ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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日坂宿(にっさかしゅく)の東(ひがし)に位置(いち)する小夜(さよ)の中山(なかやま)(さよのなかやま)峠(とうげ)という坂道(さかみち)には、「夜啼(よなき)(よなき)石(いし)」とよばれる街道(かいどう)の名物(めいぶつ)がありました。旅人(たびびと)たちが取(と)り囲(かこ)んで見物(けんぶつ)している様子(ようす)もみえます。夜啼(よなき)石(いし)には、山賊(さんぞく)に殺(ころ)されてしまった母親(ははおや)の霊(れい)が石(いし)に移(うつ)り、毎晩(まいばん)泣(な)き声(ごえ)を上(あ)げたという伝説(でんせつ)があります。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 日坂(にっさか)
掛川宿(かけがわしゅく)の西(にし)には、秋葉神社(あきはじんじゃ)(あきはじんじゃ)への参詣(さんけい)路(ろ)である秋葉(あきは)(あきは)道(みち)(みち)の追分(おいわけ)(おいわけ)がありました。秋葉神社(あきはじんじゃ)は火伏(ひぶせ)(ひぶせ)の神(かみ)として江戸時代(えどじだい)に全国(ぜんこく)的(てき)に篤(あつ)く信仰(しんこう)されていました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 懸川(かけがわ)
袋井宿(ふくろいしゅく)の外(はず)れの街道(かいどう)沿(ぞ)いで旅(たび)姿(すがた)の女性(じょせい)達(たち)が休憩(きゅうけい)しています。画面(がめん)右(みぎ)の茶釜(ちゃがま)から出(で)る湯気(ゆげ)が線(せん)のみの描写(びょうしゃ)から樹(き)(き)の色(いろ)、灰色(はいいろ)と変化(へんか)している点(てん)に創意(そうい)を感(かん)じます。 袋井宿(ふくろいしゅく)は日本橋(にほんばし)から京(きょう)のちょうど中間(ちゅうかん)にあたる宿場(しゅくば)です。この画(え)では、出(で)茶屋(ぢゃや)(でぢゃや)の様子(ようす)が描(えが)かれています。出(で)茶屋(ぢゃや)とは、簡素(かんそ)に設(もう)けられた茶屋(ちゃや)のことで、旅人(たびびと)はこのような場所(ばしょ)で手軽(てがる)にのどを潤(うるお)していました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 袋井(ふくろい)
天竜川(てんりゅうがわ)(てんりゅうがわ)を渡(わた)る舟(ふね)が行(い)き交(か)う場面(ばめん)を描(えが)いています。穏(おだ)やかな舟(ふね)渡(わた)しの情景(じょうけい)ですが、実際(じっさい)の天竜川(てんりゅうがわ)は「あばれ天竜(てんりゅう)」ともよばれ、急流(きゅうりゅう)として知(し)られていました。舟(ふね)の奥(おく)に見(み)えるのは中州(なかす)で、2つに分(わ)かれる天竜川(てんりゅうがわ)の舟(ふね)の乗(の)り継(つ)ぎも行(おこな)われました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 見附(みつけ)
うねりの強(つよ)い遠州灘(えんしゅうなだ)(えんしゅうなだ)を後景(こうけい)に、女性(じょせい)二人(ふたり)が、なにやら談笑(だんしょう)しながら歩(ある)いています。画面(がめん)から見切(みき)れるほど大(おお)きく描(えが)かれている松(まつ)の姿(すがた)も印象(いんしょう)的(てき)です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 濱松(はままつ)
今(いま)切(ぎれ)(いまぎれ)の渡(わたし)(わた)しの、荒井(あらい)側(がわ)の船着(ふなつ)き場(ば)を描(えが)いています。画面(がめん)左(ひだり)に見(み)えるのは、今(いま)切(ぎれ)の関所(せきしょ)です。今(いま)切(ぎれ)の関所(せきしょ)は箱根(はこね)の関所(せきしょ)と並(なら)び、取締(とりしま)りの厳(きび)しい関所(せきしょ)として知(し)られていました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 荒井(あらい)
画面(がめん)右(みぎ)手前(てまえ)に見(み)える小高(こだか)い丘(おか)の坂道(さかみち)は、眺望(ちょうぼう)の良(よ)さで評判(ひょうばん)だった汐見坂(しおみざか)(しおみざか)です。後景(こうけい)には遠州灘(えんしゅうなだ)(えんしゅうなだ)が広(ひろ)がっています。描(えが)かれている人物(じんぶつ)の動(うご)きが斜(なな)めに入(はい)っているのに対(たい)して、後景(こうけい)の遠州灘(えんしゅうなだ)の水平線(すいへいせん)が印象的(いんしょうてき)に表(あらわ)されています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 白須賀(しらすか)
街道(かいどう)を、旅(たび)姿(すがた)の女性(じょせい)が共(とも)を連(つ)れて馬(うま)に乗(の)りながら進(すす)んでいます。馬方(うまかた)も女性(じょせい)も楽(らく)しげな表情(ひょうじょう)で、和(なご)やかな雰囲気(ふんいき)が伝(つた)わってきます。 二川宿(ふたがわしゅく)は、江戸(えど)から見(み)て、三河(みかわ)の国(くに)(現在(げんざい)の愛知県(あいちけん))に入(はい)る最初(さいしょ)の宿場(しゅくば)として、江戸時代(えどじだい)の東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)の草創(そうそう)期(き)から存在(そんざい)していました。2村(そん)をつないだ奥行(おくゆき)の長(なが)い宿場(しゅくば)として知(し)られ、現在(げんざい)でも宿場(しゅくば)の風情(ふぜい)を残(のこ)しています。この画(え)は宿場(しゅくば)を通過(つうか)したところのように見(み)えます。馬(うま)を引(ひ)く馬方(うまかた)の着物(きもの)が肩(かた)からはだけているのがユーモラスです。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 二川(ふたがわ)