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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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相撲(すもう)は神事(しんじ)として古代(こだい)から催(もよお)されていましたが、鎌倉幕府(かまくらばくふ)が編(へん)さんした『吾妻(あづま)鑑(かがみ)』には、頼朝(よりとも)が臨席(りんせき)して相撲(すもう)人(じん)や武士(ぶし)に相撲(すもう)を取(と)らせたという記事(きじ)が見受(みう)けられます。 作品(さくひん)では棟(とう)上(じょう)には、御家人(ごけにん)たち34名(めい)の名札(なふだ)が掲(かか)げられています。なお、土俵(どひょう)上(じょう)に組(く)み合(あ)う二人(ふたり)のうち、長居(ながい)の大(だい)力士(りきし)長居(ながい)は、当時(とうじ)天下無双(てんかむそう)と名高(なだか)かった力士(りきし)。右(みぎ)の本田次郎(ほんだじろう)近常(ちかつね)は、畠山重忠(はたけやましげただ)の郎党(ろうとう)です。行司(ぎょうじ)役(やく)の尾形(おがた)(緒方(おがた))三郎(さぶろう)惟義(これよし)は、義経(よしつね)追(つい)捕(ぶ)の際(さい)、義経(よしつね)と共(とも)に気仙沼(けせんぬま)へ向(む)かい、建久(けんきゅう)3年(ねん)(1190)に同地(どうち)の羽田神社(はだじんじゃ)を再興(さいこう)したといわれる武将(ぶしょう)です。
右(う)大将(たいしょう)頼朝(よりとも)公(こう)相撲(すもう)御覧(ごらんの)図(ず)
表題(ひょうだい)の宴(うたげ)は、建久(けんきゅう)4年(ねん)(1193)に頼朝(よりとも)が行(おこな)った富士(ふじ)の巻狩(まきが)りにあたっての祝(いわ)いの宴(うたげ)。巻狩(まきが)りを前(まえ)に血気(けっき)にはやる曽我(そが)五郎(ごろう)時宗(ときむね)(左手(ひだりて)、障子(しょうじ)の手前(てまえ))と、右手(みぎて)に座(すわ)る十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)とを対照(たいしょう)的(てき)に描(えが)いています。中央(ちゅうおう)手前(てまえ)に座(すわ)るのが、和田義盛(わだよしもり)の子(こ)、小林(こばやし)朝比奈義秀(あさひなよしひで)。義秀(よしひで)の左(ひだり)には、大磯(おおいそ)廓(くるわ)の遊女(ゆうじょ)、化粧坂(けはいざか)の少将(しょうしょう)。右(みぎ)には同(どう)じく遊女(ゆうじょ)で十(じゅう)郎(ろう)祐成(すけなり)の妾(そばめ)、虎御前(とらごぜん)が描(えが)かれています。
和田義盛(わだよしもり)一門(いちもん)九(きゅう)十(じゅう)三(さん)騎(き)大磯(おおいそ)におゐて三日(みっか)三(み)夜宴(やうたげ)を催(もよお)す折(おり)から小林(こばやし)朝比奈義秀(あさひなよしひで)曽我(そがの)五郎(ごろう)時宗(ときむね)が血気(けっき)にはやるを止(とめ)て互(たがい)に力量(りきりょう)をあらはす図(ず)
六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集(こきんわかしゅう)』に記(しる)された六(ろく)人(にん)の代表(だいひょう)的(てき)な歌人(かじん)のことで、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰法師(きせんほうし)、小野小町(おののこまち)、大友黒主(おおとものくろぬし)の六(ろく)人(にん)を指(さ)し、彼(かれ)らを武者(むしゃ)に見立(みた)てています。それぞれ、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)を源三位(げんざんみ)頼政(よりまさ)(右上(みぎうえ))、文屋康秀(ふんやのやすひで)を平忠度(たいらのただのり)(右下(みぎした))、小野小町(おののこまち)を建礼門院(けんれいもんいん)(中央(ちゅうおう)上(うえ))、在原業平(ありわらのなりひら)を源実朝(みなもとのさねとも)(中央(ちゅうおう)下(した))、大友黒主(おおとものくろぬし)を源頼朝(みなもとのよりとも)(左上(ひだりうえ))、喜撰法師(きせんほうし)に蓮生(れんしょう)坊(ぼう)(左下(ひだりした))に見立(みた)てていて、源平(げんぺい)の戦(たたか)いの物語(ものがたり)が下敷(したじ)きになっているようです。
見立(みたて)武者(むしゃ)六(ろく)歌仙(かせん)
頼朝(よりとも)の死後(しご)、鎌倉幕府(かまくらばくふ)は13人(にん)の御家人(ごけにん)等(とう)による合議制(ごうぎせい)となりましたが、正治(しょうじ)元年(がんねん)(1199)に梶原景時(かじわらかげとき)が弾劾(だんがい)され翌年(よくねん)死去(しきょ)します。建仁(けんにん)3年(ねん)(1203)に比企能員(ひきよしかず)が比企(ひき)の乱(らん)を起(お)こして失脚(しっきゃく)するなど、合議制(ごうぎせい)が崩(くず)れていき、ついに侍所(さむらいどころ)別当(べっとう)であった和田義盛(わだよしもり)も執権(しっけん)北条義時(ほうじょうよしとき)と不和(ふわ)が生(しょう)じて、幕政(ばくせい)を揺(ゆ)るがす和田合戦(わだがっせん)へと発展(はってん)すると、義盛(よしもり)は戦死(せんし)し、一族(いちぞく)は滅亡(めつぼう)しました。
建(けん)保元(ぽがん)夏(なつ)五月(ごがつ) 和田(わだ)大(だい)合戦(かっせん)
鎌倉時代(かまくらじだい)の武将(ぶしょう)を六歌仙(ろっかせん)に見立(みた)てて風刺(ふうし)した戯画(ぎが)です。各人(かくじん)の隣(となり)にそれぞれ掲(かか)げられた札(ふだ)の文言(もんごん)には、彼(かれ)らの歴史(れきし)的(てき)な状況(じょうきょう)が皮肉(ひにく)を交(まじ)えて書(か)かれています。幕末(ばくまつ)に日本(にっぽん)で起(お)きた革命(かくめい)のさなかにおける諸(しょ)勢力(せいりょく)も暗示(あんじ)されているようです。
歌留多(かるた)あわせ 鎌(かま)蔵(くら)武勇(ぶゆう)六家(ろっか)仙(せん)
本図(ほんず)の弁財天(べんざいてん)は、八(はっ)臂(ぴ)(八本(はっぽん)の腕(うで))の姿(すがた)で、頭上(ずじょう)には鳥居(とりい)と蛇(へび)の頭上(ずじょう)には鳥居(とりい)と蛇(へび)の姿(すがた)の宇賀神(うがじん)(日本(にっぽん)古来(こらい)の穀物(こくもつ)神(しん))を戴(いただ)いています。これは宇賀神(うがじん)と習合(しゅうごう)し、福神(ふくじん)としての側面(そくめん)を強(つよ)めた日本(にっぽん)独自(どくじ)の弁財天(べんざいてん)です。持物(もちもの)が琵琶(びわ)ではなく、武具(ぶぐ)であることから、戦闘(せんとう)神(しん)としての性質(せいしつ)が強(つよ)く表(あらわ)されています。 図面(ずめん)下部(かぶ)には眷属(けんぞく)である十五(じゅうご)童子(どうじ)が描(えが)かれています。『江嶋(えのしま)縁起(えんぎ)』によると弁財天(べんざいてん)は欽明天皇(きんめいてんのう)13年(ねん)(552)に大地(だいち)振動(しんどう)して江の島(えのしま)が海底(かいてい)より出現(しゅつげん)した際(さい)に、眷属(けんぞく)である十五(じゅうご)童子(どうじ)とともに降(お)り立(た)ったとされています。
弁才天(べんざいてん)十(じゅう)五(ご)童子(どうじ)像(ぞう)
狂歌(きょうか):送(おく)り来(く)る 旅(たび)の別(わかれ)も 親(おや)舟(ふね)を 見(み)かへりながら 過(すぎ)る品川(しながわ)(花前亭友頼) 手前(てまえ)に品川宿(しながわしゅく)を俯瞰的(ふかんてき)に描(えが)き、その右(みぎ)奥(おく)に漁師町(りょうしまち)と品川(しながわ)沖(おき)が広(ひろ)がっています。宿場(しゅくば)に描(えが)かれる人々(ひとびと)は旅人(たびびと)だけでなく、膳(ぜん)を運(はこ)ぶ人(ひと)や棒手振(ぼてふ)り(行商人(ぎょうしょうにん))、または客(きゃく)を運(はこ)ぶ駕籠(かご)かきなどが忙(せわ)しなく行(い)き交(か)っています。中(ちゅう)景(けい)の左(ひだり)には帆(ほ)をたたみ停泊(ていはく)する廻船(かいせん)が見(み)え、賑(にぎ)やかな宿場(しゅくば)と対照(たいしょう)に穏(おだ)やかな海(うみ)が描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 品川(しながわ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):春霞(はるがすみ) ともに立(たち)出(で)て めをとばし わたりつるみの 心(こころ)のとけし(春園静枝) 六郷(ろくごう)川(がわ)を西側(にしがわ)(川崎(かわさき)側(がわ))の岸(きし)から見(み)た景色(けしき)です。六郷川(ろくごうがわ)を行(い)き交(か)う渡(わた)し舟(ぶね)には、多(おお)くの人(ひと)が乗(の)る様子(ようす)が見(み)え、川崎宿(かわさきしゅく)あたりの交通量(こうつうりょう)の多(おお)さがうかがえます。画面(がめん)左下(ひだりした)にみえる簡素(かんそ)な小屋(こや)は川(かわ)会所(かいしょ)で、川(かわ)を渡(わた)る人々(ひとびと)はここで料金(りょうきん)を払(はら)っていました。川岸(かわぎし)で舟(ふね)を待(ま)つ親子(おやこ)や、話(はな)し込(こ)むような女性(じょせい)の姿(すがた)など、街道(かいどう)をゆく人々(ひとびと)の情景(じょうけい)も描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 川崎(かわさき)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))