ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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【武鑑(ぶかん)】は、江戸時代(えどじだい)に出版(しゅっぱん)された大名(だいみょう)や江戸幕府役人(えどばくふやくにん)の氏名(しめい)・石高(こくだか)・俸給(ほうきゅう)・家紋(かもん)などを記(しる)した年鑑形式(ねんかんけいしき)の紳士録(しんしろく)。 武士以外(ぶしいがい)にも、武士(ぶし)と取引(とりひき)を行(おこな)う商家(しょうか)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)を迎(むか)える宿場(しゅくば)の役人達(やくにんたち)は、それらの大名(だいみょう)を判別(はんべつ)する必要(ひつよう)があったため、武鑑(ぶかん)は実用書(じつようしょ)として販売(はんばい)されました。また江戸(えど)を訪(おとず)れる人々(ひとびと)にとっての街(まち)のガイドブックの役割(やくわり)も果(は)たしました。 展示資料(てんじしりょう)は 、太田道灌(おおたどうかん)(徳川幕府(とくがわばくふ)の前(まえ)に江戸(えど)を大(おお)きく開発(かいはつ)した大名(だいみょう))を先祖(せんぞ)に持(も)つ、遠江掛川藩主(とうとうみかけがわはんしゅ)・太田摂津守資功(おおたせっつのかみすけかつ)です。
弘化(こうか)武鑑(ぶかん) 巻(かん)之(の)二(に)
木版画(もくはんが)の彫師(ほりし)として制作活動(せいさくかつどう)を始(はじ)め、黒田清輝(くろだせいき)に師事(しじ)し、油彩画(ゆさいが)を習得(しゅうとく)している。大正末(たいしょうまつ)から欧米(おうべい)を旅(たび)し風景版画(ふうけいはんが)を多数(たすう)制作(せいさく)しています。同(おな)じく黒田門下(くろだもんか)の版画家(はんがか)ポール・()ジャクレー(Paul Jacoulet)の木版画(もくはんが)の彫(ほ)りを担当(たんとう)したこともあります。 遊行寺(ゆぎょうじ)では、現在(げんざい)でも遊行寺(ゆぎょうじ)の名物(めいぶつ)である大銀杏(おおいちょう)の紅葉(こうよう)が印象的(いんしょうてき)に描(えが)かれています。 日蓮(にちれん)ゆかりの龍口寺(りゅうこうじ)も、静謐(せいひつ)な境内(けいだい)を感(かん)じさせる黒瓦(くろがわら)の整然(せいぜん)とした姿(すがた)を見事(みごと)に描(えが)かれています。
藤沢山(とうたくさん) 遊行寺(ゆぎょうじ)
日蓮(にちれん) 龍口寺(りゅうこうじ)
二代(にだい)広重(ひろしげ)による東海道(とうかいどう)シリーズの一枚(いちまい)です。「追分道(おいわけみち)」とあるのは、この地(ち)が東海道(とうかいどう)から大山道(おおやまみち)が分岐(ぶんき)しているためです。初代(しょだい)広重(ひろしげ)の蔦屋版(つたやばん)と同(おな)じ構図(こうず)ですが、茶屋(ちゃや)のにぎわいが見(み)てとれます。左端(ひだりはし)の「大山(おおやま)みち」と書(か)かれた不動明王像(ふどうみょうおうぞう)を戴(いただ)いた道標(どうひょう)は、現在(げんざい)も同地(どうち)に鎮座(ちんざ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(つぎ) 藤沢(ふじさわ) 追分(おいわけ)道(みち)
張交図(はりまぜず)とは、1枚(いちまい)の中(なか)に複数(ふくすう)箇所(かしょ)の名所(めいしょ)(風景(ふうけい)、名産(めいさん)、物語(ものがたり)等(とう))を並(なら)べたもので、広重(ひろしげ)は東海道(とうかいどう)をはじめ、各地(かくち)の張交作品(はりまぜさくひん)を手(て)がけています。 1枚目(いちまいめ)は、(上段(じょうだん)から)日本橋(にほんばし)(夏(なつ)の名物(めいぶつ)、麦湯(むぎゆ)の屋台(やたい))、品川(しながわ)(大森(おおもり)〔現(げん)大田区(おおたく)〕名物(めいぶつ)の麦藁細工(むぎわらざいく)の纏(まとい))、加奈川(かながわ)(神奈川(かながわ)湊(みなと)の風景(ふうけい))、保土ヶ谷(ほどがやしゅく)(保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)の留(とめ)め女(おんな))、川崎(かわさき)(大師河原(だいしがわら)名物(めいぶつ)の梨(なし))。 2枚目(にまいめ)は、(右下(みぎした)から)戸塚(とつか)(名物(めいぶつ)「焼(や)き餅(もち)」)、藤沢(ふじさわ)(宿場(しゅくば)の飯盛女(めしもりおんな))、 四谷(よつや)追分(おいわけ)(四ツ谷(よつや)の追分(おいわけ)。人馬(にんば)の継(つ)ぎ立(だ)て場(ば)でもあったことを駕籠(かご)と馬(うま)の足(あし)で象徴(しょうちょう))、伊勢原(いせはら)(大山麓(おおやまふもと)の街(まち))、大滝(おおたき)(参詣者(さんけいしゃ)の水垢離(みずごり)の場(ば)であった大山(おおやま)の滝(たき))。 3枚目(さんまいめ)は、(右下(みぎした)から)田村(たむら)(四ツ谷(よつや)から大山(おおやま)へ向(む)かう際(さい)の相模川(さがみがわ)の渡(わた)し場(ば))、子安(こやす)(子安(こやす)の木地細工(きじざいく))、大山前不動(おおやままえふどう)(大山寺(たいさんじ)の手前(てまえ)にある堂(どう))、石尊寺(せきそんじ)来迎谷(らいごうだに)(富士山(ふじさん)に日(ひ)が沈(しず)む情景(じょうけい)は阿弥陀如来(あみだにょらい)の来迎(らいごう)と例(たと)えられていた)、良弁之滝(ろうべんのたき)(良弁上人(りょうべんしょうにん)が身(み)を清(きよ)めたという伝承(でんしょう)がある)。 いずれも、大山詣(おおやままいり)に誘(さそ)う名所(めいしょ)・名物(めいぶつ)の数々(かずかず)が描(えが)かれています。
大山道(おおやまどう)中張(ちゅうはり)交(まぜ)図会(ずえ)
富士(ふじ)と湖(みずうみ)を背景(はいけい)に、二代目(にだいめ)沢村訥升(さわむらとっしょう)演(えん)じる小栗判官(おぐりはんがん)と、三代目(さんだいめ)沢村田之助(さわむらたのすけ)演(えん)じる大蛇(だいじゃ)の精(せい)が描(えが)かれます。描(えが)かれた場面(ばめん)は、小栗判官(おぐりはんがん)が市原野辺(いちはらのべ)で横笛(よこぶえ)を奏(かな)で、その音(おと)を聴(き)いた池(いけ)に住(す)む大蛇(だいじゃ)が小栗(おぐり)の容姿(ようし)の麗(うるわ)しさに惚(ほ)れ込(こ)み、美(うつく)しい女(おんな)の姿(すがた)となって小栗(おぐり)の前(まえ)に現(あらわ)れたというものです。 題名(だいめい)に「藤沢(ふじさわ)」とありますが、物語(ものがたり)の舞台(ぶたい)である深泥ヶ池(みぞろがいけ)は京(きょう)、富士(ふじ)が大(おお)きく見(み)える湖(みずうみ)は山梨(やまなし)あたりの風景(ふうけい)を描(えが)いたものと考(かんが)えられます。
見立(みたて)富士(ふじ)十六(じゅうろく)景(けい) 藤沢(ふじさわ)
ちりめん絵(え)は一見(いっけん)小(ちい)さな錦絵(にしきえ)のように見(み)えますが、実(じつ)は和紙(わし)に摺(す)った普通(ふつう)の大(おお)きさの錦絵(にしきえ)を、棒(ぼう)に巻(ま)きつけ縮(ちぢ)めて作(つく)ったものです。近(ちか)くで見(み)ると、ちりめんに似(に)た細(こま)かい皺(しわ)があります。 ちりめん絵(え)は外国(がいこく)向(む)けのものとして量産(りょうさん)され、クレープ・ジャポン(ちりめん織(お)をフランス語(ご)でクレープと呼(よ)ぶ)、略(りゃく)してクレポンと呼(よ)ばれました。当時(とうじ)は比較的(ひかくてき)安価(あんか)に買(か)えたものであったらしく、画家(がか)のゴッホもちりめん絵(え)を多(おお)く集(あつ)めていたとされます。
東海道(とうかいどう)一(ひ)ト眼(め)千(せん)両(りょう) 沼津(ぬまづ) 黄瀬川(きせがわ)亀鶴(きかく)
東海道(とうかいどう)一(ひ)ト眼(め)千(せん)両(りょう) 見附(みつけ) 三(さん)作(さく)妹(いもうと)お辰(たつ)