Fujisawa Net Museum

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右側(みぎがわ)少年(しょうねん)()っている柄杓(ひしゃく)伊勢参(いせまい)りのためであると(かんが)えられます。(おや)主人(しゅじん)許可(きょか)なく、()どもや奉公人(ほうこうにん)伊勢神宮(いせじんぐう)()くのを「()(まい)り」(ぬけまいり)といい、その(さい)にお(かね)()たずに()ている(ひと)柄杓(ひしゃく)()っていました。その柄杓(ひしゃく)道中(どうちゅう)人々(ひとびと)()()すと、(めぐ)んだ(ほう)もそれが功徳(くどく)になります。
コマ()には金沢街道(かなざわかいどう)(えが)かれています。遠景(えんけい)()えている(やま)富士山(ふじさん)で、手前(てまえ)には野原(のはら)(ひろ)がっています。一見(いっけん)(なん)変哲(へんてつ)もない場所(ばしょ)のようにも()えますが、東海道(とうかいどう)から()かれて鎌倉(かまくら)(つう)じるこの金沢街道(かなざわかいどう)人通(ひとどお)りが(おお)人気(にんき)街道(かいどう)であったといいます。わざわざこの街道(かいどう)(えが)いたのは、保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)(おお)くの(みち)分岐(ぶんき)する交通(こうつう)要所(ようしょ)であったことを(しめ)したかったためかもしれません。

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(そう)(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) (ほど)がや

この二人(ふたり)は「伊賀越(いがごえ)道中双六(どうちゅうすごろく)(いがごえどうちゅうすごろく)」に登場(とうじょう)する、(じゅう)兵衛(べえ)(じゅうべえ)とお(よね)(およね)です。人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)歌舞伎(かぶき)上演(じょうえん)されていた演目(えんもく)で、実際(じっさい)()こった事件(じけん)である「伊賀越(いがごえ)仇討(あだう)ち」がモデルになっています。この事件(じけん)忠臣蔵(ちゅうしんぐら)曽我(そが)仇討(あだう)ちとともに(さん)(だい)仇討(あだう)ちのうちのひとつとして()られています。本図(ほんず)(じゅう)兵衛(べえ)(さん)代目(だいめ)坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)(さんだいめばんどうみつごろう)を(おも)わせる似顔(にがお)(えが)かれています。
コマ()(えが)かれているのは富士山(ふじさん)をはじめとした沼津宿(ぬまづしゅく)周辺(しゅうへん)山々(やまやま)と、千本松原(せんぼんまつばら)(せんぼんまつばら)であると(かんが)えられます。千本松原(せんぼんまつばら)とは、画面(がめん)右端(みぎはし)()える沼津城(ぬまづじょう)(みなみ)海岸(かいがん)沿()いに(まつ)植林(しょくりん)されている、その一帯(いったい)呼称(こしょう)です。

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(そう)(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 沼津(ぬまづ)



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