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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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平成(へいせい)25年(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)/門(もん)は主屋(おもや)前方(ぜんぽう)に西面(さいめん)して建(た)ち、鏡柱(かがみばしら)から控(ひか)え柱(はしら)までを取(と)り込(こ)む薬医門(やくいもん)です。両脇(りょうわき)に潜戸付(くぐりどづ)きの袖塀(そでべい)を設(もう)け、取付部(とりつけぶ)に絵様付(えようづ)きの柄振板(えぶりいた)を入(い)れ、扉(とびら)の金具類(かなぐるい)も古式(こしき)です。材(ざい)も太(ふと)く、風格(ふうかく)ある外観(がいかん)は、屋敷(やしき)の正門(せいもん)に相応(ふさわ)しい格式(かくしき)を備(そな)えます。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造(もくぞう)、薬医門(やくいもん)、桟瓦葺(さんかわらぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治後期(めいじこうき)。所有者(しょゆうしゃ):法人(ほうじん)。
旧三觜八郎右衛門家住宅(きゅうみつはしはちろうえもんけじゅうたく) 門(もん)
平成(へいせい)26年(ねん)(2014)10月7日(がつなのか)登録(とうろく)/この住宅(じゅうたく)の主(あるじ)であった林達夫(はやしたつお)は、平凡社(へいぼんしゃ)『世界大百科事典(せかいだいひゃっかじてん)』の編集長(へんしゅうちょう)なども務(つと)めた著名(ちょめい)な評論家(ひょうろんか)・思想家(しそうか)で、鵠沼(くげぬま)を代表(だいひょう)する文化人(ぶんかじん)です。また、長男(ちょうなん)の林巳奈夫(はやしみなお)も、京都大学教授(きょうとだいがくきょうじゅ)などを務(つと)めた日本(にほん)における古代中国青銅器研究(こだいちゅうごくせいどうきけんきゅう)の第一人者(だいいちにんしゃ)で、晩年(ばんねん)はこの住宅(じゅうたく)で過(す)ごしました。 建物(たてもの)は林達夫(はやしたつお)が藤沢市内(ふじさわしない)六会(むつあい)の古民家(こみんか)を購入(こうにゅう)したのち、日本古民家(にほんこみんか)の構成(こうせい)と古材(こざい)の風格(ふうかく)を活(い)かしつつ「古英国風田舎家(こえいこくふういなかや)」に造(つく)り上(あ)げたものです。内部(ないぶ)は古民家(こみんか)の太(ふと)い梁(はり)などの部材(ぶざい)を残(のこ)しつつ、随所(ずいしょ)にイギリス風(ふう)の意匠(いしょう)が施(ほどこ)されており、外観(がいかん)は、急勾配(きゅうこうばい)の切妻屋根(きりづまやね)とハーフディンバー(柱(はしら)、梁(はり)、筋(すじ)かいなど軸組(じくぐ)みとなる部分(ぶぶん)を外観(がいかん)に現(あらわ)した建築技法(けんちくぎほう))の外壁(がいへき)が特徴(とくちょう)となっています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造平屋建一部(もくぞうひらやいちぶ)2階建(かいだて)、切妻造(きりづまづくり)、和小屋(わごや)、銅板一文字葺一部フランス瓦葺(どうばんいちもんじぶきいちぶふらんすかわらぶき)、外壁(がいへき)モルタル塗(ぬ)り(柱型梁型(はしらがたはりがた)あらわし)、脇門付(わきもんづ)き。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):昭和(しょうわ)12年築(ねんちく)、昭和(しょうわ)33年(ねん)増築(ぞうちく)。施主(せしゅ)・設計(せっけい):林達夫(はやしたつお)。延床面積(のべゆかめんせき):218㎡。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
林家(はやしけ)住宅(じゅうたく)主(しゅ)屋(おく)
平成(へいせい)27年(ねん)(2015)8月4日(がつよっか)登録(とうろく)/旧稲元屋呉服店(きゅういなもとやごふくてん)は、戦前(せんぜん)の藤沢(ふじさわ)を代表(だいひょう)する呉服商(ごふくしょう)です。初代(しょだい)は、藤沢(ふじさわ)の豪商(ごうしょう)「豊元屋(とよもとや)」の七子(しちし)で、厚木(あつぎ)の雑貨商(ざっかしょう)「内田商店(うちだしょうてん)」に奉公(ほうこう)した後(のち)、弘化(こうか)2年(ねん)(1845)に生家(せいか)の家業(かぎょう)である雑貨薪炭商(ざっかしんたんしょう)「稲穂屋(いなほや)」を継(つ)いで現在地(げんざいち)に創業(そうぎょう)しました。「稲元屋(いなもとや)」の屋号(やごう)は、「稲穂屋(いなほや)」と生家(せいか)「豊元屋(とよもとや)」から1字(じ)ずつ取(と)って名付(なづ)けたものです。創業後(そうぎょうご)間(ま)もなく呉服商(ごふくしょう)に転業(てんぎょう)、さらに婚礼需要(こんれいじゅよう)を見込(みこ)んで箪笥部(たんすぶ)を加(くわ)え事業(じぎょう)を拡大(かくだい)しました。旧稲元屋(きゅういなもとや)は、明治(めいじ)24年(ねん)(1891)10月(がつ)の関東地方陸軍大演習(かんとうちほうりくぐんだいえんしゅう)の際(さい)、明治天皇(めいじてんのう)の行在所(あんざいしょ)を務(つと)めました。さらに、昭和初期(しょうわしょき)までに皇族(こうぞく)らの宿泊所(しゅくはくじょ)として10度(ど)用(もち)いられるなど、藤沢(ふじさわ)でも有数(ゆうすう)の名家(めいか)でした。昭和(しょうわ)15年(ねん)(1940)に建立(こんりゅう)された行在所(あんざいしょ)記念碑(きねんひ)も、敷地(しきち)南側(みなみがわ)に現存(げんそん)しています。かつては一番庫(いちばんこ)から八番庫(はちばんこ)まで蔵(くら)がありましたが、昭和(しょうわ)52年(ねん)(1977)の火災(かさい)、老朽化(ろうきゅうか)した蔵(くら)の解体(かいたい)で内蔵(うちぐら)・一番蔵(いちばんぐら)の2棟(ふたむね)のみが現存(げんそん)します。 内蔵(うちぐら)は、桁行(けたゆ)き三間半(さんげんはん)×梁間(はりま)二間(にけん)の平側(ひらがわ)に入口(いりぐち)を設(もう)けます。切妻造銅板葺(きりづまづくりどうばんぶき)で、の平側(ひらがわ)に下屋(げや)を設(もう)け、板敷(いたじ)きでガラス戸(と)を立(た)てて室内化(しつないか)しています(蔵前(くらまえ))。かつては、板敷(いたじ)きの廊下(ろうか)は店舗(てんぽ)・住居(じゅうきょ)へと接続(せつぞく)していました。1階(かい)の床高(ゆかだか)は72㎝と高(たか)く、「内蔵(うちぐら)」との呼称(こしょう)のとおり家財(かざい)や文書(ぶんしょ)を収(おさ)める家財蔵(かざいぐら)として用(もち)いられました。壁(かべ)は、擬石風(ぎせきふう)の洗(あら)い出(だ)し仕上(しあ)げで、軒裏(のきうら)と塗(ぬり)り上(あ)げのみ白漆喰(しろしっくい)で仕上(しあ)げています。入口(いりぐち)は蛇腹(じゃばら)四段(よんだん)の重厚(じゅうこう)な造(つく)りで、見込(みこ)み部分(ぶぶん)と扉面(とびらめん)のみ黒漆喰塗(くろしっくい<ぬり/rt>)で仕上(しあ)げています。2階(かい)北側(きたがわ)には、蛇腹三段(じゃばらさんだん)の窓(まど)を設(もう)け、扉(とびら)・窓枠(まどわく)・庇軒裏(ひさしのきうら)などすべて黒漆喰(くろしっくい)仕上(しあ)げです。屋根(やね)、庇(ひさし)ともに銅板葺(どうばんぶ)きで棟装飾(むねそうしょく)など丁寧(ていねい)な造作(ぞうさく)です。構造(こうぞう)・形式(けいしき):土蔵造(どぞうづくり)、2階建(かいだて)、切妻造(きりづまづくり)、銅板葺(どうばんぶき)、蔵前(くらまえ)を付(ふ)す。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):昭和(しょうわ)10年(ねん)。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
旧(きゅう)稲(いな)元屋(もとや)呉服店(ごふくてん) 内蔵(うちぐら)
平成(へいせい)27年(ねん)(2015)8月4日(がつよっか)登録(とうろく)/一番蔵(いちばんぐら)は内蔵(うちぐら)の南(みなみ)に並(なら)んで建(た)っています。土蔵造(どぞうづく)り2階建(かいだて)で、桁行(けたゆ)き三間(さんけん)×梁間(はりま)二間(にけん)の平側(ひらがわ)に入口(いりぐち)を設(もう)け、庇(ひさし)を付(ふ)しています。切妻造鉄板葺(きりづまづくりてっぱんぶき)ですが、震災前(しんさいまえ)の古写真(こしゃしん)によると元(もと)は瓦葺(かわらぶ)きでした。壁(かべ)は白漆喰塗(しろしっくいぬり)りですが、妻側(つまがわ)のみ鉄板(てっぱん)で覆(おお)い、軒(のき)は塗(ぬり)り上(あ)げで仕上(しあ)げています。入口(いりぐち)及(およ)び2階(かい)の窓(まど)は蛇腹三段(じゃばらさんだん)で、見込(みこ)み部分(ぶぶん)と扉面(とびらめん)のみ黒漆喰塗(くろしっくいぬ)り仕上(しあ)げとしています。全体的(ぜんたいてき)に内蔵(うちぐら)より意匠(いしょう)が簡素(かんそ)です。内部(ないぶ)の壁(かべ)は漆喰塗(しっくいぬ)りで、床(ゆか)の高(たか)さは低(ひく)く、かつては味噌(みそ)などの貯蔵庫(ちょぞうこ)であったことを裏付(うらづ)けています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):土蔵造(どぞうづくり)、2階建(かいだて)、切妻造(きりづまづくり)、鉄板葺(てっぱんぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治中期(めいじちゅうき)。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
旧(きゅう)稲(いな)元屋(もとや)呉服店(ごふくてん) 一番(いちばん)蔵(ぐら)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/滴水庵(てきすいあん)の施主(せしゅ)である高橋繁(たかはししげる)氏(し)は表具師(ひょうぐし)で、鵠沼(くげぬま)の別荘(べっそう)の顧客(こきゃく)が多(おお)かったことから鵠沼海岸(くげぬまかいがん)に支店(してん)「月山堂(つきやまどう)」を開業(かいぎょう)、滴水庵(てきすいあん)は繁(しげる)氏(し)が趣味(しゅみ)で営(いとな)んだ別荘(べっそう)でした。主屋(しゅおく)の建物(たてもの)は三井財閥(みついざいばつ)の益田孝(ますだたかし)(鈍翁(どんおう))が鵠沼(くげぬま)の別荘(べっそう)に建(た)てたもので、当地(とうち)に在(あ)った時(とき)は「紫明庵(しめいあん)」と号(ごう)していました。文献(ぶんけん)によると、山縣有朋(やまがたありとも)や桂太郎(かつらたろう)などが鈍翁(どんおう)に招待(しょうたい)され訪(おとず)れています。実業家(じつぎょうか)の高橋義雄(たかはしよしお)(箒庵(そうあん))も鵠沼別荘(くげぬまべっそう)を訪(おとず)れた時(とき)のことを著書(ちょしょ)に記(しる)しています。鈍翁(どんおう)の鵠沼別荘(くげぬまべっそう)は著名(ちょめい)な小田原(おだわら)の掃雲台(そううんだい)よりも早(はや)く造(つく)られています。鈍翁(どんおう)没後(ぼつご)、土地(とち)が売却(ばいきゃく)される際(さい)に、王子製紙社長(おうじせいししゃちょう)の高嶋菊次郎(たかしまきくじろう)氏(し)の仲介(ちゅうかい)により建物(たてもの)を譲(ゆず)り受(う)け、その後(ご)10年(ねん)近(ちか)く解体(かいたい)した材(ざい)の状態(じょうたい)で保管(ほかん)され、昭和(しょうわ)35年頃(ねんごろ)現在地(げんざいち)に移築(いちく)されました。移築(いちく)の仲介(ちゅうかい)をした高嶋菊次郎(たかしまきくじろう)氏(し)により「滴水庵(てきすいあん)の」と命名(めいめい)されました。全体(ぜんたい)に材(ざい)や造作(ぞうさく)が良(よ)い数寄屋建築(すきやけんちく)であり、湧水(わきみず)や土地(とち)の起伏(きふく)を利用(りよう)した庭園(ていえん)と一体(いったい)となった計画(けいかく)は質(しつ)が高(たか)く、日本最初期(にほんさいしょき)の海浜分譲別荘地(かいひんぶんじょうべっそうち)である鵠沼別荘地(くげぬまべっそうち)の開発初期(かいはつしょき)の遺構(いこう)としても重要(じゅうよう)な意味(いみ)を持(も)ちます。 主屋(おもや)は、宝形造(ほうぎょうづくり)、南(みなみ)・東(ひがし)・西(にし)の三方(さんぽう)に奥行(おくゆ)き1間(ま)の銅板葺(どうばんぶき)の広(ひろ)い庇(ひさし)を廻(めぐ)らし、北側(きたがわ)に玄関(げんかん)、東側(ひがしがわ)に茶室(ちゃしつ)と水屋(みずや)・便所(べんじょ)等(とう)を突(つ)き出(だ)しています。外壁(がいへき)は土壁(つちかべ)に杉板張(すぎいたば)りで、床高(ゆかだか)・軒高(のきだか)が低(ひく)く、安定(あんてい)したプロポーションを見(み)せています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造平屋建(もくぞうひらやだて) 瓦葺一部銅板葺(かわらぶきいちぶどうばんぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治後期(めいじこうき)建築(けんちく)、昭和(しょうわ)23年頃(ねんごろ)解体(かいたい)、昭和(しょうわ)35年(ねん)移築(いちく)。建築面積(けんちくめんせき):77㎡。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
月山(つきやま)堂(どう)滴水(てきすい)庵(あん) 主(しゅ)屋(おく)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/待合(まちあい)は主屋(おもや)の南東(なんとう)に西面(せいめん)して建(た)ちます。間口(まぐち)1.8m(6尺(しゃく))・奥行(おくゆき)1.2m(4尺(しゃく))、屋根(やね)は銅板葺(どうばんぶき)の切妻造(きりづまづくり)ですが、棟位置(むねいち)を中心(ちゅうしん)からずらして前面(ぜんめん)のみ長(なが)くした招き屋根(まねきやね)です。特徴(とくちょう)として、変木(へんぼく)の多用(たよう)が挙(あ)げられ、丸太(まるた)やなぐりのゆがみ柱(ばしら)を用(もち)い、棟木(むなぎ)・母屋(おもや)・垂木(たるき)等(とう)も全(すべ)て丸太(まるた)です。特(とく)に、正面(しょうめん)北隅(きたすみ)は華奢(きゃしゃ)な辛夷(こぶし)の枝(えだ)つき材(ざい)で、奇想(きそう)に富(と)みます。左右対称(さゆうたいしょう)を避(さ)けながら深(ふか)い軒(のき)でうまくバランスを取(と)っており、庭園(ていえん)の優(すぐ)れた景観要素(けいかんようそ)となっています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造平屋建(もくぞうひらやだて) 銅板葺(どうばんぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):昭和(しょうわ)35年頃(ねんごろ)移築(いちく)。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
月山(つきやま)堂(どう)滴水(てきすい)庵(あん) 待合(まちあい)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/大門(おおもん)は敷地(しきち)の北東(ほくとう)、前面道路(ぜんめんどうろ)から引(ひ)き込(こ)んだ石畳(いしだたみ)の先(さき)に東面(とうめん)して建(た)ちます。間口(まぐち)は4.55m、奥行(おくゆき)1.65mで、屋根(やね)は桟瓦(さんがわら)の一部(いちぶ)を銅板葺(どうばんぶき)とする切妻造(きりづまづくり)です。入(い)り口(ぐち)は幅(はば)1.9m(6.4尺(しゃく))の引き分け戸(ひきわけど)とし、右手(みぎて)の潜り戸(くぐりど)を入(はい)ると供待(ともま)ちがあり、塗籠格子(ぬりごめごうし)を開(あ)けます。壁(かべ)は土壁(つちかべ)で、正面(しょうめん)の腰(こし)になぐり刻(きざ)みの栗材(くりざい)を段違(だんちが)いに張(は)る点(てん)、潜(くぐ)り戸(ど)にひしゃぎ竹(たけ)を用(もち)いる点(てん)も数寄屋風(すきやふう)です。数寄屋造(すきやづくり)の主屋(しゅおく)の正門(せいもん)としてふさわしい、瀟洒(しょうしゃ)で品(ひん)の良(よ)い構(かま)えを見(み)せています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造(もくぞう) 切妻造(きりづまづくり) 一部銅板葺(いちぶどうばんかわらぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):昭和(しょうわ)35年(ねん)移築(いちく)。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
月山(つきやま)堂(どう)滴水(てきすい)庵(あん) 大門(おおもん)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/ 東海道(とうかいどう)藤沢宿(ふじさわしゅく)の名刹(めいさつ)として親(した)しまれる時宗総本山(じしゅうそうほんざん)藤澤山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)(通称(つうしょう):遊行寺(ゆぎょうじ))は、正中(せいちゅう)2年(ねん)(1325)に遊行四代(ゆぎょうよんだい)呑海上人(どんかいしょうにん)が、実兄(じっけい)であった相模国俣野荘地頭(さがみのくにまたのしょうじとう)・俣野五郎景平(またのごろうかげひら)の帰依(きえ)を受(う)けて当地(とうち)に建立(こんりゅう)したのが始(はじ)まりです。江戸後期(えどこうき)の境内図(けいだいず)では七堂伽藍(しちどうがらん)が整(ととの)った姿(すがた)が見(み)られますが、明治(めいじ)13年(ねん)(1880)11月(がつ)に起(お)きた「大川火事(おおかわかじ)」にて本堂(ほんどう)を含(ふく)めた諸堂(しょどう)が焼失(しょうしつ)。遊行寺(ゆぎょうじ)は再建(さいけん)を急(いそ)ぎ明治(めいじ)27年(ねん)(1894)に本堂(ほんどう)が建立(こんりゅう)されます。しかし大正(たいしょう)12年(ねん)(1923)の大正関東地震(たいしょうかんとうじしん)は山内諸堂(さんないしょどう)を倒壊(とうかい)させたのです。その後(ご)耐震化(たいしんか)を含(ふく)めて諸堂(しょどう)の再建(さいけん)が始(はじ)まります。 現在(げんざい)の本堂(ほんどう)の再建(さいけん)位置(いち)ですが、旧御廟(きゅうごびょう)の場所(ばしょ)まで後退(こうたい)させ、正面(しょうめん)に広(ひろ)い空間(くうかん)を確保(かくほ)。倒壊(とうかい)した旧本堂(きゅうほんどう)の部材(ぶざい)や彫刻(ちょうこく)を再利用(さいりよう)しつつ、昭和(しょうわ)8年(ねん)(1933)6月(がつ)22日(にち)関野金次郎(せきのきんじろう)を頭領(とうりょう)として再建工事(さいけんこうじ)に着手(ちゃくしゅ)、昭和(しょうわ)10年(ねん)(1935)5月10日(がつとうか)上棟(じょうとう)、昭和(しょうわ)12年(ねん)(1937)5月3日(がつみっか)に御本尊(ごほんぞん)が本堂(ほんどう)に入(はい)り、竣工(しゅんこう)・落成(らくせい)に至(いた)ります。内部(ないぶ)は中央(ちゅうおう)に阿弥陀坐像(あみだざぞう)を配(はい)し、当麻曼荼羅(たいままんだら)に描(えが)かれる浄土(じょうど)を模(も)して荘厳(そうごん)。関東随一(かんとうずいいち)とも言(い)われる 木造建築物(もくぞうけんちくぶつ)が復活(ふっかつ)したのです。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造平屋建(もくぞうひらやだて)、瓦銅板板葺(かわらどうばんいたぶき)(本瓦様(ほんがわらさま))、流れ向拝付入母屋造(ながれこうはいづきいりもやづく)り。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):昭和(しょうわ)12年(ねん)。建築面積(けんちくめんせき):841.4㎡。所有者(しょゆうしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)
清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) 本堂(ほんどう)