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石橋(いしばし)山(やま)の合戦(かっせん)のエピソードのひとつに「頼朝(よりとも)の伏(ふし)木隠(きがく)れ」があります。頼朝(よりとも)が石橋(いしばし)山(やま)の合戦(かっせん)に敗(やぶ)れた後(のち)、山中(さんちゅう)の伏木(ふしき)に隠(かく)れているのを、捜索(そうさく)していた梶原景時(かじわらかげとき)が姿(すがた)を見(み)つけましたが、味方(みかた)には「だれもいない」と告(つ)げやりすごし、頼朝(よりとも)を助(たす)けたというもので、浮世絵(うきよえ)でもよく取(と)り上(あ)げられる画題(がだい)です。
本作(ほんさく)では、梶原景時(かじわらかげとき)ではなく、平家(へいけ)方(かた)の大将(たいしょう)格(かく)である大庭景親(おおばかげちか)が大(おお)きく描(えが)かれ、その下(した)の洞穴(ほらあな)に「源頼朝(みなもとのよりとも)卿(きょう)」らが潜(ひそ)んでいるさまが描(えが)かれています。画(が)中(ちゅう)の左下(ひだりした)には、頼朝(よりとも)に付(つ)き従(したが)って洞穴(ほらあな)に隠(かく)れた武将(ぶしょう)の名(な)が記(しる)されています。(安達(あだち))藤(ふじ)九郎(くろう)盛長(もりなが)、土屋(つちや)三郎(さぶろう)宗(むね)遠(とお)、岡崎(おかざき)四郎(しろう)義真(よしざね)(実(ざね))、新開(しんかい)次郎(じろう)忠(ただうじ)氏(し)、土肥(どい)次郎(じろう)実平(さねひら)、土肥(どい)遠(とお)平(っひら)。軍記物(ぐんきもの)では居(い)たと記(しる)されている田代信綱(たしろのぶつな)の名(な)は見(み)えません。

石橋(いしばし)山伏(やまぶし)木隠(きがくれ) 大場(おおば)三郎(さぶろう)景親(かげちか)

石橋(いしばし)山(やま)合戦(かっせん)は、平安時代(へいあんじだい)末期(まっき)の治(じ)承(しょう)4年(ねん)(1180)に源頼朝(みなもとのよりとも)と大庭景親(おおばかげちか)ら平家(へいけ)の一族(いちぞく)との間(あいだ)で行(おこな)われた戦(たたか)いです。組討(くみうち)ちとは、戦場(せんじょう)で敵(てき)将(しょう)を組(く)み伏(ふ)せてその首(くび)を取(と)ることで、「武勇(ぶゆう)高名(こうみょう)組討(くみうち)撰(せん)」は中世(ちゅうせい)の合戦(かっせん)の物語(ものがたり)の中(なか)で高名(こうみょう)な「組討(くみうち)」シーンを描(えが)いたシリーズです。画面(がめん)左(ひだり)が頼朝(よりとも)方(かた)の真田(さなだ)義忠(よしただ)、右(みぎ)が平家(へいけ)方(かた)の俣野(またの)景久(かげひさ)です。戦(たたか)いは一度(いちど)義忠(よしただ)の有利(ゆうり)に働(はたら)きましたが、景久(かげひさ)の加勢(かせい)にかけつけた長尾(ながお)新五(しんご)とその弟(おとうと)の新(しん)六(ろく)の手(て)により討(う)たれてしまいました。登場(とうじょう)する武将(ぶしょう)たちの名前(なまえ)は本拠(ほんきょ)とした地名(ちめい)になっており、真田(さなだ)は平塚市内(ひらつかしない)、俣野(またの)は横浜市戸塚区(よこはましとつかく)・藤沢市(ふじさわし)辺(あたり)、長尾(ながお)は横浜市栄区(よこはましさかえく)辺(あたり)にあります。

武勇(ぶゆう)高名(こうみょう)組討(くみうち)撰(せん) 股野(またの)五郎(ごろう)景久(かげひさ) 真田(さなだ)与一(よいち)義忠(よしただ)



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