ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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洋館(ようかん)が立(た)ち並(なら)ぶ通(とお)りには、馬(うま)に乗(の)った西洋人(せいようじん)や乳母車(うばぐるま)を押(お)すドレス姿(すがた)の女性(じょせい)などの姿(すがた)が見(み)られます。明治(めいじ)元年(がんねん)(1868)に描(えが)かれた作品(さくひん)です。横浜(よこはま)には、山下(やました)居留地(きょりゅうち)(現在(げんざい)の山(やま)下町(したちょう)と日本(にほん)大通(おおどおり)の東側(ひがしがわ)半分(はんぶん))と山手(やまて)居留地(きょりゅうち)(現在(げんざい)の山手町(やまてちょう))の二か所(しょ)に外国人(がいこくじん)居留地(きょりゅうち)がありました。山下(やました)居留地(きょりゅうち)は主(おも)に外国(がいこく)商社(しょうしゃ)が立(た)ち並(なら)ぶ商業(しょうぎょう)区域(くいき)として、山手(やまて)居留地(きょりゅうち)は外国人(がいこくじん)住宅地(じゅうたくち)として発達(はったつ)しました。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(横浜(よこはま)異人(いじん)商館(しょうかん)の図(ず))
歌川国利(うたがわくにとし)は、歌川国貞(うたがわくにさだ)の門人(もんじん)で、名所(めいしょ)絵(え)、文明開化(ぶんめいかいか)絵(え)や切組(きりくみ)絵(え)などを描(えが)き、明治期(めいじき)に活躍(かつやく)しました。参詣(さんけい)客(きゃく)で賑(にぎ)わっている江(え)の島(しま)の三の鳥居(とりい)付近(ふきん)の風景(ふうけい)が描(えが)かれています。洋(よう)傘(かさ)をさした洋装(ようそう)の人物(じんぶつ)なども描(えが)かれている文明開化(ぶんめいかいか)絵(え)のひとつです。
大日本(だいにっぽん)名所図会(めいしょずえ) 相州(そうしゅう)江(え)のしま神社(じんじゃ)
『東京(とうきょう)日々(にちにち)新聞(しんぶん)』は、明治(めいじ)5年(ねん)(1872)2月(がつ)21日(にち)に創刊(そうかん)された東京(とうきょう)初(はつ)の日刊(にっかん)紙(し)です。条野(じょうの)採菊(さいぎく)(戯作者(げさくしゃ))、落合芳幾(おちあいよしいく)(浮世絵師(うきよえし))、西田(にしだ)伝助(でんすけ)(本屋(ほんや)の番頭(ばんとう))らが創刊(そうかん)しました。964号(ごう)は、明治(めいじ)8年(ねん)(1875)発行(はっこう)です。江之島(えのしま)恵比寿(えびす)屋(や)の記事(きじ)が載(の)っています。詞書(ことばが)きには、恵比寿(えびす)屋(や)に三階(かい)建(だ)ての新(あたら)しい楼閣(ろうかく)ができ、その楼閣(ろうかく)からの眺(なが)めはすばらしく、人気(にんき)俳優(はいゆう)の坂東彦三郎(ばんどうひこさぶろう)や菊五郎(きくごろう)、団十郎(だんじゅうろう)などが楼上(ろうじょう)を訪(おとず)れるために、恵比寿(えびす)屋(や)に名前(なまえ)を染(そ)めた暖簾(のれん)を送(おく)る用意(ようい)の最中(さいちゅう)だと書(か)かれています。明治(めいじ)8年(ねん)(1875)4月(がつ)1日(にち)から5月(がつ)20日(にち)まで臨時(りんじ)大祭(たいさい)が江(え)の島(しま)の弁財天(べんざいてん)の廟(びょう)で開(ひら)かれるという知(し)らせもあわせて載(の)っています。
東京(とうきょう)日々(にちにち)新聞(しんぶん) 964号(ごう) 江之島(えのしま)恵比寿(えびす)屋(や)楼上(ろうじょう)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 画面手前(がめんてまえ)に三条大橋(さんじょうおおはし)、後景(こうけい)に東山(ひがしやま)を描(えが)く構図(こうず)は、初代(しょだい)広重(ひろしげ)の作品(さくひん)にも通(つう)じています。 橋(はし)の左端(ひだりはし)に描(えが)かれている黒(くろ)い制服姿(せいふくすがた)の人物(じんぶつ)は、郵便配達夫(ゆうびんはいたつふ)です。 明治(めいじ)4年(ねん)(1871)に郵便事業(ゆうびんじぎょう)が始(はじ)まると、郵便配達夫(ゆうびんはいたつふ)が郵便物(ゆうびんぶつ)の配達(はいたつ)に携(たずさ)わりました。 表題(ひょうだい)にある「布団(ふとん)着(き)て寝(ね)たる姿(すがた)やひかし(東(ひがし))山(やま)」とは松尾芭蕉(まつおばしょう)(江戸時代(えどじだい)前期(ぜんき)の俳諧師(はいかいし))の弟子(でし)である服部嵐雪(はっとりらんせつ)が詠(よ)んだもので、夕暮(ゆうぐれ)どきの東山(ひがしやま)に雪(ゆき)が残(のこ)っている様子(ようす)を、布団(ふとん)を着(き)て寝(ね)ているような姿(すがた)に見(み)えると表現(ひょうげん)しました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道(とうかいどう)各(かく)宿駅(しゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)初期(しょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学(かがく)顔料(がんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 五十八(ごじゅうはち) 西京(さいきょう) 三條(さんじょう)の大橋(おおはし)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 人々(ひとびと)が行(い)き交(か)い活気(かっき)あふれる大津宿(おおつしゅく)の様子(ようす)と、その後景(こうけい)に琵琶湖(びわこ)が見(み)えます。 荷(に)を運(はこ)ぶ牛(うし)の背中(せなか)には暑(あつ)さ対策(たいさく)の藁(わら)が被(かぶ)せられていますが、これは初代広重(しょだいひろしげ)も描(えが)いた描写(びょうしゃ)です。 江戸時代(えどじだい)の宿場町(しゅくばまち)と変(か)わらないような景色(けしき)の中(なか)にも、店(みせ)の二階(にかい)から姿(すがた)をみせている散切(ざんぎ)り頭(あたま)の男性(だんせい)や電信柱(でんしんばしら)が建(た)ち並(なら)ぶ様子(ようす)からは、明治(めいじ)の時代(じだい)が感(かん)じられます。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道(とうかいどう)各(かく)宿駅(しゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)初期(しょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学(かがく)顔料(がんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 五十(ごじゅう)七(なな) 宿(やど)中(ちゅう)より湖水(こすい)の景(けい) 大津(おおつ) 西京(さいきょう)迄(まで)三(さん)里(り)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 草津宿(くさつしゅく)は、東海道(とうかいどう)と中山道(なかせんどう)の追分(おいわけ)の宿場(しゅくば)として栄(さか)えました。 この画(え)は、その追分(おいわけ)の場面(ばめん)を描(えが)いています。 猿(さる)ひきの男性(だんせい)が追分道標(おいわけどうひょう)の台座(だいざ)に腰(こし)をかけ、紐(ひも)のついた猿(さる)が道標(どうひょう)の上(うえ)に上(のぼ)っています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道(とうかいどう)各(かく)宿駅(しゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)初期(しょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学(かがく)顔料(がんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 五十六(ごじゅうろく) 草津(くさつ) 両(りょう)街道(かいどう)の追分(おいわけ)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 石部宿(いしべしゅく)の東(ひがし)のはずれには、目川(めがわ)の里(さと)と呼(よ)ばれる立場(たてば)(休憩所(きゅうけいしょ))があり、ここの茶屋(ちゃや)で出(だ)される菜飯(なめし)と田楽(でんがく)が名物(めいぶつ)でした。 画中(がちゅう)では、立場(たてば)近(ちか)くの街道(かいどう)を人々(ひとびと)が行(い)き交(か)う情景(じょうけい)を描(えが)いています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道(とうかいどう)各(かく)宿駅(しゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)初期(しょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学(かがく)顔料(がんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 五十五(ごじゅうご) 目川(めかわ)の里(さと) 石部(いしべ) 草津(くさつ)迄(まで)二(に)り半(はん)八(はっ)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)が描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道(とうかいどう)各(かく)宿駅(しゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)初期(しょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学(かがく)顔料(がんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 平(ひら)松山(まつやま)の麓(ふもと)の橋(はし)を渡(わた)る人物(じんぶつ)は、帽子(ぼうし)をかぶって、扇子(せんす)を持(も)ち、鞄(かばん)をさげて袴(はかま)をはいて、下駄(げた)で歩(ある)いています。和洋折衷(わようせっちゅう)な出(い)で立(た)ちです。人力車(じんりきしゃ)も描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 五十(ごじゅう)四(よん) 平(ひら)松山(まつやま)の麓(ふもと) 水口(みなくち) 石部(いしべ)迄(まで)三(さん)り十(じゅう)二(に)丁(ちょう)