Fujisawa Net Museum

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平成(へいせい)26(ねん)(2014)10月7日(がつなのか)登録(とうろく)/この住宅(じゅうたく)(あるじ)であった林達夫(はやしたつお)は、平凡社(へいぼんしゃ)世界大百科事典(せかいだいひゃっかじてん)』の編集長(へんしゅうちょう)なども(つと)めた著名(ちょめい)評論家(ひょうろんか)思想家(しそうか)で、鵠沼(くげぬま)代表(だいひょう)する文化人(ぶんかじん)です。また、長男(ちょうなん)林巳奈夫(はやしみなお)も、京都大学教授(きょうとだいがくきょうじゅ)などを(つと)めた日本(にほん)における古代中国青銅器研究(こだいちゅうごくせいどうきけんきゅう)第一人者(だいいちにんしゃ)で、晩年(ばんねん)はこの住宅(じゅうたく)()ごしました。              建物(たてもの)林達夫(はやしたつお)藤沢市内(ふじさわしない)六会(むつあい)古民家(こみんか)購入(こうにゅう)したのち、日本古民家(にほんこみんか)構成(こうせい)古材(こざい)風格(ふうかく)()かしつつ「古英国風田舎家(こえいこくふういなかや)」に(つく)()げたものです。内部(ないぶ)古民家(こみんか)(ふと)(はり)などの部材(ぶざい)(のこ)しつつ、随所(ずいしょ)にイギリス(ふう)意匠(いしょう)(ほどこ)されており、外観(がいかん)は、急勾配(きゅうこうばい)切妻屋根(きりづまやね)とハーフディンバー((はしら)(はり)(すじ)かいなど軸組(じくぐ)みとなる部分(ぶぶん)外観(がいかん)(あらわ)した建築技法(けんちくぎほう))の外壁(がいへき)特徴(とくちょう)となっています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建一部(もくぞうひらやいちぶ)階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)和小屋(わごや)銅板一文字葺一部フランス瓦葺(どうばんいちもんじぶきいちぶふらんすかわらぶき)外壁(がいへき)モルタル()り(柱型梁型(はしらがたはりがた)あらわし)、脇門付(わきもんづ)き。建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)12年築(ねんちく)昭和(しょうわ)33(ねん)増築(ぞうちく)施主(せしゅ)設計(せっけい)林達夫(はやしたつお)延床面積(のべゆかめんせき):218㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

林家(はやしけ)住宅(じゅうたく)(しゅ)(おく)

平成(へいせい)27(ねん)(2015)8月4日(がつよっか)登録(とうろく)旧稲元屋呉服店(きゅういなもとやごふくてん)は、戦前(せんぜん)藤沢(ふじさわ)代表(だいひょう)する呉服商(ごふくしょう)です。初代(しょだい)は、藤沢(ふじさわ)豪商(ごうしょう)豊元屋(とよもとや)」の七子(しちし)で、厚木(あつぎ)雑貨商(ざっかしょう)内田商店(うちだしょうてん)」に奉公(ほうこう)した(のち)弘化(こうか)2(ねん)(1845)に生家(せいか)家業(かぎょう)である雑貨薪炭商(ざっかしんたんしょう)稲穂屋(いなほや)」を()いで現在地(げんざいち)創業(そうぎょう)しました。「稲元屋(いなもとや)」の屋号(やごう)は、「稲穂屋(いなほや)」と生家(せいか)豊元屋(とよもとや)」から1()ずつ()って名付(なづ)けたものです。創業後(そうぎょうご)()もなく呉服商(ごふくしょう)転業(てんぎょう)、さらに婚礼需要(こんれいじゅよう)見込(みこ)んで箪笥部(たんすぶ)(くわ)事業(じぎょう)拡大(かくだい)しました。旧稲元屋(きゅういなもとや)は、明治(めいじ)24(ねん)(1891)10(がつ)関東地方陸軍大演習(かんとうちほうりくぐんだいえんしゅう)(さい)明治天皇(めいじてんのう)行在所(あんざいしょ)(つと)めました。さらに、昭和初期(しょうわしょき)までに皇族(こうぞく)らの宿泊所(しゅくはくじょ)として10()(もち)いられるなど、藤沢(ふじさわ)でも有数(ゆうすう)名家(めいか)でした。昭和(しょうわ)15(ねん)(1940)に建立(こんりゅう)された行在所(あんざいしょ)記念碑(きねんひ)も、敷地(しきち)南側(みなみがわ)現存(げんそん)しています。かつては一番庫(いちばんこ)から八番庫(はちばんこ)まで(くら)がありましたが、昭和(しょうわ)52(ねん)(1977)の火災(かさい)老朽化(ろうきゅうか)した(くら)解体(かいたい)内蔵(うちぐら)一番蔵(いちばんぐら)2棟(ふたむね)のみが現存(げんそん)します。
内蔵(うちぐら)は、桁行(けたゆ)三間半(さんげんはん)×梁間(はりま)二間(にけん)平側(ひらがわ)入口(いりぐち)(もう)けます。切妻造銅板葺(きりづまづくりどうばんぶき)で、の平側(ひらがわ)下屋(げや)(もう)け、板敷(いたじ)きでガラス()()てて室内化(しつないか)しています(蔵前(くらまえ))。かつては、板敷(いたじ)きの廊下(ろうか)店舗(てんぽ)住居(じゅうきょ)へと接続(せつぞく)していました。1(かい)床高(ゆかだか)は72㎝と(たか)く、「内蔵(うちぐら)」との呼称(こしょう)のとおり家財(かざい)文書(ぶんしょ)(おさ)める家財蔵(かざいぐら)として(もち)いられました。(かべ)は、擬石風(ぎせきふう)(あら)()仕上(しあ)げで、軒裏(のきうら)(ぬり)()げのみ白漆喰(しろしっくい)仕上(しあ)げています。入口(いりぐち)蛇腹(じゃばら)四段(よんだん)重厚(じゅうこう)(つく)りで、見込(みこ)部分(ぶぶん)扉面(とびらめん)のみ黒漆喰塗(くろしっくい<ぬり/rt>)仕上(しあ)げています。2(かい)北側(きたがわ)には、蛇腹三段(じゃばらさんだん)(まど)(もう)け、(とびら)窓枠(まどわく)庇軒裏(ひさしのきうら)などすべて黒漆喰(くろしっくい)仕上(しあ)げです。屋根(やね)(ひさし)ともに銅板葺(どうばんぶ)きで棟装飾(むねそうしょく)など丁寧(ていねい)造作(ぞうさく)です。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)、2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)銅板葺(どうばんぶき)蔵前(くらまえ)()す。建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)10(ねん)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

(きゅう)(いな)元屋(もとや)呉服店(ごふくてん)  内蔵(うちぐら)

平成(へいせい)27(ねん)(2015)8月4日(がつよっか)登録(とうろく)一番蔵(いちばんぐら)内蔵(うちぐら)(みなみ)(なら)んで()っています。土蔵造(どぞうづく)り2階建(かいだて)で、桁行(けたゆ)三間(さんけん)×梁間(はりま)二間(にけん)平側(ひらがわ)入口(いりぐち)(もう)け、(ひさし)()しています。切妻造鉄板葺(きりづまづくりてっぱんぶき)ですが、震災前(しんさいまえ)古写真(こしゃしん)によると(もと)瓦葺(かわらぶ)きでした。(かべ)白漆喰塗(しろしっくいぬり)りですが、妻側(つまがわ)のみ鉄板(てっぱん)(おお)い、(のき)(ぬり)()げで仕上(しあ)げています。入口(いりぐち)(およ)び2(かい)(まど)蛇腹三段(じゃばらさんだん)で、見込(みこ)部分(ぶぶん)扉面(とびらめん)のみ黒漆喰塗(くろしっくいぬ)仕上(しあ)げとしています。全体的(ぜんたいてき)内蔵(うちぐら)より意匠(いしょう)簡素(かんそ)です。内部(ないぶ)(かべ)漆喰塗(しっくいぬ)りで、(ゆか)(たか)さは(ひく)く、かつては味噌(みそ)などの貯蔵庫(ちょぞうこ)であったことを裏付(うらづ)けています。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)、2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)鉄板葺(てっぱんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治中期(めいじちゅうき)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

(きゅう)(いな)元屋(もとや)呉服店(ごふくてん)   一番(いちばん)(ぐら)

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)滴水庵(てきすいあん)施主(せしゅ)である高橋繁(たかはししげる)()表具師(ひょうぐし)で、鵠沼(くげぬま)別荘(べっそう)顧客(こきゃく)(おお)かったことから鵠沼海岸(くげぬまかいがん)支店(してん)月山堂(つきやまどう)」を開業(かいぎょう)滴水庵(てきすいあん)(しげる)()趣味(しゅみ)(いとな)んだ別荘(べっそう)でした。主屋(しゅおく)建物(たてもの)三井財閥(みついざいばつ)益田孝(ますだたかし)鈍翁(どんおう))が鵠沼(くげぬま)別荘(べっそう)()てたもので、当地(とうち)()った(とき)は「紫明庵(しめいあん)」と(ごう)していました。文献(ぶんけん)によると、山縣有朋(やまがたありとも)桂太郎(かつらたろう)などが鈍翁(どんおう)招待(しょうたい)され(おとず)れています。実業家(じつぎょうか)高橋義雄(たかはしよしお)箒庵(そうあん))も鵠沼別荘(くげぬまべっそう)(おとず)れた(とき)のことを著書(ちょしょ)(しる)しています。鈍翁(どんおう)鵠沼別荘(くげぬまべっそう)著名(ちょめい)小田原(おだわら)掃雲台(そううんだい)よりも(はや)(つく)られています。鈍翁(どんおう)没後(ぼつご)土地(とち)売却(ばいきゃく)される(さい)に、王子製紙社長(おうじせいししゃちょう)高嶋菊次郎(たかしまきくじろう)()仲介(ちゅうかい)により建物(たてもの)(ゆず)()け、その()10(ねん)(ちか)解体(かいたい)した(ざい)状態(じょうたい)保管(ほかん)され、昭和(しょうわ)35年頃(ねんごろ)現在地(げんざいち)移築(いちく)されました。移築(いちく)仲介(ちゅうかい)をした高嶋菊次郎(たかしまきくじろう)()により「滴水庵(てきすいあん)」と命名(めいめい)されました。全体(ぜんたい)(ざい)造作(ぞうさく)()数寄屋建築(すきやけんちく)であり、湧水(わきみず)土地(とち)起伏(きふく)利用(りよう)した庭園(ていえん)一体(いったい)となった計画(けいかく)(しつ)(たか)く、日本最初期(にほんさいしょき)海浜分譲別荘地(かいひんぶんじょうべっそうち)である鵠沼別荘地(くげぬまべっそうち)開発初期(かいはつしょき)遺構(いこう)としても重要(じゅうよう)意味(いみ)()ちます。                                                  主屋(おもや)は、宝形造(ほうぎょうづくり)(みなみ)(ひがし)西(にし)三方(さんぽう)奥行(おくゆ)き1()銅板葺(どうばんぶき)(ひろ)(ひさし)(めぐ)らし、北側(きたがわ)玄関(げんかん)東側(ひがしがわ)茶室(ちゃしつ)水屋(みずや)便所(べんじょ)(とう)()()しています。外壁(がいへき)土壁(つちかべ)杉板張(すぎいたば)りで、床高(ゆかだか)軒高(のきだか)(ひく)く、安定(あんてい)したプロポーションを()せています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて) 瓦葺一部銅板葺(かわらぶきいちぶどうばんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治後期(めいじこうき)建築(けんちく)昭和(しょうわ)23年頃(ねんごろ)解体(かいたい)昭和(しょうわ)35(ねん)移築(いちく)建築面積(けんちくめんせき):77㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

月山(つきやま)(どう)滴水(てきすい)(あん) (しゅ)(おく)

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)待合(まちあい)主屋(おもや)南東(なんとう)西面(せいめん)して()ちます。間口(まぐち)1.8m(6(しゃく))・奥行(おくゆき)1.2m(4(しゃく))、屋根(やね)銅板葺(どうばんぶき)切妻造(きりづまづくり)ですが、棟位置(むねいち)中心(ちゅうしん)からずらして前面(ぜんめん)のみ(なが)くした招き屋根(まねきやね)です。特徴(とくちょう)として、変木(へんぼく)多用(たよう)()げられ、丸太(まるた)やなぐりのゆがみ(ばしら)(もち)い、棟木(むなぎ)母屋(おもや)垂木(たるき)(とう)(すべ)丸太(まるた)です。(とく)に、正面(しょうめん)北隅(きたすみ)華奢(きゃしゃ)辛夷(こぶし)(えだ)つき(ざい)で、奇想(きそう)()みます。左右対称(さゆうたいしょう)()けながら(ふか)(のき)でうまくバランスを()っており、庭園(ていえん)(すぐ)れた景観要素(けいかんようそ)となっています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて) 銅板葺(どうばんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)35年頃(ねんごろ)移築(いちく)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

月山(つきやま)(どう)滴水(てきすい)(あん) 待合(まちあい)

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)大門(おおもん)敷地(しきち)北東(ほくとう)前面道路(ぜんめんどうろ)から()()んだ石畳(いしだたみ)(さき)東面(とうめん)して()ちます。間口(まぐち)は4.55m、奥行(おくゆき)1.65mで、屋根(やね)桟瓦(さんがわら)一部(いちぶ)銅板葺(どうばんぶき)とする切妻造(きりづまづくり)です。()(ぐち)(はば)1.9m(6.4(しゃく))の引き分け戸(ひきわけど)とし、右手(みぎて)潜り戸(くぐりど)(はい)ると供待(ともま)ちがあり、塗籠格子(ぬりごめごうし)()けます。(かべ)土壁(つちかべ)で、正面(しょうめん)(こし)になぐり(きざ)みの栗材(くりざい)段違(だんちが)いに()(てん)(くぐ)()にひしゃぎ(たけ)(もち)いる(てん)数寄屋風(すきやふう)です。数寄屋造(すきやづくり)主屋(しゅおく)正門(せいもん)としてふさわしい、瀟洒(しょうしゃ)(ひん)()(かま)えを()せています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう) 切妻造(きりづまづくり) 一部銅板葺(いちぶどうばんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)35(ねん)移築(いちく)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

月山(つきやま)(どう)滴水(てきすい)(あん) 大門(おおもん)

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)/ 東海道(とうかいどう)藤沢宿(ふじさわしゅく)名刹(めいさつ)として(した)しまれる時宗総本山(じしゅうそうほんざん)藤澤山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)通称(つうしょう)遊行寺(ゆぎょうじ))は、正中(せいちゅう)2(ねん)(1325)に遊行四代(ゆぎょうよんだい)呑海上人(どんかいしょうにん)が、実兄(じっけい)であった相模国俣野荘地頭(さがみのくにまたのしょうじとう)俣野五郎景平(またのごろうかげひら)帰依(きえ)()けて当地(とうち)建立(こんりゅう)したのが(はじ)まりです。江戸後期(えどこうき)境内図(けいだいず)では七堂伽藍(しちどうがらん)(ととの)った姿(すがた)()られますが、明治(めいじ)13(ねん)(1880)11(がつ)()きた「大川火事(おおかわかじ)」にて本堂(ほんどう)(ふく)めた諸堂(しょどう)焼失(しょうしつ)遊行寺(ゆぎょうじ)再建(さいけん)(いそ)明治(めいじ)27(ねん)(1894)に本堂(ほんどう)建立(こんりゅう)されます。しかし大正(たいしょう)12(ねん)(1923)の大正関東地震(たいしょうかんとうじしん)山内諸堂(さんないしょどう)倒壊(とうかい)させたのです。その()耐震化(たいしんか)(ふく)めて諸堂(しょどう)再建(さいけん)(はじ)まります。
 現在(げんざい)本堂(ほんどう)再建(さいけん)位置(いち)ですが、旧御廟(きゅうごびょう)場所(ばしょ)まで後退(こうたい)させ、正面(しょうめん)(ひろ)空間(くうかん)確保(かくほ)倒壊(とうかい)した旧本堂(きゅうほんどう)部材(ぶざい)彫刻(ちょうこく)再利用(さいりよう)しつつ、昭和(しょうわ)8(ねん)(1933)6(がつ)22(にち)関野金次郎(せきのきんじろう)頭領(とうりょう)として再建工事(さいけんこうじ)着手(ちゃくしゅ)昭和(しょうわ)10(ねん)(1935)5月10日(がつとうか)上棟(じょうとう)昭和(しょうわ)12(ねん)(1937)5月3日(がつみっか)御本尊(ごほんぞん)本堂(ほんどう)(はい)り、竣工(しゅんこう)落成(らくせい)(いた)ります。内部(ないぶ)中央(ちゅうおう)阿弥陀坐像(あみだざぞう)(はい)し、当麻曼荼羅(たいままんだら)(えが)かれる浄土(じょうど)()して荘厳(そうごん)関東随一(かんとうずいいち)とも()われる
木造建築物(もくぞうけんちくぶつ)復活(ふっかつ)したのです。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて)瓦銅板板葺(かわらどうばんいたぶき)本瓦様(ほんがわらさま))、流れ向拝付入母屋造(ながれこうはいづきいりもやづく)り。建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)12(ねん)建築面積(けんちくめんせき):841.4㎡。所有者(しょゆうしゃ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)

清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) 本堂(ほんどう)



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