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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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平安時代(へいあんじだい)の武将(ぶしょう)・源義家(みなもとのよしいえ)(源頼朝(みなもとのよりとも)の先祖(せんぞ))と同時代(どうじだい)に活躍(かつやく)した鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)を描(えが)いた武者絵(むしゃえ)。景政(かげまさ)は16歳(さい)で義家(よしいえ)に従(したが)って「後三年(ごさんねん)の役(えき)」に出陣(しゅつじん)し、右目(みぎめ)を射(い)られながら奮戦(ふんせん)したという伝説(でんせつ)が残(のこ)されています。景政(かげまさ)は、源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵(きょへい)に敵対(てきたい)した大庭景親(おおばかげちか)、梶原景時(かじわらかげとき)らの先祖(せんぞ)でもあります。
八幡太郎(はちまんたろう)源義家(みなもとのよしいえ) 鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)景政(かげまさ)
日本全国(にほんぜんこく)の道程(どうてい)等(とう)を絵入(えい)りで示(しめ)した【道中記(どうちゅうき)】。 表面(ひょうめん)には江戸(えど)より東海道(とうかいどう)を経(へ)て京(きょう)・大坂(おおさか)・長崎(ながさき)までの里程(りてい)(日本(にほん)のMiles Per Hour)と伊勢(いせ)・大和(やまと)等(とう)の名所巡(めいしょめぐ)りの道程(どうてい)、裏面(りめん)には京(きょう)より木曽路(きそじ)を下(くだ)り千住(せんじゅ)を経(へ)て奥州松前(おうしゅうまつやま)に向(む)かう道程(どうてい)がまとめられています。伊勢(いせ)・大和(やまと)・大坂(おおさか)・四国(しこく)の名所巡(めいしょめぐ)りについては彩色(さいしき)の絵図(えず)が添(そ)えられています。
諸国(しょこく)順(じゅん)覧(らん) 懐(かい)宝(ほう) 道中(どうちゅう)図(ず)鑒(かん)
振鷺亭主人(しんろていしゅじん)作(さく) 葛飾北斎(かつしかほくさい) 画(が) 文化(ぶんか)7(1810)年刊(ねんかん) 6巻(かん)6冊(さつ) 江戸時代(えどじだい)の小説(しょうせつ)の一種(いっしゅ)【読本(よみほん)】。読本(よみほん)は長編(ちょうへん)が多(おお)く、筋立(すじだ)ても概(がい)して複雑(ふくざつ)で、伝奇的(でんきてき)・教訓的(きょうくんてき)なものが多(おお)いのが特徴(とくちょう)です。 物語(ものがたり)は、吉野朝(よしのちょう)(南北朝時代(なんぼくちょうじだい))最後(さいご)の皇統(こうとう)、円満院(えんまんいん)の宮(みや)吉野王(よしのおおきみ)が蘇我入鹿(そがのいるか)の悪霊(あくりょう)に憑(つ)かれて禁中(きんちゅう)より神鏡(しんきょう)を盗(ぬす)み出(だ)し、赤松(あかまつ)、太宰家(だざいけ)の旧臣(きゅうしん)たち が吉野朝(よしのちょう)に潜入(せんにゅう)してこれを奪還(だっかん)し、家門(かもん) の再興(さいこう)を果(は)たすというもの。
婦女(おんな)庭訓(ていきん) 阥(おん)阦(よう) 妹背山(いもせやま)
東海道(とうかいどう)・木曾街道(きそかいどう)を絵(え)で紹介(しょうかい)した【道中記(どうちゅうき)】。 両道(りょうどう)のほかに伊勢参宮道(いせさんぐうみち)・日光山道(にっこうさんみち)・箱根七湯(はこねしちとう)めぐりの里程(りてい)も取(と)り上(あ)げている。末尾(まつび)には東海道(とうかいどう)・木曾街道(きそかいどう)の駄賃付(だちんつ)け(荷運び運賃(にはこびうんちん))が表(ひょう)で示(しめ)されている。
東海(とうかい)木曾(きそ) 両道(りょうどう)中(ちゅう)懐(かい)宝(ほう)図鑑(ずかん)
【武鑑(ぶかん)】は、江戸時代(えどじだい)に出版(しゅっぱん)された大名(だいみょう)や江戸幕府役人(えどばくふやくにん)の氏名(しめい)・石高(こくだか)・俸給(ほうきゅう)・家紋(かもん)などを記(しる)した年鑑形式(ねんかんけいしき)の紳士録(しんしろく)。 武士以外(ぶしいがい)にも、武士(ぶし)と取引(とりひき)を行(おこな)う商家(しょうか)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)を迎(むか)える宿場(しゅくば)の役人達(やくにんたち)は、それらの大名(だいみょう)を判別(はんべつ)する必要(ひつよう)があったため、武鑑(ぶかん)は実用書(じつようしょ)として販売(はんばい)されました。また江戸(えど)を訪(おとず)れる人々(ひとびと)にとっての街(まち)のガイドブックの役割(やくわり)も果(は)たしました。 展示資料(てんじしりょう)は 、太田道灌(おおたどうかん)(徳川幕府(とくがわばくふ)の前(まえ)に江戸(えど)を大(おお)きく開発(かいはつ)した大名(だいみょう))を先祖(せんぞ)に持(も)つ、遠江掛川藩主(とうとうみかけがわはんしゅ)・太田摂津守資功(おおたせっつのかみすけかつ)です。
弘化(こうか)武鑑(ぶかん) 巻(かん)之(の)二(に)
木版画(もくはんが)の彫師(ほりし)として制作活動(せいさくかつどう)を始(はじ)め、黒田清輝(くろだせいき)に師事(しじ)し、油彩画(ゆさいが)を習得(しゅうとく)している。大正末(たいしょうまつ)から欧米(おうべい)を旅(たび)し風景版画(ふうけいはんが)を多数(たすう)制作(せいさく)しています。同(おな)じく黒田門下(くろだもんか)の版画家(はんがか)ポール・()ジャクレー(Paul Jacoulet)の木版画(もくはんが)の彫(ほ)りを担当(たんとう)したこともあります。 遊行寺(ゆぎょうじ)では、現在(げんざい)でも遊行寺(ゆぎょうじ)の名物(めいぶつ)である大銀杏(おおいちょう)の紅葉(こうよう)が印象的(いんしょうてき)に描(えが)かれています。 日蓮(にちれん)ゆかりの龍口寺(りゅうこうじ)も、静謐(せいひつ)な境内(けいだい)を感(かん)じさせる黒瓦(くろがわら)の整然(せいぜん)とした姿(すがた)を見事(みごと)に描(えが)かれています。
藤沢山(とうたくさん) 遊行寺(ゆぎょうじ)
日蓮(にちれん) 龍口寺(りゅうこうじ)
二代(にだい)広重(ひろしげ)による東海道(とうかいどう)シリーズの一枚(いちまい)です。「追分道(おいわけみち)」とあるのは、この地(ち)が東海道(とうかいどう)から大山道(おおやまみち)が分岐(ぶんき)しているためです。初代(しょだい)広重(ひろしげ)の蔦屋版(つたやばん)と同(おな)じ構図(こうず)ですが、茶屋(ちゃや)のにぎわいが見(み)てとれます。左端(ひだりはし)の「大山(おおやま)みち」と書(か)かれた不動明王像(ふどうみょうおうぞう)を戴(いただ)いた道標(どうひょう)は、現在(げんざい)も同地(どうち)に鎮座(ちんざ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(つぎ) 藤沢(ふじさわ) 追分(おいわけ)道(みち)