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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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一(いち)の谷(たに)の戦(たたか)いに勝利(しょうり)し、後白河法皇(ごしらかわほうおう)から検非違使(けびいし)、左衛門(さえもん)少尉(しょうい)(判官(ほうがん))に任(にん)ぜられた義経(よしつね)が、臣下(しんか)を集(あつ)めて西国(さいごく)へ出陣(しゅつじん)するが描(えが)かれています。
義経(よしつね)十九(じゅうく)臣(しん)
於(おいて)瑠璃(るり)峯(みね)万(まん)福寺(ふくでら)源義経(みなもとのよしつね)起請文(きしょうもん)(義経(よしつね)腰越状(こしごえじょう))
鎌倉(かまくら)入(い)りを拒否(きょひ)された義経(よしつね)は京都(きょうと)に戻(もど)り、伊予(いよの)守(もり)に任(にん)ぜられます。画(え)は伝説(でんせつ)的(てき)英雄(えいゆう)にふさわしく、衣装(いしょう)や甲冑(かっちゅう)は豪華(ごうか)に描(えが)かれています。
九郎(くろう)冠者(かじゃ)伊予(いよ)守(かみ)源義経(みなもとのよしつね)
加賀(かが)国安(くにあ)宅(たけ)の新関(しんせき)にて義経(よしつね)主従(しゅじゅう)、富樫(とがし)左衛門(ざえもん)に見(み)とかめられしを東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)建立(こんりゅう)の験者(げんじゃ)と偽(いつわ)り、弁慶(べんけい)即(そく)智(ち)を以(もちい)て勧進帳(かんじんちょう)を読上(よみあ)げて危難(きなん)を遁(にげ)給(たま)ふ
日本(にっぽん)の武将(ぶしょう)を描(えが)いたシリーズ。義経(よしつね)、弁慶(べんけい)については、2枚(まい)が合(あ)わさるように描(えが)かれています。頭上(ずじょう)には、それぞれの略歴(りゃくれき)、武功(ぶこう)が記(しる)されています。間(あいだ)に立(た)つ制札(せいさつ)は、『源氏物語(げんじものがたり)』「須磨(すま)の巻(まき)」において光源氏(ひかるげんじ)が植(う)えたものといわれる「若木(わかぎ)の桜(さくら)」の前(まえ)に、弁慶(べんけい)が「一(いち)枝(えだ)を伐(き)らば一指(いっし)を剪(き)るべし」という制札(せいさつ)を立(た)てたというものです。こちらは「一(いち)の谷(たに)嫩(ふたば)軍記(ぐんき)」に扱(あつか)われて有名(ゆうめい)になりました。
本(ほん)朝武(ちょうぶ)優(ゆう)鏡(かがみ) 源義経(みなもとのよしつね) 武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
女性(じょせい)たちが蚕(かいこ)の糸(いと)を紡(つむ)いで絹(きぬ)を製造(せいぞう)する「養蚕(ようさん)(ようさん)」の仕事(しごと)に励(はげ)む様子(ようす)を描(えが)いた作品(さくひん)で、実際(じっさい)には一(いち)から十二(じゅうに)まであるシリーズ作品(さくひん)となっています。また、主(おも)に紫(むらさき)を色(いろ)版(ばん)に使用(しよう)した「紫(むらさき)絵(え)(むらさきえ)」と呼(よ)ばれる色調(しきちょう)の作品(さくひん)です。 この工程(こうてい)は「糸(いと)綿(わた)(いとわた)を撰(えら)(えら)み分(わ)(わ)くる図(ず)」となっており、繭(まゆ)から取(と)り出(だ)した糸(いと)を、その色(いろ)の白(しら)さや品質(ひんしつ)などに分(わ)ける作業(さぎょう)の様子(ようす)が描(えが)かれます。 寛政(かんせい)年間(ねんかん)に行(おこな)われた錦絵(にしきえ)出版(しゅっぱん)の取(と)り締(し)まりにも関連(かんれん)して、歌麿(うたまろ)はこの時期(じき)に働(はたら)く女性(じょせい)を題材(だいざい)とした作品(さくひん)を多(おお)く描(えが)いています。 (上部(じょうぶ)詞書(ことばがき)より) 「糸(いと)綿(わた)を択(えら)み分(わく)る図(ず) 簇(まゆはり) (まゆはり)より糸(いと)をおろし 色(いろ)白(しろ)くいさぎよきを細糸(ほそいと)のまゆとし 色(いろ)黒(くろ)きを粗(あら)糸乃(いとの)まゆとす 真綿(まわた)に引(ひい)ても上中(じょうちゅう)下(げ)をゑらみ分(わか)ち 形(かたち)を作(つく)りて束(たば)綿(わた)幾(いく)ばく把(わ)とするなり」
女(じょ)織(しょく)蚕(かいこ)手業(てわざ)草(ぐさ) 十(じゅう)
十(じゅう)二(に)枚(まい)揃(そろい)の最後(さいご)の作品(さくひん)で、機織(はたお)り(はたおり)の様子(ようす)が描(えが)かれています。織機(しょっき)に座(すわ)る髪(かみ)を下(くだ)した女性(じょせい)が、手足(てあし)を使(つか)って絹(きぬ)を織(お)っており、右手(みぎて)には杼(ひ)(ひ)を手(て)にしています。 本作(ほんさく)は二(に)枚(まい)続(つづき)の作品(さくひん)のうちの一(いち)枚(まい)で、もう一(いち)枚(まい)には養蚕(ようさん)と日本(にっぽん)が古(ふる)くから結(むす)びついていたとする歴史(れきし)について記(しる)されています。 (上部(じょうぶ)詞書(ことばがき)) 「蚕(かいこ)の神(かみ)を祭(まつ)る事(こと)ハむかし 軻遇突智(かぐつち)(かぐつち)埴山(はにやま)姫(ひめ)(はにやまひめ)に逢(あ)いて 雅(わか)産(むす)霊(び)(わかむすび)を産(うみ) 此(この)神(かみ)の頭(あたま)に蚕(かいこ)と桑(くわ)となれり 故(ゆえ)に 日本(にっぽん)にてハ雅(わか)産(むす)霊(び)を祭(まつ)るへきものか 人皇(じんこう)二(に)十(じゅう)二(に)代(だい) 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう) 乃(の) 御(ご)后(きさき) みつから養蚕(ようさん)し給(たま)ふ 唐土(とうど)にてハ黄帝(こうてい)の后(きさき) 西(にし)綾(あや)氏(し)を始(はじめ)とする也(なり)」
女(じょ)織(しょく)蚕(かいこ)手業(てわざ)草(ぐさ) 十二(じゅうに)
江戸時代(えどじだい)において錦絵(にしきえ)を売(う)っていた絵草紙(えぞうし)屋(や)(えぞうしや)の店先(みせさき)を描(えが)いた作品(さくひん)。店先(みせさき)には錦絵(にしきえ)が所狭(ところせま)しと陳列(ちんれつ)されており、江戸時代(えどじだい)においてどのように浮世絵(うきよえ)が売(う)られていたかを知(し)ることができます。店内(てんない)の商品(しょうひん)を見(み)ると、歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)・美人(びじん)・相撲(すもう)の力士(りきし)が描(えが)かれた作品(さくひん)や、細長(ほそなが)い形(かたち)の柱絵(はしらえ)(はしらえ)と呼(よ)ばれる浮世絵(うきよえ)も見(み)られます。 本作(ほんさく)は浮世絵(うきよえ)が作(つく)られる工程(こうてい)から人々(ひとびと)の手(て)に渡(わた)るまでを田畑(たはた)の耕作(こうさく)の様子(ようす)に見立(みた)てて描(えが)いた一連(いちれん)の作品(さくひん)の内(うち)の一(いち)枚(まい)で、この作品(さくひん)の板元(はんもと)である鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)の絵草紙(えぞうし)問屋(とんや)の店先(みせさき)が描(えが)かれていると考(かんが)えられます。
江戸(えど)名物(めいぶつ)錦(にしき)画(え)耕作(こうさく) 店先(みせさき)