Fujisawa Net Museum

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平成(へいせい)29(ねん)((2017)10(がつ)27(にち) 登録(とうろく)石曽根家(いしそね)は、旧東海道(きゅうとうかいどう)沿()いで江の島道(えのしまみち)との分岐点(ぶんきてん)のやや西側(にしがわ)()り、屋号(やごう)は「マルイシ」で履物屋(はきものや)下駄屋(げたや))を(いとな)んでいました。昭和(しょうわ)8年刊行(ねんかんこう)の『現在(げんざい)藤沢(ふじさわ)』によれば、創業者(そうぎょうしゃ)達次氏(たつじし)明治(めいじ)11(ねん)鵠沼(くげぬま)()まれ、藤沢(ふじさわ)履物屋(はきものや)老舗(しにせ)石上(いしかみ)宮澤辰五郎氏(みやざわたつごろうし)弟子(でし)となり東京(とうきょう)横浜(よこはま)修行(しゅぎょう)したのち、明治(めいじ)34(ねん)藤沢(ふじさわ)(もど)って(みせ)(ひら)いたとされています。また同書(どうしょ)には「履物業界(はきものぎょうかい)中略(ちゅうりゃく))、新興気鋭(しんしんきえい)業者(ぎょうしゃ)としては西(にし)台町(だいまち)松本屋(まつもとや)中央(ちゅうおう)(なか)(ちょう)高倉屋(たかくらや)(ひがし)旅籠町(はたごまち)石曽根(いしそね)(とう)ありて、(たが)いにその()(あらそ)ふに()たり」ともあり、(おお)くの職人(しょくにん)(かか)えた藤沢有数(ふじさわゆうすう)履物屋(はきものや)でありました。創業当初(そうぎょうとうしょ)江の島道沿(えのしまみちぞ)いに(みせ)(かま)えていましたが、大正(たいしょう)12(ねん)関東大地震(かんとうおおじしん)(さい)店舗(てんぽ)などが境川(さかいがわ)崩落(ほうらく)する被害(ひがい)()い、震災後(しんさいご)現在地(げんざいち)移転(いてん)現存(げんそん)する店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)棟札(むなふだ)などの史料(しりょう)()くが、建物(たてもの)登記(とうき)刊行(かんこう)(ぶつ)記述(きじゅつ)から大正(たいしょう)13(ねん)竣工(しゅんこう)判断(はんだん)できる。 構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう)2階建(かいだて) 鉄板葺(てっぱんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)大正(たいしょう)13(ねん)建築(けんちく)昭和(しょうわ)42(ねん)改修(かいしゅう)建築面積(けんちくめんせき):115㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

(きゅう)石曽根(いしそね)商店(しょうてん)店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)

平成(へいせい)30(ねん)(2018)3(がつ)27(にち)登録(とうろく)実業家(じつぎょうか)尾日向竹重(おびなたたけしげ)邸宅(ていたく)尾日向竹重(おびなたたけしげ)昭和15年(しょうわじゅうごねん)三ツ輪産業株式会社(みつわさんぎょうかぶしきがいしゃ)創立(そうりつ)し、商工省物価諮問委員(しょうこうしょうぶっかしもんいいん)石油審議会専門委員(せきゆしんぎかいせんもんいいん)日本煉炭工業会会長(にほんれんたんこうぎょうかいかいちょう)(とう)歴任(れきにん)しました。洋館(ようかん)和館(わかん)ともに昭和(しょうわ)3年頃(ねんごろ)建築(けんちく)で、建設当時(けんせつとうじ)土地(とち)所有者(しょゆうしゃ)現建物(げんたてもの)建築主(けんちくぬし)については(べつ)人物(じんぶつ)でしたが、その(のち)複数(ふくすう)所有者(しょゆうしゃ)()て、昭和(しょうわ)23(ねん)尾日向家(おびなたけ)()(はじ)めました。             鵠沼(くげぬま)明治時代以降(めいじじだいいこう)別荘地(べっそうち)として開発(かいはつ)された地域(ちいき)で、その(なか)でも尾日向家住宅(おびなたけじゅうたく)最初期(さいしょき)からの別荘地域(べっそうちいき)所在(しょざい)しています。洋館(ようかん)和館(わかん)併置(へいち)し、フランス瓦葺(かわらぶき)規模(きぼ)(おお)きい洋館(ようかん)道路(どうろ)(めん)して()様相(ようそう)は、震災後(しんさいご)鵠沼(くげぬま)別荘地(べっそうち)としての景観(けいかん)現在(げんざい)(きわ)めてよく(つた)えています。尾日向家住宅(おびなたけじゅうたく)洋館(ようかん)和館(わかん)別棟(べっとう)になっておらず、連続(れんぞく)した一体(いったい)構成(こうせい)となっているのが(おお)きな特徴(とくちょう)生活(せいかつ)主体(しゅたい)洋館(ようかん)にあり、和館(わかん)接客部分(せっきゃくぶぶん)になっています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋(もくぞうひらや)一部(いちぶ)2階建(かいだて) 瓦葺(かわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)3年頃建築(ねんごろけんちく)昭和(しょうわ)40(ねん)(どう)60(ねん)増築(ぞうちく)建築面積(けんちくめんせき):224㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

尾日向(おびなた)()住宅(じゅうたく)洋館(ようかん)()(かん)

平成(へいせい)30(ねん)(2018)3(がつ)27(にち)登録(とうろく)鈴木家(すずきけ)は、近世(きんせい)には旧東海道(きゅうとうかいどう)遊行寺坂(ゆぎょうじざか)沿()いに広大(こうだい)地所(じしょ)所有(しょゆう)し、その一角(いっかく)旅籠(はたご)(いとな)んでいました。旅籠(はたご)廃業(はいぎょう)現在地(げんざいち)移転後(いてんご)鈴木(すずき)たけと(おっと)秀吉(ひでよし)が「鈴木薬店(すずきやくてん)」を開業(かいぎょう)秀吉(ひでよし)長女(ちょうじょ)・みやが薬学(やくがく)(まな)()いだが、平成元年(へいせいがんねん)(1989(ねん))に廃業(はいぎょう)現存(げんそん)する主屋(しゅおく)秀吉(ひでよし)()てたもので、棟木(むなぎ)墨書(ぼくしょ)から、昭和10年(しょうわじゅうねん)(1935(ねん))4(がつ)25(にち)上棟(じょうとう)判明(はんめい)しました。 大工(だいく)関野家(せきのけ)は、清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))の()出入(でいり)(つと)めた大工(だいく)()で、清浄光寺(しょうじょうこうじ)本堂(ほんどう)とほぼ同時期(どうじき)手掛(てが)けられた(てん)は、かつて遊行寺(ゆぎょうじ)門前(もんぜん)旅籠(はたご)(いとな)んだ「大鈴木(おおすずき)」の家格(かかく)(しめ)すと同時(どうじ)に、遊行寺(ゆぎょうじ)()()地域(ちいき)歴史(れきし)文化(ぶんか)(つな)がりをよく(しめ)しています。出桁造(だしげたづくり)重厚(じゅうこう)(のき)道路側(どうろがわ)(すべ)土間(どま)とする前土間型(まえどまがた)構成(こうせい)など関東町家(かんとうまちや)典型的(てんけいてき)特徴(とくちょう)(そな)え、1階内部(かいぶぶん)にも商家(しょうか)らしい(たたず)まいをよく(のこ)しています。一方(いっぽう)()ちの(たか)さや、2階南(かいみなみ)西側(にしがわ)全面(ぜんめん)硝子戸(がらすど)採用(さいよう)近代(きんだい)らしい要素(ようそ)であり、2(かい)接客座敷(せっきゃくざしき)仕様(しよう)造作(ぞうさく)(しつ)(たか)いです。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう)2階建(かいだて) 瓦葺(かわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)10(ねん)建築(けんちく)建築面積(けんちくめんせき):91㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

(きゅう)鈴木(すずき)薬店(やくてん)店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)

平成(へいせい)31(ねん)(2019)2月1日(がつついたち)指定(してい)/面積約(めんせきやく)33平方(へいほう)メートル/舟地蔵(ふなじぞう)とその周辺(しゅうへん)町内会所有地(ちょうないかいしょゆうち)です。北条早雲(ほうじょうそううん)大庭城(おおばじょう)()めたとき、北条側(ほうじょうがわ)情報(じょうほう)提供(ていきょう)したが、(くち)ふさぎに()(ころ)された老婆(ろうば)供養(くよう)するため()てられたと(つた)わります。大庭城(おおばじょう)にまつわる歴史的(れきしてき/rt>)伝承(でんしょう)水田地帯(すいでんちたい)水利事情(すいりじじょう)(かか)わる伝承(でんしょう)としても重要(じゅうよう)です。石造物(せきぞうぶつ)としての舟地蔵(ふなじぞう)単体(たんたい)ではなく、県内(けんない)でも(ひろ)()られている伝承(でんしょう)舞台地(ぶたいち)意味(いみ)で、史跡(しせき)として指定(してい)されました。【参考(さんこう)永井路子(ながいみちこ)ほか『神奈川(かながわ)伝説(でんせつ)』(日本(にっぽん)伝説(でんせつ)20、角川書店(かどかわしょてん)、1977)より引用(いんよう)藤沢市(ふじさわし)大庭(おおば)舟地蔵(ふなじぞう)というバス(てい)がありそばに(ふね)にのった地蔵様(じぞうさま)がある。()には(もち)だか団子(だんご)()っている。土地(とち)(ひと)は、このあたりをだんごくびりとよんでいる。永正九年(えいしょうくねん)(一五一二)の(なつ)大庭(おおば)()てこもった上杉朝興(うえすぎともおき)は、北条早雲(ほうじょうそううん)とここで(たたか)った。北条軍(ほうじょうぐん)(じん)大庭城(おおばじょう)(あいだ)には引地川(ひきじがわ)がつくった大沼(おおぬま)があり(ふね)でなければ()めることができなかった。北条軍(ほうじょうぐん)は、いまいましそうに(ぬま)をにらんでいた。そんなある()(ぬま)(ちか)くの茶店(ちゃみせ)にひとりの(たび)(もの)()()って(ばば)さまと世間話(せけんばなし)をした。(たび)(もの)は、この(ぬま)(みず)()れるときがないのかときくと、(ばば)さまは、(ぬま)(みず)()(みず)でなく引地川(ひきじがわ)(みず)()()れているので取入口(とりいれぐち)(せき)()(した)(せき)(ひら)けば(みず)はなくなると(おし)えた。その旅人(たびびと)北条軍(ほうじょうぐん)武士(ぶし)であった。その(よる)茶店(ちゃみせ)(ばあ)さんと堰番(せきばん)(ころ)され、大庭城(おおばじょう)()ならずして北条軍(ほうじょうぐん)(ぬま)()えての夜襲(やしゅう)()ちたという。村人(むらびと)はこのことを()って「やさしい(ばあ)さんだったがつい北条(ほうじょう)武士(ぶし)口車(くちぐるま)にのってしまったのだ」と、何年(なんねん)かたって(ばば)さまを供養(くよう)する地蔵様(じぞうさま)()てた。(ふね)()せて極楽浄土(ごくらくじょうど)(おく)るという舟地蔵(ふなじぞう)をつくったという。所管(しょかん)表郷町内会(おもてごうちょうないかい)

大庭(おおば)(ふな)地蔵(じぞう)伝承(でんしょう)()



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