(おお)くの女性(じょせい)(とう)(はい)しました。()(ちゅう)にも、群衆(ぐんしゅう)(なか)女性(じょせい)(えが)かれています。
()上部(じょうぶ)には「冨士山(ふじさん)略記(りゃっき)」が(しる)されています。

庚申(こうしん)(ねん)冨士山(ふじさん)参詣(さんけい)群衆(ぐんしゅう)()()

歌舞伎(かぶき)曽我(そが)対面(たいめん)』の大切(おおきり)浄瑠璃(じょうるり)(いお)木瓜(りに)(はな)(えほう)(のふく)(びき)』です。大切(おおきり)浄瑠璃(じょうるり)とは、公演(こうえん)最後(さいご)(おこな)われる所作事(しょさごと)()します。
本図(ほんず)は、三枚(さんまい)浮世絵(うきよえ)変則的(へんそくてき)(なら)び、洒落(しゃれ)()のある構成(こうせい)です。左側(ひだりがわ)工藤(くどう)左衛門(さえもん)(すけ)(つね)遊女(ゆうじょ)手越(てごし)少将(しょうしょう)黄瀬川(きせがわ)(こし)()ろし、奴凧(やっこだこ)(たいら)()げる小林(こばやし)朝比奈(あさひな)様子(ようす)(なが)めています。「曽我物語(そがものがたり)」は、正月(しょうがつ)上演(じょうえん)される慣習(かんしゅう)があり、(たこ)()げる様子(ようす)から、正月(しょうがつ)意識(いしき)したおめでたい場面(ばめん)となっています。
外題(げだい)()けられている「(いおりに)木瓜(もっこう)」とは、工藤(くどう)(すけ)(つね)(しめ)し、工藤氏(くどうし)先祖(せんぞ)は「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)平定(へいてい)(さい)に、朝廷(ちょうてい)より恩賞(おんしょう)として「工藤(くどう)(せい)と「(いおりに)木瓜(もっこう)木工(もっこう))」家紋(かもん)()けていました。

小林(こばやし)朝比奈(あさひな) 工藤(くどう)左衛門(さえもん)(すけ)(つね) 手越(てごし)黄瀬川(きせがわ) 奴凧(やっこたこ)(へい))

富士山(ふじさん)見上(みあ)げて(なが)めるように(えが)かれているのは西行法師(さいぎょうほうし)です。平安時代(へいあんじだい)末期(まっき)から鎌倉時代(かまくらじだい)初期(しょき)にかけての僧侶(そうりょ)で、歌人(かじん)でもあります。奥州(おうしゅう)へと(たび)()るその(みち)すがら富士山(ふじさん)についての和歌(わか)(かぜ)になびく富士(ふじ)(けむり)(そら)()えてゆくへも()らぬわが(おも)ひかな)を()んでいます。
西行法師(さいぎょうほうし)視線(しせん)(さき)には富士山(ふじさん)()られますが、その手前(てまえ)には(おお)きな(まつ)()があります。吉原宿(よしわらしゅく)手前(てまえ)(まつ)(なみ)()()から左手(ひだりて)(がわ)()える富士山(ふじさん)が「左富士(ひだりふじ)」として有名(ゆうめい)であったことから(えら)ばれたのでしょう。江戸(えど)から(きょう)()かう(みち)自分(じぶん)左側(ひだりがわ)富士山(ふじさん)()える場所(ばしょ)()ヶ所(かしょ)しかありませんでした。(もう(いち)ヶ所(かしょ)南湖(なんご)立場(たてば)です)まるでその()(ある)いているかのような臨場(りんじょう)(かん)()たせる演出(えんしゅつ)です。

(そう)(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 吉原(よしわら)



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