ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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狂歌(きょうか):くゞつめ(傀儡(くぐつ)女(め))に 引(ひき)とめられて 定宿(じょうやど)の 言訳(いいわけ)くらき 関(せき)の旅人(たびびと)(森の屋御影) まだ薄暗(うすぐら)い早朝(そうちょう)に、大名行列(だいみょうぎょうれつ)が本陣(ほんじん)を出立(しゅったつ)する場面(ばめん)を鳥瞰(ちょうかん)的(てき)に描(えが)いています。本陣(ほんじん)とは、宿場(しゅくば)において大名(だいみょう)が休憩(きゅうけい)や宿泊(しゅくはく)をするための施設(しせつ)です。本陣(ほんじん)には紋(もん)入(い)りの幔幕(まんまく)が張(は)り巡(めぐ)らされています。画面(がめん)左(ひだり)手前(てまえ)では毛(け)槍(やり)や先箱(さきばこ)が、画面(がめん)左(ひだり)奥(おく)ではすでに大名(だいみょう)の乗(の)った駕籠(かご)がちょうど出立(しゅったつ)する場面(ばめん)が描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 関(せき)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):急(いそ)ぐとも 心(こころ)してゆけ すべりなば あと戻(もど)りせん 雨(あめ)の土山(つちやま)(柴の門茶女) 両側(りょうがわ)を崖(がけ)に囲(かこ)まれた険(けわ)しい鈴鹿(すずか)峠(とうげ)の山道(さんどう)を、旅人(たびびと)たちが行(い)きかっています。合羽(かっぱ)や蓑(みの)などの服装(ふくそう)から雨模様(あめもよう)であることも伺(うかが)えます。 土山(つちやま)は雨(あめ)が多(おお)いところとしても知(し)られており、他(た)の浮世絵(うきよえ)作品(さくひん)でも土山(つちやま)の場面(ばめん)では雨(あめ)の情景(じょうけい)が描(えが)かれていることが多(おお)いです。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 土山(つちやま) 鈴鹿山(すずかやま)之(の)図(ず)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):四(よっ)つ五(いつ)つ ふればあがると 子供(こども)等(ら)が みな口々(くちぐち)に いひてあそべり(梅花堂煉方) 水口宿(みなくちしゅく)のにぎやかな宿場(しゅくば)町(まち)の様子(ようす)を描(えが)いています。水口宿(みなくちしゅく)は、東海道(とうかいどう)が制定(せいてい)される以前(いぜん)より伊勢(いせ)参宮(さんぐう)街道(かいどう)の宿場町(しゅくばまち)として栄(さか)え、「街道(かいどう)一(いち)の留(とめ)め場(じょう)」と言(い)われるほど賑(にぎ)わっていました。 画(が)中(ちゅう)でも、旅籠(はたご)の留(とめ)女(おんな)が、旅人(たびびと)の腕(うで)や荷物(にもつ)を強引(ごういん)に引(ひ)っ張(ぱ)っている様子(ようす)が見(み)られます。旅人(たびびと)たちは逃(に)げたり、旅籠(はたご)に引(ひ)かれて行(い)ったり、様々(さまざま)な反応(はんのう)が見(み)られます。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 水口(みなくち)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):都(みやこ)女(おんな)の はらをかゝへて わらふめり はらみ村(むら)てふ こゝの名(な)どころ(頭巾亭鈴掛) 梅(うめ)が咲(さ)く中庭(なかにわ)から旅籠(はたご)の中(なか)の様子(ようす)が描(えが)かれています。それぞれ部屋(へや)で思(おも)い思(おも)いに過(す)ごす旅人(たびびと)の姿(すがた)が細(こま)かく描写(びょうしゃ)されています。石部(いしべ)は、東海道(とうかいどう)を京(きょう)から出発(しゅっぱつ)して1日(にち)目(め)の宿泊(しゅくはく)地(ち)とすることが多(おお)く、多(おお)くの旅籠(はたご)が軒(のき)を連(つら)ね繁盛(はんじょう)していました。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 石部(いしべ)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):たのしみの 日数(にっすう)かさねて春雨(はるさめ)に めぐむ草津(くさつ)の 旅(たび)の道芝(みちしば)(芝口屋丘住) 草津(くさつ)名物(めいぶつ)の姥(うば)が餅(もち)を売(う)る茶屋(ちゃや)の風景(ふうけい)です。駕籠(かご)や馬(うま)が店(みせ)前(まえ)で止(と)まり、茶屋(ちゃや)の繁盛(はんじょう)している様子(ようす)が描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 草津(くさつ)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):君(きみ)が代(よ)の たからを積(つ)みて 門出(かどいで)の 仕合(しあわせ)よしと いさむうしかひ(牛飼(うしかい))(常磐園松成) 琵琶(びわ)湖(こ)の大津宿(おおつしゅく)側(がわ)にある石場(いしば)の渡(わたし)しの場面(ばめん)を描(えが)いています。遠景(えんけい)には比叡山(ひえいざん)とそれに連(つら)なるように比良(ひら)山地(さんち)が見(み)えます。草津宿(くさつしゅく)から大津宿(おおつしゅく)へむかう陸路(りくろ)は、琵琶湖(びわこ)の南側(みなみがわ)を迂回(うかい)しなければいけないので、東海道(とうかいどう)を急(いそ)ぐ旅人(たびびと)は、草津宿(くさつしゅく)側(がわ)の矢橋(やばせ)の渡(わたし)しから石場(いしば)へと渡(わた)りました。大津宿(おおつしゅく)は、琵琶湖(びわこ)の港町(みなとまち)として繁栄(はんえい)し、東海道(とうかいどう)中(ちゅう)で最大(さいだい)の宿場(しゅくば)として知(し)られていました。画(が)中(ちゅう)で舟(ふね)から下(お)ろした荷(に)の多(おお)さから宿場(しゅくば)の繁栄(はんえい)ぶりが伝(つた)わるようです。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 大津(おおつ)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):鳴神(なるかみ)の 音(おと)にきこえし 大橋(おおはし)は 雲(くも)の上(うえ)ふむ こゝちこそすれ(鶴の屋松門) 鴨川(かもがわ)に架(か)かる三条(さんじょう)大橋(おおはし)を、茶筅(ちゃせん)売(う)りや絹(きぬ)被(か)衣(つぎ)の公家(くげ)の子女(しじょ)、日傘(ひがさ)をさす武士(ぶし)など様々(さまざま)な身分(みぶん)の人々(ひとびと)が行(い)き交(か)っています。遠近法(えんきんほう)を用(もち)いて中心(ちゅうしん)に描(えが)かれた三条大橋(さんじょうおおはし)の向(む)こうには京(きょう)の家(いえ)並(な)みと、遠景(えんけい)右(みぎ)の山(やま)の中腹(ちゅうふく)には清水寺(きよみずでら)が見(み)えます。遠景(えんけい)中央(ちゅうおう)に浮(う)かび上(あ)がるように描(えが)かれた山(やま)が、より画面(がめん)に奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせます。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 京(きょう) 三条大橋(さんじょうおおはしの)ノ図(ず)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):おもひ立(たつ) さい先(さき)よしと いそ五十路(いそじ) こえてみやこを けふ三(み)つの空(そら)(紅翠亭郡子) このシリーズは京(きょう)が2図(ず)描(えが)かれています。この図(ず)では内裏(だいり)の南面(なんめん)正門(せいもん)である建(けん)礼門(れいもん)が描(えが)かれています。その手前(てまえ)を、束帯(そくたい)姿(すがた)の男性(だんせい)に日傘(ひがさ)を差(さ)し出(だ)す裃(かみしも)姿(すがた)の男性(だんせい)や、絹(きぬ)被(か)衣(つぎ)の公家(くげ)の子女(しじょ)など、様々(さまざま)な身分(みぶん)の人々(ひとびと)が往来(おうらい)しています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 京(きょう) 内裏(だいり)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))