Fujisawa Net Museum

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昭和(しょうわ)51(ねん)(1976)4(がつ)15(にち)指定(してい)/カヤ(雌雄(しゆう)(かぶ)樹齢(じゅれい)(やく)300(ねん)~400(ねん)樹高(じゅこう)(やく)25m、幹回(みきまわり):5.3m。タブノキ(1(かぶ))樹高(じゅこう)(やく)20m、幹回(みきまわり)(やく)3.94m(古木(こぼく)として目立(めだ)つものは3(かぶ))/常光寺(じょうこうじ)樹林(じゅりん)は、藤沢(ふじさわ)旧宿場町(きゅうしゅくばまち)南側(みなみがわ)(のこ)社寺林(しゃじりん)で、貴重(きちょう)緑地帯(りょくちたい)でもあります。境内(けいだい)(つづ)寺林(てらばやし)8,900㎡(2,700(つぼ))の(うち)指定区域(していくいき)は7,900㎡(2,400(つぼ))で、カヤ・タブノキを(はじ)め、シラカシ・クスノキ・ケヤキ・イチョウ・クロマツ・ムクノキ(とう)大小(だいしょう)さまざまな()繁茂(はんも)し、すぐ(まえ)東海道(とうかいどう)(とお)っているとは(おも)えないほどの静寂(せいじゃく)さを(たも)っています。昭和(しょうわ)59(ねん)(1984)県選定(けんせんてい)「かながわの名木(めいぼく)100(せん)」に“常光寺(じょうこうじ)のカヤ”が()げられています。所在(しょざい)所管(しょかん)本町(ほんまち)常光寺(じょうこうじ)

常光寺(じょうこうじ)樹林(じゅりん)

平成(へいせい)13(ねん)(2011)11月20日(がつはつか)登録(とうろく)()(しま)老舗旅館(しにせりょかん)洋風浴室(ようふうよくしつ)浴室(よくしつ)(かた)3(けん)規模(きぼ)でステンドグラスドームを()ける(ほか)壁面(へきめん)には壁泉(へきせん)やテラコッタタイルで(つく)られたステンドグラスの(まど)(かざ)り、脱衣室(だついしつ)には孔雀模様(くじゃくもよう)のステンドグラスが(ほどこ)されています。タイル(とう)小森忍(こもりしのぶ)、ステンドグラスは別府七郎(べっぷしちろう)製作(せいさく)(つた)えられています。岩本楼(いわもとろう)はかつて「岩本院(いわもといん)」といい、()(しま)三宮(さんみや)総別当職(そうべっとうしょく)(つと)めました。鎌倉時代(かまくらじだい)から江戸時代(えどじだい)まで、源氏(げんじ)による社殿(しゃでん)建築(けんちく)北条氏(ほうじょう)徳川氏(とくがわし)江の島弁財天信仰(えのしまべんざいてんしんこう)などにより、勅使(ちょくし)将軍(しょうぐん)大名(だいみょう)宿泊所(しゅくはくじょ)としても(さか)えたと(つた)えられており、明治期(めいじき)から旅館(りょかん)(いとな)んでいます。構造(こうぞう)木造平屋建(もくぞうひらやだて)、ガラス屋根(やね)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)5年頃(ねんごろ)建築面積(けんちくめんせき):43㎡。所有者(しょゆうしゃ):(有)岩本楼本館(いわもとろうほんかん)

岩本楼(いわもとろうろ)ローマ風呂(ぶろ)

平成(へいせい)14(ねん)(2002)8(がつ)21(にち)登録(とうろく)旧近藤邸(きゅうこんどうてい)は、関東大震災(かんとうだいしんさい)直後(ちょくご)の1925(ねん)大正(たいしょう)14(ねん))、藤沢市辻堂(ふじさわしつじどう)松林(まつばやし)別荘(べっそう)として()てられました。当時(とうじ)和洋折衷(わようせっちゅう)代表的(だいひょうてき)建物(たてもの)といわれています。()(ぬし)近藤賢二(こんどうけんじ)()没後(ぼつご)所有者(しょゆうしゃ)()わり、老朽化(ろうきゅうか)(ともな)って()(こわ)しが決定(けってい)されましたが、保存(ほぞん)(のぞ)(こえ)近隣(きんりん)住民(じゅうみん)建築家(けんちくか)から()こりました。「旧近藤邸(きゅうこんどうてい)(まも)(かい)」を中心(ちゅうしん)とする1(ねん)(あま)りの保存運動(ほぞんうんどう)結果(けっか)藤沢市(ふじさわし)によって移築保存(いちくほぞん)されることになりました。1981(ねん)3(がつ)藤沢市民会館(ふじさわしみんかいかん)前庭(まえにわ)移築(いちく)され、今日(こんにち)(いた)っています。構造(こうぞう)木造2階建(もくぞうにかいだて)屋根栗(やねくり)こば(ぶき)軒裏一部(のきうらいちぶ)しっくい(ぬり))、移築後(いちくご)はスレート(ふき)外壁下見板張(がいへきしたみいたばり)一部(いちぶ)しっくい(ぬり))。建設(けんせつ)年代(ねんだい)大正(たいしょう)14(ねん)昭和(しょうわ)56(ねん)移築(いちく)施主(せしゅ)近藤賢二(こんどうけんじ)設計(せっけい)遠藤新(えんどうあらた)施工(せこう)米良正吉建築事務所(めらまさよしけんちくじむしょ)(1925(ねん))、移築工事(いちくこうじ)鹿島建設(かしまけんせつ)(1981(ねん))。延床面積(のべゆかめんせき):173.39㎡(1階(いっかい)146.06㎡、2(かい)27.33㎡)。所有者(しょゆうしゃ)藤沢市(ふじさわし)

(きゅう)近藤(こんどう)(てい)

平成(へいせい)22(ねん)(2010)2月10日(がつとおか)登録(とうろく)東京(とうきょう)小石川駕籠町(こいしかわかごまち)後藤内科医院(ごとうないかいいん)鵠沼分院(くげぬまぶんいん)。 入母屋屋根(いりもややね)銅板葺(どうばんぶ)きの和風(わふう)要素(ようそ)と、上下窓(じょうげまど)出窓(でまど)外壁(がいへき)洋風下見板張(ようふうしたみいたば)りの洋風(ようふう)要素(ようそ)共存(きょうぞん)する外観(がいかん)意匠上(いしょうじょう)特徴(とくちょう)となっています。通気性(つうきせい)のよい高床構造(たかゆかこうぞう)断熱性能(だんねつせいのう)(すぐ)れる二重窓(にじゅうまど)屋根(やね)(もう)けられた換気塔(かんきとう)など、環境面(かんきょうめん)での配慮(はいりょ)()られます。内部(ないぶ)中廊下(なかろうか)(はさ)んで六部屋(ろくへや)整然(せいぜん)配置(はいち)され、戦前期(せんぜんき)医院建築(いいんけんちく)建築計画(けんちくけいかく)(かんが)(かた)()(のこ)貴重(きちょう)建物(たてもの)です。現在(げんざい)鵠沼橘市民(くげぬまたちばなしみん)(いえ)として、市民(しみん)(した)しまれています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて)入母屋造(いりもやづくり)銅板瓦棒葺(どうばんかわらほうぶき)外壁杉板洋風下見板張(がいへきすぎいたようふうしたみいたばり)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)8(ねん)()()りによる)。施主(せしゅ)後藤秀平(ごとうしゅうへい)延床面積(のべゆかめんせき):147㎡。所有者(しょゆうしゃ)藤沢市(ふじさわし)

(きゅう)後藤(ごとう)医院(いいん)鵠沼(くげぬま)(ぶん)(いん)

平成(へいせい)25(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)桔梗屋(ききょうや)は、旧東海道藤沢宿(きゅうとうかいどうふじさわしゅく)(ちゃ)紙問屋(かみどんや)(いとな)んでいた旧家(きゅうか)です。店蔵(みせぐら)は、2(かい)(のき)出桁(だしげた)で、さらに3(だん)軒蛇腹(のきじゃばら)(めぐ)らし、1(かい)(のき)()()めています。軒廻(のきまわ)りと外壁(がいへき)(すべ)黒漆喰(くろしっくい)仕上(しあ)げで、2階正面(かいしょうめん)東側(ひがしがわ)箇所(かしょ)重厚(じゅうこう)観音開窓(かんのんびらきまど)(もう)けています。一方(いっぽう)1(かい)は、現在(げんざい)中央(ちゅうおう)にガラス()()て、両脇(りょうわき)1(けん)(かべ)としますが、これは平成元年(へいせいがんねん)改造(かいぞう)です。古写真(こしゃしん)によれば(もと)()(はな)ちで、火災時(かさいじ)のみ塗戸(ぬりど)()()んだようで、鴨居(かもい)(みぞ)(のこ)ります。旧藤沢宿(きゅうふじさわしゅく)に15(むね)ほど店蔵(みせぐら)存在(そんざい)する時期(じき)もありましたが、外観(がいかん)内部(ないぶ)ともほぼ当初(とうしょ)姿(すがた)(のこ)したまま、現存(げんそん)するのは桔梗屋(ききょうや)のみで、震災前(しんさいまえ)様相(ようそう)(つた)える貴重(きちょう)遺構(いこう)といえます。また意匠的(いしょうてき)にも、川越(かわごえ)栃木(とちぎ)(とう)にみる江戸型(えどがた)店蔵(みせぐら)典型(てんけい)といえ、(まど)扉廻(とびらまわ)りの造作(ぞうさく)職人(しょくにん)(すぐ)れた技量(ぎりょう)(うかが)うことができます。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)桟瓦葺(さんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治(めいじ)44(ねん)大工(だいく)細野弥太郎(ほそのよたろう)所有者(しょゆうしゃ)藤沢市(ふじさわし)

桔梗屋(ききょうや) (みせ)(ぐら)

平成(へいせい)25(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)主屋(おもや)店蔵(みせぐら)連続(れんぞく)して()ち、1(かい)に8(じょう)3(しつ)2階(にかい)洋間(ようま)2(しつ)和室(わしつ)2(しつ)一列(いちれつ)(はい)し、西側(にしがわ)台所(だいどころ)浴室(よくしつ)()()します。このうち1(かい)台所(だいどころ)浴室(よくしつ)と2(かい)洋間(ようま)2(しつ)関東大震災(かんとうだいしんさい)()増築(ぞうちく)です。1(かい)店蔵(みせぐら)から(もっと)(ちか)いゲンカンは現在(げんざい)洋間(ようま)ですが、(もと)和室(わしつ)(およ)土間(どま)で、常連客(じょうれんきゃく)はここで商談(しょうだん)をしたといいます。またオクノザシキは(ゆか)違棚(ちがいだな)平書院(ひらしょいん)(そな)えた(かく)(たか)(つく)りです。床框(とこがまち)には黒柿(くろがき)床板(とこいた)には(けやき)の1枚板(まいいた)(もち)い、付書院(つけしょいん)欄間(らんま)釣竿(つりざお)魚籠(びく)()かし()りの意匠(いしょう)(すぐ)れています。関東大震災(かんとうだいしんさい)()昭和(しょうわ)10(ねん)改造(かいぞう)()けているものの、店蔵(みせぐら)同時(どうじ)建設(けんせつ)されたものであり、1(かい)(みなみ)()部分(ぶぶん)当初(とうしょ)平面(へいめん)意匠(いしょう)(つた)えています。店舗(てんぽ)のみ土蔵造(どぞうづくり)とし、住居部分(じゅうきょぶぶん)別棟(べっとう)とする構成(こうせい)は、川越(かわごえ)栃木(とちぎ)店蔵(みせぐら)共通(きょうつう)し、家族(かぞく)出入(でい)りのための外通路(そとつうろ)()(てん)同様(どうよう)です。店蔵(みせぐら)主屋(しゅおく)(そろ)うことで、生活部分(せいかつぶぶん)まで(ふく)めた用法(ようほう)(うかが)うことができます。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう)2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)、トタン葺。建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治(めいじ)44(ねん)昭和初期(しょうわしょき)増築(ぞうちく)所有者(しょゆうしゃ)藤沢市(ふじさわし)

桔梗屋(ききょうや) (しゅ)(おく)

平成(へいせい)25(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)文庫蔵(ぶんこぐら)(のき)を2段鉢巻(だんはちまき)とし、外壁(がいへき)(こし)海鼠壁(なまこかべ)で、開口部(かいこうぶ)(みなみ)(きた)妻側(つまがわ)出入口(でいりぐち)東側(ひがしがわ)に2箇所(かしょ)(もう)け、いずれも観音開(かんのんびら)きの塗戸(めいど)(そな)えます。小屋(こや)(のぼ)(ばり)で、中央間(ちゅうおうま)のみ和小屋組(わごやぐみ)としています。旧藤沢宿(きゅうふじさわしゅく)土蔵(どぞう)をみると、関次商店穀物蔵(せきじしょうてんこくもつぐら)旧鎌田家石蔵(きゅうかまたけいしぐら)などいずれも和小屋(わごや)で、(のぼ)(ばり)現存例(げんそんれい)はこの桔梗屋文庫蔵(ききょうやぶんこぐら)のみです。当地(とうち)近世(きんせい)(さかのぼ)貴重(きちょう)(れい)で、店蔵(みせぐら)とともに東海道(とうかいどう)旧宿場的(きゅうしゅくばてき)雰囲気(ふんいき)(つた)えます。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)3階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)桟瓦葺(さんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)文久元年(ぶんきゅうがんねん)大正(たいしょう)14(ねん)改修(かいしゅう)所有者(しょゆうしゃ)藤沢市(ふじさわし)

桔梗屋(ききょうや) 文庫(ぶんこ)(ぐら)

平成(へいせい)25(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)三觜家(みつはしけ)家祖(かそ)室町時代前期(むろまちじだいぜんき)まで(さかのぼ)旧家(きゅうか)です。代々八郎右衛門(だいだいはちろうえもん)襲名(しゅうめい)し、江戸時代(えどじだい)には羽鳥村(はとりむら)名主(なぬし)(つと)めました。13代八郎右衛門(だいさちろうえもん)江戸(えど)から小笠原東陽(おがさわらとうよう)(まね)いて郷学校(ごうがっこう)(ひら)きました。明治(めいじ)5(ねん)8(がつ)学制(がくせい)()かれ小学校(しょうがっこう)位置(いち)づけられると「耕余学舎(こうよがくしゃ)」と(しょう)されました。これを前身(ぜんしん)に、東陽(とうよう)明治(めいじ)10(ねん)三觜家(みつはしけ)(とう)助力(じょりょく)により、私立(しりつ)耕余塾(こうよじゅく)」を新築(しんちく)しました。耕余塾(こうよじゅく)からは政治(せいじ)実業(じつぎょう)教育(きょういく)各界(かくかい)(おお)くの人材(じんざい)輩出(はいしゅつ)しました。元内閣総理大臣(もとないかくそうりだいじん)吉田茂(よしだしげる)同塾(どうじゅく)卒業生(そつぎょうせい)です。                                          主屋(おもや)には1(しゃく)6寸角(すんかく)大黒柱(だいこくばしら)や1(しゃく)1寸格(すんかく)脇大黒柱(わきだいこくばしら)などの良材(りょうざい)(はしら)差物(さしもの)堅牢(けんろう)()み、また(ふすま)透彫欄間(すかしぼりらんま)釘隠金具(くぎかくしかなぐ)(とう)造作(ぞうさ)入念(にゅうねん)で、格調高(かくちょうたか)室内意匠(しつないいしょう)をもっています。また、2(かい)(ゆか)違棚(ちがいだな)付書院(つけしょいん)(そな)えた座敷(ざしき)がある(てん)特徴的(とくちょうてき)です。1(かい)(わき)大黒柱(だいこくばしら)が2(かい)()えて(むね)まで(たっ)する通し柱(とおしばしら)であること、1(かい)意匠(いしょう)共通(きょうつう)することからみて、増築(ぞうちく)ではなく、創建当初(そうけんとうしょ)からのものであるとわかります。一般(いっぱん)民家(みんか)平屋(ひらや)圧倒的(あっとうてき)(おお)く、明治期以前(めいじきいぜん)の2階建(かいだ)ての民家(みんか)として指定(してい)登録(とうろく)されている住宅(じゅうたく)であっても、(おお)くが2(かい)養蚕(ようさん)作業(さぎょう)(よう)空間(くうかん)でした。居住空間(きょじゅうくうかん)として2(かい)(つく)られた、(きわ)めて早期(そうき)貴重(きちょう)(れい)です。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう)2(かい)(けん)切妻造(きりづまづくり)桟瓦葺(さんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治(めいじ)11(ねん)昭和前期(しょうわぜんき)改修(かいしゅう)建築面積(けんちくめんせき) :143.3㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

旧三觜八郎右衛門家住宅(きゅうみつはしはちろうえもんけじゅうたく) (しゅ)(おく)



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