ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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頼朝(よりとも)の死後(しご)、鎌倉幕府(かまくらばくふ)は13人(にん)の御家人(ごけにん)等(とう)による合議制(ごうぎせい)となりましたが、正治(しょうじ)元年(がんねん)(1199)に梶原景時(かじわらかげとき)が弾劾(だんがい)され翌年(よくねん)死去(しきょ)します。建仁(けんにん)3年(ねん)(1203)に比企能員(ひきよしかず)が比企(ひき)の乱(らん)を起(お)こして失脚(しっきゃく)するなど、合議制(ごうぎせい)が崩(くず)れていき、ついに侍所(さむらいどころ)別当(べっとう)であった和田義盛(わだよしもり)も執権(しっけん)北条義時(ほうじょうよしとき)と不和(ふわ)が生(しょう)じて、幕政(ばくせい)を揺(ゆ)るがす和田合戦(わだがっせん)へと発展(はってん)すると、義盛(よしもり)は戦死(せんし)し、一族(いちぞく)は滅亡(めつぼう)しました。
建(けん)保元(ぽがん)夏(なつ)五月(ごがつ) 和田(わだ)大(だい)合戦(かっせん)
鎌倉時代(かまくらじだい)の武将(ぶしょう)を六歌仙(ろっかせん)に見立(みた)てて風刺(ふうし)した戯画(ぎが)です。各人(かくじん)の隣(となり)にそれぞれ掲(かか)げられた札(ふだ)の文言(もんごん)には、彼(かれ)らの歴史(れきし)的(てき)な状況(じょうきょう)が皮肉(ひにく)を交(まじ)えて書(か)かれています。幕末(ばくまつ)に日本(にっぽん)で起(お)きた革命(かくめい)のさなかにおける諸(しょ)勢力(せいりょく)も暗示(あんじ)されているようです。
歌留多(かるた)あわせ 鎌(かま)蔵(くら)武勇(ぶゆう)六家(ろっか)仙(せん)
本図(ほんず)の弁財天(べんざいてん)は、八(はっ)臂(ぴ)(八本(はっぽん)の腕(うで))の姿(すがた)で、頭上(ずじょう)には鳥居(とりい)と蛇(へび)の頭上(ずじょう)には鳥居(とりい)と蛇(へび)の姿(すがた)の宇賀神(うがじん)(日本(にっぽん)古来(こらい)の穀物(こくもつ)神(しん))を戴(いただ)いています。これは宇賀神(うがじん)と習合(しゅうごう)し、福神(ふくじん)としての側面(そくめん)を強(つよ)めた日本(にっぽん)独自(どくじ)の弁財天(べんざいてん)です。持物(もちもの)が琵琶(びわ)ではなく、武具(ぶぐ)であることから、戦闘(せんとう)神(しん)としての性質(せいしつ)が強(つよ)く表(あらわ)されています。 図面(ずめん)下部(かぶ)には眷属(けんぞく)である十五(じゅうご)童子(どうじ)が描(えが)かれています。『江嶋(えのしま)縁起(えんぎ)』によると弁財天(べんざいてん)は欽明天皇(きんめいてんのう)13年(ねん)(552)に大地(だいち)振動(しんどう)して江の島(えのしま)が海底(かいてい)より出現(しゅつげん)した際(さい)に、眷属(けんぞく)である十五(じゅうご)童子(どうじ)とともに降(お)り立(た)ったとされています。
弁才天(べんざいてん)十(じゅう)五(ご)童子(どうじ)像(ぞう)
狂歌(きょうか):せんべいの やうな蒲団(ふとん)を きせられて 客(きゃく)のふくれる 袋井(ふくろい)のやど(豊林堂鄙住) 袋井宿(ふくろいしゅく)は日本橋(にほんばし)から京(きょう)のちょうど中間(ちゅうかん)にあたる宿場(しゅくば)です。 このシリーズは図柄(ずがら)の中(なか)に狂歌(きょうか)が1首(しゅ)ずつ折(お)り込(こ)まれているために俗(ぞく)に「狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう)」と呼(よ)ばれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 袋井(ふくろい)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
坂之下(さかのした)宿(しゅく/rt>)から土山宿(つちやましゅく)に向(む)かう道(みち)は、鈴鹿峠(すずかとうげ)(すずかとうげ)を通(とお)るため、峻厳(しゅんげん)な岩山(いわやま)が描(えが)かれます。この画(え)では、女性(じょせい)二人(ふたり)が鈴鹿峠(すずかとうげ)の絶景(ぜっけい)を楽(たの)しんでいます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 坂(さか)の下(した)
鳥瞰図(ちょうかんず)的(てき)な構図(こうず)に秀(ひい)でていた貞秀(さだひで)には、富士山(ふじさん)を描(えが)いた作品(さくひん)が数多(かずおお)くありますが、これは富士山(ふじさん)をほぼ火口(かこう)の真上(まうえ)から描(えが)いた図(ず)です。よくみると火口(かこう)にはもう一枚(いちまい)の紙(かみ)が折(お)り畳(たた)まれていて、引(ひ)っ張(ぱ)ると立体的(りったいてき)に立(た)ち上(あ)がる仕組(しく)みになっています。また画面(がめん)左(ひだり)の山麓(さんろく)辺(あた)りにはもう一枚(いちまい)紙(し)が張(は)ってあり、それをめくると洞窟(どうくつ)が現(あらわ)れ、胎内巡(たいないめぐ)りをする人々(ひとびと)が描(えが)かれています。これは富士登山(ふじとざん)の行程(こうてい)のひとつである「胎内巡(たいないめぐ)り」を描(えが)いたもので、当時(とうじ)の人気(にんき)の程(ほど)が伺(うかが)えます。
富士山(ふじさん)真景(しんけい)全(ぜん)図(ず)
半切(はんせつ)横(よこ)1枚(まい) 縦(たて)15.2 横(よこ)21.6 制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)末期(まっき)。板元(はんもと)印(しるし)なし
相州(そうしゅう)名所(めいしょ) 江(え)之(の)嶋(しま)金亀(きんき)山(ざん)之(の)図(ず)
中(ちゅう)短冊(たんざく)1枚(まい) 縦(たて)25.3 横(よこ)12.6 制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1830~44)頃(ころ)。板元(はんもと)印(しるし)なし 短冊(たんざく)絵(え)の形式(けいしき)で、短冊(たんざく)には大(だい)短冊(たんざく)、中(ちゅう)短冊(たんざく)、小(しょう)短冊(たんざく)の三(さん)種類(しゅるい)があり、これは中(ちゅう)短冊(たんざく)にあたります。起源(きげん)は寛延(かんえい)、宝暦(ほうれき)頃(ころ)といわれ、盛(さか)んになるのは享和(きょうわ)以降(いこう)のことです。画題(がだい)としては花鳥風月(かちょうふうげつ)が多(おお)いようですし、広重(ひろしげ)は浮世絵師(うきよえし)の中(なか)で最(もっと)も多(おお)くの短冊(たんざく)絵(え)をつくっています。この作品(さくひん)には漢詩(かんし)が添(そ)えられていて「楽山楽水(らくざんらくすい)情(じょう)末(まつ)休(きゅう)、清風明月(せいふうめいげつ)是(ぜ)悠々(ゆうゆう)」とあります。浮世絵(うきよえ)というより筆(ふで)で描(えが)く山水画(さんすいが)の形式(けいしき)を踏襲(とうしゅう)していて、構図(こうず)としては右手(みぎて)に岩屋(いわや)に至(いた)る江(え)の島(しま)の一部(いちぶ)を描(えが)き、その手前(てまえ)に打(う)ち寄(よ)せる大波(おおなみ)がアクセントをつくり、遠景(えんけい)の島々(しまじま)ははるかにかすみ、舟(ふね)の表現(ひょうげん)と共(とも)に水墨画(すいぼくが)の味(あじ)わいを画面(がめん)から感(かん)じさせてくれます。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)