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江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/左右(さゆう)の石垣(いしべい)及(およ)び築地塀(ついじべい)は江戸中期(えどちゅうき)には成立(せいりつ)しています。大正関東地震(たいしょうかんとうじしん)において両翼(りょうよく)の築地塀(ついじべい)は倒壊(とうかい)し撤去(てっきょ)されているが左右(さゆう)の築地(ついじ)はそのまま使用(しよう)されています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):石垣(いしがき)→石造(いしづくり)、布石空積(ふせきからづみ)。築地塀(ついじべい)→土塀(どべい)(敷瓦(しきがわら)と粘土(ねんど)の練(ね)り塀(へい))、表面(ひょうめん)漆喰(しっくい)仕上(しあ)げ、瓦葺(かわらぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):江戸末期(えどまっき)、大正(たいしょう)15年頃(ねんごろ)改修(かいしゅう)。建築規模(けんちくきぼ):石垣(いしがき)→総延長(そうえんちょう)52.9m、築地塀(ついじべい)→総延長(そうえんちょう)22.4m。所有者(しょゆうしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)
清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) 石垣(いしがき)及(およ)び築地塀(ついじべい)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/関次商店(せきじしょうてん)(関野家(せきのけ))は旧東海道(きゅうとうかいどう)の旧家(きゅうか)で、初代次右衛門(しょだいじえもん)は、後(のち)にキッコーマン(株)の設立(せつりつ)に関(かか)わる千葉県(ちばけん)野田町(のだまち)(現(げん)野田市(のだし))の茂木家(もぎけ)(亀甲萬(きっこうまん))にて修行(しゅぎょう)した後(のち)、明治(めいじ)3年(ねん)(1870)に現在地(げんざいち)に分家(ぶんけ)し、白米商(はくまいしょう)と亀甲萬(きっこうまん)の販売(はんばい)及(およ)び亀甲萬(きっこうまん)への相州小麦(そうしゅうこむぎ)の仲買(なかがい)を開始(かいし)しました。関次商店(せきじしょうてん)は、早期(そうき)に創業(そうぎょう)した米穀(べいこく)・肥料問屋(ひりょうとんや)のひとつでした。藤沢(ふじさわ)は明治時代(めいじじだい)に高座郡(こうざぐん)役所(やくしょ)や登記所(とうきしょ)が置(お)かれたため、高座郡(こうざぐん)のみならず隣接(りんせつ)する鎌倉郡(かまくらぐん)・三浦郡(みうらぐん)からも農民(のうみん)・商人(しょうにん)の往来(おうらい)が多(おお)く、さらに、八王子街道(はちおうじかいどう)を通(つう)じて、相模原(さがみはら)や町田(まちだ)までを商圏(しょうけん)としました。このため、農村(のうそん)が必要(ひつよう)とした肥料販売(ひりょうはんばい)や米穀(べいこく)の集荷(しゅうか)が集中(しゅうちゅう)し、明治期(めいじき)には30軒(けん)以上(いじょう)の米穀(べいこく)・肥料商(ひりょうしょう)が存在(そんざい)しました。 穀物蔵(こくもつぐら)の規模(きぼ)は桁行(けたゆき)5間(けん)・梁間(はりま)3間(けん)で、屋根(やね)は現在(げんざい)トタン葺(ふ)きですが、明治(めいじ)32年(ねん)1月(がつ)の古写真(こしゃしん)には瓦葺(かわらぶき)の穀物蔵(こくもつぐら)が写(うつ)っており、当初(とうしょ)は瓦葺(かわらぶき)でした。外壁(がいへき)も現在(げんざい)はトタンで覆(おお)われていますが、当初(とうしょ)は漆喰(しっくい)塗(ぬり)でした。内部(ないぶ)は、壁(かべ)に板張(いたば)りも上塗(うわぬ)りもせず、塗(ぬ)り壁(かべ)の木舞組(こまいぐみ)をそのまま見(み)せる形式(けいしき)で、壁土(かべつち)によって湿度(しつど)を調節(ちょうせつ)する工夫(くふう)と伝(つた)えられます。床(ゆか)は地面上(じめんじょう)に板(いた)を敷(し)き、その上(うえ)に転(ころ)ばし丸太(まるた)による低(ひく)い床(ゆか)を組(く)みます。平家(ひらや)としては軒高(のきだか)が約(やく)5mと高(たか)く、壁(かべ)の木舞組(こまいぐみ)と相(あい)まって大空間(だいくうかん)を形成(けいせい)します。嵩(かさ)が張(は)る小麦(こむぎ)や米(こめ)を収納(しゅうのう)する穀物蔵(こくもつぐら)らしい特徴(とくちょう)といえます。入(い)り口(くち)は片引(かたび)きの塗戸(ぬりど)の内側(うちがわ)に板戸(いたど)を立(た)て、また上部(じょうぶ)には北側(きたがわ)に3箇所(かしょ)、東側(ひがしがわ)に1箇所(かしょ)高窓(たかまど)を設(もう)ける。入(い)り口(ぐち)前(まえ)の石敷(いしじ)きは、かつて道路(どうろ)から母屋(おもや)の土間(どま)を通(とお)って荷物(にもつ)を運(はこ)んだトロッコの軌道(きどう)の跡(あと)で、当時(とうじ)の用法(ようほう)を伝(つた)えています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):土蔵造平屋建(どぞうづくりひらやだて) 切妻造(きりづまづくり) トタン葺。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治(めいじ)19年(ねん)、大正後期(たいしょうこうき)増築(ぞうちく)。建築面積(けんちくめんせき):100㎡。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
関次(せきじ)商店(しょうてん) 穀物(こくもつ)蔵(ぐら)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/肥料蔵(ひりょうぐら)は、梁間(はりま)3間(けん)・桁行(けたゆき)3間(けん)で、穀物蔵(こくもつぐら)と連続(れんぞく)して建(た)てられている。東側(ひがしがわ)は穀物蔵(こくもつぐら)の漆喰壁(しっくいへき)の外壁(がいへき)が見(み)え、穀物蔵(こくもつぐら)に柱(はしら)を立(た)て添(そ)える形(かたち)で増築(ぞうちく)したことを示(しめ)している。石材(せきざい)は、穀物蔵(こくもつぐら)と同様(どうよう)鎌倉石(かまくらいし)とみられ、入口(いりぐち)上部(じょうぶ)のキーストーンに「肥料庫(ひりょうこ)」、両脇(りょうわき)に屋号(やごう)と「関次(せきじ)」の文字(もじ)を刻(きざ)んでいます。窓(まど)は西側(にしがわ)1カ所(しょ)のみで、入口(いりぐち)は鉄製(てつせい)の観音開扉(かんのんびらきとびら)の内側(うちがわ)に格子戸(こうしど)と板戸(いたど)を立(た)てています。穀物蔵(こくもつくら)に較(くら)べてやや材(ざい)が細(ほそ)く、軒高(のきだか)も80㎝ほど低(ひく)いものの大規模(だいきぼ)である点(てん)は変(か)わりません。穀物蔵(こくもつぐら)と異(こと)なり床(ゆか)は張(は)らずに叩(たた)き土間(どま)とし、その上(うえ)に板(いた)を敷(し)いて商品(しょうひん)を保管(ほかん)しました。肥料蔵(ひりょうくら)の棟札(むなふだ)から担当(たんとう)大工(だいく)が関野家(せきのけ)の親戚筋(しんせきすじ)に当(あ)たる関野芳五郎(せきのよしごろう)であることが判明(はんめい)しました。芳五郎(よしごろう)は、遊行寺(ゆぎょうじ)(清浄光寺(しょうじょうこうじ))の門前(もんぜん)に住(す)み「大芳(だいよし)」の名(な)で知(し)られていました。大工(だいく)の関野家(せきのけ)は、江戸末期(えどまっき)に創業(そうぎょう)したと伝(つた)えられ、現存(げんそん)する中雀門(ちゅうじゃくもん)(藤沢市(ふじさわし)指定重要文化財(していじゅうようぶんかざい))や本堂(ほんどう)(国登録有形文化財(くにとうろくゆうけいぶんかざい))など、遊行寺(ゆぎょうじ)の建築(けんちく)を代々(だいだい)担当(たんとう)しました。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木骨石造平屋建(もっこつせきぞうひらやだて) 切妻造(きりづまづくり) 桟瓦葺(さんかわらぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治(めいじ)40年(ねん)、大正後期(たいしょうこうき)増築(ぞうちく)。建築面積(けんちくめんせき):50㎡。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
関次(せきじ)商店(しょうてん) 肥料(ひりょう)蔵(ぐら)
平成(へいせい)31年(ねん)(2019)2月1日(がつついたち)指定(してい)/縦(たて)35.5cm、横(よこ)約(やく)764cm~1102cm/江島神社(えのしまじんじゃ)に伝来(でんらい)する縁起絵巻(えんぎえまき)(全(ぜん)5巻(かん))です。霞(かすみ)に金砂子(きんすなご)、岩(いわ)に金泥(こんでい)など金色(きんいろ)を多用(たよう)した、彩色(さいしき)豊(ゆた)かな絵巻(えまき)です。すでに市指定重要文化財(ししていじゅうようぶんかざい)に指定(してい)されている岩本楼本(いわもとろうぼん)の「江嶋縁起(えのしまえんぎ)」をもとに製作(せいさく)されたものと考(かんが)えられるが、細部(さいぶ)は相違(そうい)があります。絵師(えし)の狩野興也(かのうこうや)は、紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)の絵師(えし)であった興以(こうい)の次男(じなん)で、水戸藩(みとはん)の御用絵師(ごようえし)です。江の島(えのしま)、江島神社(えのしまじんじゃ)の来歴(らいれき)を伝(つた)えるものとして、ともに昭和(しょうわ)59年(ねん)3月(がつ)に市(し)の指定文化財(していぶんかざい)に指定(してい)された「真名本江嶋縁起(まなぼんえのしまえんぎ)」(江島神社蔵(えのしまじんじゃぞう)、室町時代後期(むろまちじだいこうき)・16世紀(せいき))ともども重要(じゅうよう)であり、美術的(びじゅつてき)にも優(すぐ)れています。各巻(かくかん)の概要(がいよう):巻(まきの)1神代(じんだい)~武烈天皇(ぶれつてんのう) 狼藉(ろうぜき)、生贄(いけにえ)を食(く)らう五頭龍(ごずりゅう) 巻(まきの)2欽明天皇(きんめいてんのう) 弁才天(べんざいてん)(弁財天(べんざいてん))降臨(こうりん)、江の島(えのしま)を創造(そうぞう)、五頭龍(ごずりゅう)を龍ノ口(たつのくち)に鎮撫(ちんぶ)する 巻(まきの)3奈良時代(ならじだい) 役小角(えんのおづぬ)、泰澄(たいちょう)の江の島(えのしま)参籠(さんろう)、道智法師(ちとくほうし)が天女(てんにょ)に懸想(けそう)し追(お)われる 巻(まきの)4平安時代(へいあんじだい) 弘法大師(こうぼうたいし)空海参籠(くうかいさんろう)、岩屋本宮(いわやほんぐう)を創建(そうけん)。慈覚大師円仁(じかくだいしえんにんさんろう)の参籠(さんろう)。 巻(まきの)5平安(へいあん)~鎌倉(かまくら) 円仁(えんにん)の指示(しじ)で社殿(しゃでん)(上之宮(かみのみや)・中津宮(なかつみや))建立(こんりゅう)開始(かいし)、良真(りょうしん)の参籠(さんろう) 天女(てんにょ)が社殿荒廃(しゃでんこうはい)を嘆(なげ)き、良真(りょうしん)は下之宮(しものみや)(辺津宮(へつみや))を建設(けんせつ)。建永元年(けんえいがんねん)(1206)遷宮(せんぐう)。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):江島神社(えのしまじんじゃ)
紙本(しほん)著(ちゃく)色(しょく)江嶋(えのしま)縁起(えんぎ)絵巻(えまき)
蓮華座(れんげざ)(仏像台座(ぶつぞうだいざ))の最下部(さいかぶ)を構成(こうせい)する上下二枚(じょうげにまい)の框(かまち)に永禄八年(えいろくはちねん)(1565)の仏像製作(ぶつぞうせいさく)、奉納時(ほうのうじ)の銘文(めいぶん)がある。「相州小坂郡(そうしゅうこさかぐん) 大庭庄板戸(おおばのしょういた ど)〔坂戸(さかど)の誤記(ごき)〕郷浄光寺(ごうじょうこうじ)」とあって、当時(とうじ)の寺名表記(てらめいひょうき)がわかるほか、「大庭庄(おおばのしょう)」は、平安時代(へいあんじだい)の大庭郷(おおばごう)、中世(ちゅうせい)の大庭御厨(おおばのみくりや)(伊勢神宮荘園(いせじんぐうしょうえん))に続(つづ)く地名(ちめい)。列挙(れっきょ)される奉納者名(ほうのうしゃめい)のなかに、藤沢宿本陣家(ふじさわしゅくほんじんけ)の蒔田家(まきたけ)など後(のち)の藤沢宿(ふじさわしゅく)の有力者(ゆうりょくしゃ)の先祖(せんぞ)にあたる名(な)が確認(かくにん)できるなど、藤沢宿以前(ふじさわしゅくいぜん)の歴史(れきし)を語(かた)る歴史資料(れきししりょう)として重要(じゅうよう)な文化財(ぶんかざい)である。 なお、現在(げんざい)安置(あんち)されている聖観音像(しょうかんのんぞう)は近世後期(きんせいこうき)のものであり、蓮華座(れんげざ)の指定(してい)に際(さい)して、附(つけたり)として指定(してい)された。 【銘文(めいぶん)1】(最下段(さいかだん)) 最大径(さいだいけい)31.8㎝・高(たか)4.5㎝ 敬白相州小坂郡(けいはくそうしゅうこさかぐん)/大庭庄板戸郷浄光寺(おおばのしょうさかどごうじょうこうじ)/本尊奉御光臺座(ほんぞんごこうだいざ)たてまつり/造立諸旦那結衆頓證(ぞうりゅうしょだんなけっしゅとんしょう)/佛果無疑者也乃至法(ぶっかうたがいなきものなりないしほっ)/界平等利益(かいびょうどうりやく)/當寺ノ看主得譽恵撓(とうじのかんすとくよけいこう)/鎌倉佛師中納言(かまくらぶっしちゅうなごん)/宗翁(そうおう) (花押(かおう))/亍時永禄乙丑年(ときにえいろくきのとうし)四月一日(しがつついたち) 【銘文(めいぶん)2】(下(した)から二番目(にばんめ)) 最大径(さいだいけい)25.0㎝・高(たか)3.4㎝ 勧進(かんじん) 檀方源右衛門(だんぽうげんえもん)/富塚善右衛門(とみづかぜんえもん)/椙山六郎左衛門(すぎやまろくろうざえもん)/北村由右衛門(きたむらよしえもん)/福山□左衛門(ふくやま□ざえもん)/端山□左衛門(はやま□ざえもん) 塩崎(しおざき□□□)/石井□助郎(いしい□すけろう) 神崎□□介(かんざき□□すけ)/蒔田宗左衛門(まきたそうざえもん) 小関右近介(こせきうこんのすけ)/磯崎又七郎(いそざきまたしちろう) 曽□□左衛門(そ□□ざえもん) 所有管理者(しょゆうかんりしゃ):常光寺(じょうこうじ)
木造(もくぞう)蓮華(れんげ)座(ざ)
令和(れいわ)3年(ねん)(2021)2月1日(がつついたち)指定(してい) 縦(たて)・横(よこ) 最大(さいだい)85㎝×85㎝ 高(たか)さ約(やく)50㎝ 鳥居(とりい)の柱(はしら)の土台(どだい)の石(いし)です。現在(げんざい)、遊行寺(ゆぎょうじ)宝物(ほうもつ)館(かん)の入口(いりぐち)両(りょう)脇(わき)に置(お)かれていますが、もとは旧東海道(きゅうとうかいどう)から分(わ)かれて南下(なんか)する江(え)の島道(しまみち)の入口(いりぐち)(藤沢(ふじさわ)1丁目(ちょうめ)。遊行寺(ゆぎょうじ)橋西(ばしにし)詰(づめ)。自動車排出(じどうしゃはいしゅつ)ガス測定(そくてい)局(きょく)付近(ふきん))にあった江島神社(えのしまじんじゃ)遥拝(ようはい)鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)です。文政(ぶんせい)六(ろく)年(ねん)(1823)に建(た)てられた青銅(せいどう)製(せい)鳥居(とりい)(二(に)代目(だいめ)。初代(しょだい)は明和(めいわ)六(ろく)年(ねん)・1769)が、明治(めいじ)十(じゅう)三(さん)年(ねん)(1880)十一月(じゅういちがつ)の藤沢宿(ふじさわしゅく)大火(たいか)で焼損(しょうそん)し、翌(よく)明治(めいじ)十(じゅう)四(よ)年(ねん)四月(しがつ)に木造(もくぞう)(木(もく)柱(ちゅう)銅板(どうばん)巻(ま)き)として再建(さいけん)(三代(さんだい)目(め))された際(さい)の沓(くつ)石(いし)であることが、沓(くつ)石(いし)の側面(そくめん)に刻(きざ)まれた銘文(めいぶん)からわかります。 その後(ご)、明治(めいじ)三(さん)十(じゅう)年(ねん)頃(ごろ)に鳥居(とりい)は腐朽(ふきゅう)のためか、撤去(てっきょ)されたようですが、沓(くつ)石(いし)はそのまま残置(ざんち)されていました。そして、大正(たいしょう)末期(まっき)の江(え)の島道(しまみち)の新道(しんどう)建設(けんせつ)の折(おり)に道路(どうろ)拡幅(かくふく)に妨(さまた)げがあるとして、藤沢宿(ふじさわしゅく)の人々(ひとびと)により清浄光寺(しょうじょうこうじ)へと運(はこ)ばれたと伝(つた)えられています。 浮世絵(うきよえ)類(るい)に描(えが)かれる藤沢宿(ふじさわしゅく)入(い)り口(ぐち)の鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)で、藤沢宿(ふじさわしゅく)のシンボル的(てき)構造物(こうぞうぶつ)の実物(じつぶつ)資料(しりょう)として、歴史的(れきしてき)価値(かち)が高(たか)いものです。 所有(しょゆう)管理者(かんりしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) ■歌川広重(うたがわひろしげ)「狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう)」 大鋸(だいぎり)橋(ばし) (現(げん)遊行寺(ゆぎょうじ)橋(ばし))を渡(わた)って、右(みぎ)が藤沢宿(ふじさわしゅく)。左(ひだり)が江(え)の島(しま)道(みち)。その入(い)り口(ぐち)に鳥居(とりい)があります。 この鳥居(とりい)は明治(めいじ)の大火(たいか)で焼損(しょうそん)しました。それを再建(さいけん)した鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)が指定(してい)文化財(ぶんかざい)です。
江(え)の島道(しまみち)入口(いりぐち)鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)
平成(へいせい)30年(ねん)(2018)2月1日(がつついたち)指定(してい)/養命寺(ようめいじ)の本尊仏(ほんぞんぶつ)で国指定重要文化財(くにしていじゅうようぶんかざい)の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)の眷属仏(けんぞくぶつ)です。十五世紀(じゅうごせいき)(室町時代初期(むろまちじだいしょき))製作(せいさく)と推定(すいてい)される木造仏像(もくぞうぶつぞう)12点(てん)で、おのおの十二支(じゅうにし)の一(ひと)つに充(あ)てられています。像高(ぞうこう)は72.4~78.5cm(台座(だいざ)除(のぞ)く現存部(げんそんぶ))。檜材(ひのきざい)の寄木造(よせぎづくり)、玉眼(ぎょくがん)(水晶(すいしょう)の眼(め))、一部(いちぶ)彩色(さいしき)で、手首(てくび)・持物(じもつ)・頭部(とうぶ)の十二支動物像(じゅうにしどうぶつぞう)などに欠失(けっしつ)がありますが、鎌倉地方(かまくらちほう)の中世彫刻(ちゅうせいちょうこく)らしい写実味(しゃじつみ)を帯(お)びた力強(ちからづよ)い堅実(けんじつ)な中世仏像(ちゅうせいぶつぞう)の遺作(いさく)として貴重(きちょう)です。「亥(い)」の宮昆羅大将像(くびらたいしょうぞう)の像内銘(ぞうないめい)「永正十八年再興(えいしょうじゅうはちねんさいこう)」など、胎内(たいない)の銘文(めいぶん)や修理札(しゅうりふだ)から永正十八年(えいしょうじゅうはちねん)(1521)、宝永六年(ほうえいろくねん)(1709)、元文三年(げんぶんさんねん)(1738)、文政七年(ぶんせいしちねん)(1824)、明治四年(めいじよねん)(1871)の修理年代(しゅうりねんだい)や、それにたずさわった鎌倉(かまくら)や江戸(えど)(日本橋(にほんばし)・神田(かんだ)・浅草(あさくさ))の修理(しゅうり)仏師(ぶっし)の名(な)が明(あき)らかである点(てん)も特筆(とくひつ)されます。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):養命寺(ようめいじ)
木造(もくぞう)十二神将(じゅうにしんしょう)立像(りゅうぞう)
平成(へいせい)29年(ねん)(2017)5月2日(がつふつか)登録(とうろく)/大正(たいしょう)13年(ねん)(1924年(ねん))に「越前屋号合名会社(えちぜんやごうごうどうかぶしきがいしゃ)雨谷商店(あまやしょうてん)」の店舗兼住居(てんぽけんじゅうきょ)として、境川(さかいがわ)にかかる大正橋(たいしょうばし)の近(ちか)くに建築(けんちく)されました。雨谷商店(あまやしょうてん)の前身(ぜんしん)である「越前(えちぜん)や 與左衛門(よざえもん)」は、江戸時代中期(えどじだいちゅうき)から清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))の惣門前(そうもんまえ)で薬品(やくひん)・砂糖(さとう)などを扱(あつか)っていた卸商(おろししょう)で大正(たいしょう)8年(ねん)(1919年(ねん))に店舗兼家屋(てんぽけんかおく)を新(あら)たに建(た)て直(なお)しましたが、大正(たいしょう)12年(ねん)(1923年(ねん))関東大地震(かんとうだいじしん)によって倒壊(とうかい)。翌年(よくとし)に場所(ばしょ)を大正橋(たいしょうばし)の近(ちか)くに移転(いてん)し新築(しんちく)しました。新築(しんちく)に際(さい)し、震災(しんさい)で倒壊(とうかい)した家屋(かおく)の部材(ぶざい)も再利用(さいりよう)されました。雨谷商店(あまやしょうてん)は昭和恐慌(しょうわきょうこう)の影響(えいきょう)で閉店(へいてん)し、建物(たてもの)は商店(しょうてん)の関係者(かんけいしゃ)が購入(こうにゅう)して昭和(しょうわ)13年(ねん)(1938年(ねん))に打戻(うちもどり)へ移築(いちく)。住居(じゅうきょ)として使(つか)われました。その後(ご)、盛岩寺(せいがんじ)が譲(ゆず)り受(う)け平成(へいせい)24年(ねん)(2012年(ねん))に境内(けいだい)へ移築(いちく)されました。大商店(だいしょうてん)の店舗兼住居(てんぽけんじゅうきょ)であったため、規模(きぼ)の大(おお)きさ、硝子(がらす)や貴重(きちょう)な木材(もくざい)を惜(お)しみなく使(つか)っている点(てん)など通常(つうじょう)の民家(みんか)には見(み)られない特色(とくしょく)が多(おお)くあります。出桁(だしげた)や庇(ひさし)の太(ふと)い桁(けた)など、震災復興期(しんさいふっこうき)らしい重厚(じゅうこう)さが見(み)られます。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造平屋建(もくぞうひらやだて) 鋼板葺(はがねいたぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):大正(たいしょう)13年(ねん)建築(けんちく)、昭和(しょうわ)13年(ねん)移築(いちく)、平成(へいせい)24年(ねん)移築(いちく)。建築面積(けんちくめんせき):138㎡。所有者(しょゆうしゃ):盛岩寺(せいがんじ)
旧(きゅう)越前屋(えちぜんや)雨谷(あまや)商店(しょうてん)店舗(てんぽ)兼(けん)主(しゅ)屋(おく)