ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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神奈川宿(かながわしゅく)の台町(だいまち)の通(とお)りを行列(ぎょうれつ)が通(とお)っています。画面(がめん)手前(てまえ)には、その場(ば)に居合(いあ)わせた旅人(たびびと)が行列(ぎょうれつ)を遠巻(とおま)きに眺(なが)めているような様子(ようす)で描(えが)かれています。 台町(だいまち)の坂(さか)には、海(うみ)を一望(いちぼう)できる二階建(にかいだ)ての茶屋(ちゃや)が軒(のき)を連(つら)ねており、そこから見(み)える景色(けしき)が評判(ひょうばん)となっていました。図(ず)中(ちゅう)でも、茶屋(ちゃや)の二階(にかい)の部屋(へや)から遠眼鏡(とおめがね)を使(つか)って景色(けしき)を見(み)ている女性(じょせい)の姿(すがた)が描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう) 神奈川(かながわ)
富士講(ふじこう)による富士(ふじ)詣(もうで)は、お伊勢参(いせまい)りや金比羅(こんぴら)参(まい)りとともに「三大(さんだい)詣(まい)り」として江戸町(えどちょう)民(みん)に親(した)しまれ、「江戸(えど)八百(はっぴゃく)八町(やちょう)に、八百(はっぴゃく)八講(やこう)、講中(こうじゅう)八(はち)万(まん)人(にん)」とも言(い)われるほど隆盛(りゅうせい)しました。 特(とく)に、庚申(こうしん)年(ねん)にあたる万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)は60年(ねん)に一(いち)度(ど)の御縁(ごえん)年(ねん)(富士山(ふじさん)は申年(さるどし)に誕生(たんじょう)したとされる)にあたり、庚申(こうしん)年(ねん)に登山(とざん)をすれば三(さん)十(じゅう)三(さん)回(かい)登(のぼ)ったのと同(おな)じご利益(りやく)が得(え)られるとされました。また、女人禁制(にょにんきんせい)の結界(けっかい)も緩和(かんわ)されたため、多(おお)くの女性(じょせい)が登(とう)拝(はい)しました。図(ず)中(ちゅう)にも、群衆(ぐんしゅう)の中(なか)に女性(じょせい)が描(えが)かれています。 図(ず)の上部(じょうぶ)には「冨士山(ふじさん)略記(りゃっき)」が記(しる)されています。
庚申(こうしん)年(ねん)冨士山(ふじさん)参詣(さんけい)群衆(ぐんしゅう)之(の)図(ず)
手前(てまえ)に浜辺(はまべ)で休憩(きゅうけい)する旅(たび)姿(すがた)の女性(じょせい)たちが描(えが)かれ、背景(はいけい)には江の島(えのしま)と富士山(ふじさん)が見(み)えます。本作(ほんさく)は、3枚(まい)続(つづき)の作品(さくひん)の一(いち)枚(まい)ですが、この一(いち)枚(まい)だけでも浜辺(はまべ)から望(のぞ)む江の島(えのしま)と広々(ひろびろ)とした海(うみ)の迫力(はくりょく)を感(かん)じられる巧(たく)みな構図(こうず)となっています。 鳥居清長(とりいきよなが)は、天明(てんめい)年間(ねんかん)を代表(だいひょう)する絵師(えし)で、八頭身(はっとうしん)もあろうかという背(せ)の高(たか)い美人(びじん)や、人物(じんぶつ)の群像(ぐんぞう)表現(ひょうげん)を得意(とくい)としました。
江之島(えのしま)
歌舞伎(かぶき)『曽我(そが)の対面(たいめん)』の大切(おおきり)浄瑠璃(じょうるり)『庵(いお)木瓜(りに)花(はな)的(えほう)福(のふく)摂(びき)』です。大切(おおきり)浄瑠璃(じょうるり)とは、公演(こうえん)の最後(さいご)に行(おこな)われる所作事(しょさごと)を指(さ)します。 本図(ほんず)は、三枚(さんまい)の浮世絵(うきよえ)が変則的(へんそくてき)に並(なら)び、洒落(しゃれ)っ気(き)のある構成(こうせい)です。左側(ひだりがわ)で工藤(くどう)左衛門(さえもん)佑(すけ)経(つね)と遊女(ゆうじょ)手越(てごし)の少将(しょうしょう)、黄瀬川(きせがわ)が腰(こし)を下(お)ろし、奴凧(やっこだこ)平(たいら)を上(あ)げる小林(こばやし)朝比奈(あさひな)の様子(ようす)を眺(なが)めています。「曽我物語(そがものがたり)」は、正月(しょうがつ)に上演(じょうえん)される慣習(かんしゅう)があり、凧(たこ)を上(あ)げる様子(ようす)から、正月(しょうがつ)を意識(いしき)したおめでたい場面(ばめん)となっています。 外題(げだい)に付(つ)けられている「庵(いおりに)木瓜(もっこう)」とは、工藤(くどう)佑(すけ)経(つね)を示(しめ)し、工藤氏(くどうし)の先祖(せんぞ)は「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」平定(へいてい)の際(さい)に、朝廷(ちょうてい)より恩賞(おんしょう)として「工藤(くどう)」姓(せい)と「庵(いおりに)木瓜(もっこう)(木工(もっこう))」家紋(かもん)を受(う)けていました。
小林(こばやし)朝比奈(あさひな) 工藤(くどう)左衛門(さえもん)祐(すけ)経(つね) 手越(てごし)の黄瀬川(きせがわ) 奴凧(やっこたこ)平(へい))
2つの屏風(びょうぶ)に東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)の様子(ようす)が描(えが)かれています。この屏風(びょうぶ)は、2つで1対(つい)の形式(けいしき)です(美術(びじゅつ)用語(ようご)で六(ろっ)曲(きょく)一双(いっそう)と呼(よ)ばれる形式(けいしき))。図(ず)中(ちゅう)に点在(てんざい)する赤(あか)い札(ふだ)には、東海道(とうかいどう)各(かく)宿(しゅく)の地名(ちめい)を記(しる)し、白(しろ)い札(ふだ)には名所(めいしょ)が記(しる)されています。街道(かいどう)を往来(おうらい)する人々(ひとびと)の姿(すがた)や建物(たてもの)などが細(こま)かに描(えが)かれ、江戸時代(えどじだい)の往来(おうらい)の様子(ようす)が窺(うかが)えます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)図(ず)屏風(びょうぶ)
右側(みぎがわ)の人(ひと)は女性(じょせい)のような身(み)なりをしていますが男性(だんせい)です。口(くち)の周(まわ)りには髭(ひげ)の剃(そ)り跡(あと)があります。これは戸塚(とつか)の八坂神社(やさかじんじゃ)に伝(つた)わる「お札(ふだ)まき」参考(さんこう)にしていると考(かんが)えられています。「お札(さつ)まき」は氏子(うじこ)の男性(だんせい)が女装(じょそう)をして、踊(おど)りながらお札(さつ)をまく行事(ぎょうじ)です。 コマ絵(え)に描(えが)かれているのは神奈川宿(かながわしゅく)から横浜(よこはま)の本牧(ほんもく)の方(ほう)を眺(なが)めた風景(ふうけい)です。画面(がめん)中央(ちゅうおう)の奥(おく)まった部分(ぶぶん)に見(み)える黒(くろ)くなった陸地(りくち)が三浦半島(みうらはんとう)であると考(かんが)えられます。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 加奈川(かながわ)
曽我(そが)の仇討(あだう)ちで知(し)られる、曽我(そが)十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)とその恋人(こいびと)である虎御前(とらごぜん)の二人(ふたり)が描(えが)かれています。曽我(そが)の仇討(あだう)ちとは、曽我(そが)十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)と曽我(そが)五郎(ごろう)時致(ときむね)の兄弟(きょうだい)が、父親(ちちおや)の仇(あだ)を討(う)つ話(はなし)です。様々(さまざま)な舞台(ぶたい)の演目(えんもく)として上演(じょうえん)され、特(とく)に歌舞伎(かぶき)では人気(にんき)を博(はく)しました。本図(もとず)の十(じゅう)郎(ろう)は三(さん)代目(だいめ)沢村(さわむら)宗十郎(そうじゅうろう)を思(おも)わせると指摘(してき)されています。 背景(はいけい)は高麗山(こまやま)と小(こ)余(ゆる)綾(ぎ)の磯(いそ)を描(えが)いています。東海道(とうかいどう)を東(ひがし)から歩(ある)くと、本図(ほんず)のような光景(こうけい)が見(み)えていたものと思(おも)われます。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 大磯(おおいそ)
富士山(ふじさん)を見上(みあ)げて眺(なが)めるように描(えが)かれているのは西行法師(さいぎょうほうし)です。平安時代(へいあんじだい)末期(まっき)から鎌倉時代(かまくらじだい)初期(しょき)にかけての僧侶(そうりょ)で、歌人(かじん)でもあります。奥州(おうしゅう)へと旅(たび)に出(で)るその道(みち)すがら富士山(ふじさん)についての和歌(わか)(風(かぜ)になびく富士(ふじ)の煙(けむり)の空(そら)に消(き)えてゆくへも知(し)らぬわが思(おも)ひかな)を詠(よ)んでいます。 西行法師(さいぎょうほうし)の視線(しせん)の先(さき)には富士山(ふじさん)が見(み)られますが、その手前(てまえ)には大(おお)きな松(まつ)の木(き)があります。吉原宿(よしわらしゅく)の手前(てまえ)、松(まつ)の並(なみ)木(き)の間(ま)から左手(ひだりて)側(がわ)に見(み)える富士山(ふじさん)が「左富士(ひだりふじ)」として有名(ゆうめい)であったことから選(えら)ばれたのでしょう。江戸(えど)から京(きょう)に向(む)かう道(みち)で自分(じぶん)の左側(ひだりがわ)に富士山(ふじさん)が見(み)える場所(ばしょ)は二(に)ヶ所(かしょ)しかありませんでした。(もう一(いち)ヶ所(かしょ)は南湖(なんご)の立場(たてば)です)まるでその場(ば)を歩(ある)いているかのような臨場(りんじょう)感(かん)を持(も)たせる演出(えんしゅつ)です。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 吉原(よしわら)