ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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鳥瞰図(ちょうかんず)的(てき)な構図(こうず)に秀(ひい)でていた貞秀(さだひで)には、富士山(ふじさん)を描(えが)いた作品(さくひん)が数多(かずおお)くありますが、これは富士山(ふじさん)をほぼ火口(かこう)の真上(まうえ)から描(えが)いた図(ず)です。よくみると火口(かこう)にはもう一枚(いちまい)の紙(かみ)が折(お)り畳(たた)まれていて、引(ひ)っ張(ぱ)ると立体的(りったいてき)に立(た)ち上(あ)がる仕組(しく)みになっています。また画面(がめん)左(ひだり)の山麓(さんろく)辺(あた)りにはもう一枚(いちまい)紙(し)が張(は)ってあり、それをめくると洞窟(どうくつ)が現(あらわ)れ、胎内巡(たいないめぐ)りをする人々(ひとびと)が描(えが)かれています。これは富士登山(ふじとざん)の行程(こうてい)のひとつである「胎内巡(たいないめぐ)り」を描(えが)いたもので、当時(とうじ)の人気(にんき)の程(ほど)が伺(うかが)えます。
富士山(ふじさん)真景(しんけい)全図(ぜんず)
六(ろく)曲(きょく)一双(いっそう)の屏風(びょうぶ)で東海道(とうかいどう)の風景(ふうけい)を描(えが)いたものです。右(う)雙(そう)・左(さ)雙(そう)とも4~5段(だん)の構図(こうず)になっています。右(う)雙(そう)は、第(だい)一(いっ)扇(せん)第(だい)一段(いちだん)の江戸城(えどじょう)と日本橋(にほんばし)から始(はじ)まり、第(だい)三(さん)扇(せん)下段(げだん)の藤沢(ふじさわ)まで、雲(くも)型(がた)の枠(わく)に中(なか)に武蔵(むさし)・相模(さがみ)国内(こくない)の宿場(しゅくば)が左回(ひだりまわ)りの渦状(うずじょう)に描(えが)かれています。さらに、第(だい)四(よん)扇(せん)上部(じょうぶ)に大(おお)きく描(えが)かれた富士山(ふじさん)を境(さかい)に、三島(みしま)から第(だい)六(ろく)扇(せん)第(だい)1段(だん)の島田(しまだ)までジグザクに描(えが)かれています。 左(さ)雙(そう)は、第(だい)一(いっ)扇(せん)下部(かぶ)の大井川(おおいがわ)から始(はじ)まり、対岸(たいがん)の金谷(かなや)から左(さ)雙(そう)全体(ぜんたい)を下(した)から上(うえ)へ蛇行(だこう)する形(かたち)で宿場(しゅくば)が描(えが)かれ、第(だい)五(ご)扇(せん)上部(じょうぶ)に三条大橋(さんじょうおおはし)、左(ひだり)の第(だい)六(ろく)扇(せん)上部(じょうぶ)に内裏(だいり)が置(お)かれています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)図(ず)屏風(びょうぶ)
安政(あんせい)元年(がんねん)(1854) 手前(てまえ)に江(え)の島(しま)へ詣(もう)でる三(さん)人(にん)の女性(じょせい)、背景(はいけい)に江(え)の島(しま)・富士山(ふじさん)・小動岬(こゆるぎみさき)を七里ガ浜(しちりがはま)から見(み)た景色(けしき)が描(えが)かれます。画面(がめん)右(みぎ)の女性(じょせい)は日傘(ひがさ)をすぼめて杖(つえ)を突(つ)く仕草(しぐさ)をしており、中央(ちゅうおう)の女性(じょせい)はしゃがんで煙管(きせる)の灰(はい)を落(お)としているようです。左(ひだり)の女性(じょせい)は手拭(てぬぐ)いを姉(あね)さん被(かぶ)りして日傘(ひがさ)を差(さ)すという粋(いき)な様子(ようす)で描(えが)かれています。また中(ちゅう)景(けい)にも、旅人(たびびと)に何(なに)かをねだる子(こ)どもや、牛(うし)に乗(の)って優雅(ゆうが)に浜辺(はまべ)をゆく女性(じょせい)などが描(えが)き込(こ)まれています。 落款(らっかん)に「一(いち)幽斎(ゆうさい) 重宣(しげのぶ)画(が)」とあります。重宣(しげのぶ)は初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)の門人(もんじん)で、安政(あんせい)6年(ねん)(1858)に二代(にだい)歌川広重(うたがわひろしげ)を襲名(しゅうめい)しました。二代(にだい)広重(ひろしげ)は師(し)の画風(がふう)を受(う)け継(つ)いだ作品(さくひん)を残(のこ)しており、本作(ほんさく)にも波(は)の描(えが)き方(かた)などに初代(しょだい)の影響(えいきょう)が感(かん)じられます。
相州(そうしゅう)江(え)のしま詣(もうで)の図(ず)
天保(てんぽう)14年(ねん)‐弘化(こうか)4年(ねん)(1843-47) 江(え)の島(しま)の岩屋(いわや)に集(あつ)まった女性(じょせい)たちの姿(すがた)が描(えが)かれています。左(ひだり)の黒(くろ)い着物(きもの)の女性(じょせい)は煙管(きせる)を手(て)に持(も)ち、足元(あしもと)には宴会(えんかい)道具(どうぐ)の重箱(じゅうばこ)や徳利(とっくり)も見(み)られます。中央(ちゅうおう)の女性(じょせい)は釣(つり)の遊(あそ)びをしており、右(みぎ)の二人(ふたり)の女性(じょせい)たちは地元(じもと)の子(こ)どもに話(はな)しかけられているようです。 背景(はいけい)には富士(ふじ)が大(おお)きく描(えが)かれ、その右下(みぎした)には烏帽子岩(えぼしいわ)も見(み)られます。中央(ちゅうおう)上部(じょうぶ)の詞書(ことばがき)には、岩屋(いわや)からは武蔵(むさし)・相模(さがみ)・安房(あわ)・上総(かつさ)の浦(うら)々や、富士(ふじ)・大山(おおやま)や伊豆(いず)・駿河(するが)の山々(やまやま)が一望(いちぼう)でき、絶景(ぜっけい)の場所(ばしょ)であったと記(しる)されています。
江之島(えのしま)詣(もうで)岩屋(いわや)之(の)図(ず)
安政(あんせい)4年(ねん)(1857) 富士山(ふじさん)の頂上部(ちょうじょうぶ)を鳥瞰的(ちょうかんてき)に描(えが)いています。火口(かこう)に沿(そ)って円状(えんじょう)に配置(はいち)された霊場(れいじょう)等(など)が詳細(しょうさい)に書(か)き込(こ)まれており、頂上部(ちょうじょうぶ)の案内(あんない)図(ず)も兼(か)ねています。実際(じっさい)に富士山(ふじさん)に登拝(とうはい)した貞秀(さだひで)ならではの表現(ひょうげん)となっています。 富士山(ふじさん)の頂上部(ちょうじょうぶ)は、大日如来(だいにちにょらい)を中心(ちゅうしん)に据(す)えた胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の世界観(せかいかん)をあらわしたものと信仰(しんこう)され、八葉(はば)の蓮華(れんげ)上(じょう)に配(はい)されている仏(ほとけ)と菩薩(ぼさつ)の8体(たい)が宿(やど)っているとして、それぞれの霊場(れいじょう)(峰(みね))を巡(めぐ)りました。今日(こんにち)この富士山(ふじさん)山頂(さんちょう)部(ぶ)を巡(めぐ)ることを「お鉢巡(はちめぐ)り」とも言(い)いますが、「御八葉(おはちよう)」が転化(てんか)したものともいわれています。
大日本(だいにほん)冨士山(ふじさん)絶頂(ぜっちょう)之(の)図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):安政(やすまさ)元年(がんねん)(1854)2月(にがつ)。 板元(はんもと):蔦(つた)吉(きち) これは「鎌倉(かまくら)七里(しちり)が浜(はま)風景(ふうけい)」と対(つい)で、蔦(つた)吉(きち)から出版(しゅっぱん)されたもので中(ちゅう)短冊(たんざく)です。 広重(ひろしげ)は相州(そうしゅう)一番(いちばん)の名所(めいしょ)である江(え)の島(しま)に度々(たびたび)訪(おとず)れて、多(おお)くの作品(さくひん)を残(のこ)しています。広重(ひろしげ)は「武(ぶ)相(そう)旅(たび)絵日記(えにっき)」のスケッチ旅行(りょこう)の際(さい)に江(え)の島(しま)の岩本楼(いわもとろう)に投宿(とうしゅく)し、同(どう)絵日記(えにっき)の第(だい)三(さん)十(じゅう)二(に)景(けい)に「同所(どうしょ)岩本楼(いわもとろう)上(うえ)」、三(さん)十(じゅう)三景(さんけい)に「おとなしく酒宴(しゅえん)」と、岩本楼(いわもとろう)での投宿(とうしゅく)の様子(ようす)を伝(つた)える2回(かい)を残(のこ)しています。 これは広重(ひろしげ)が江(え)の島(しま)を訪(おとず)れるごとに、好(この)んで泊(と)まった岩本楼(いわもとろう)の「富士見(ふじみ)の間(ま)」から描(えが)いた、富士(ふじ)の景(けい)と思(おも)われる一(いち)図(ず)です。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)眺望(ちょうぼう)
安政(あんせい)5年(ねん)(1858) 平安時代(へいあんじだい)に富士山(ふじさん)が噴火(ふんか)した際(さい)に、その溶岩(ようがん)流(りゅう)により形成(けいせい)された空洞(くうどう)である「船津胎内樹型(ふなつたいないじゅけい)」の中(なか)を巡(めぐ)る「胎内(たいない)巡(めぐ)り」の様子(ようす)を描(えが)いています。 富士登拝(ふじとはい)の前日(ぜんじつ)には、胎内(たいない)を巡(めぐ)り、「生(う)まれ変(か)わり」を体験(たいけん)することで身(み)を清(きよ)め、登拝(とはい)に臨(のぞ)みました。白装束(しろしょうぞく)の信者(しんじゃ)たちが、曲折(きょくせつ)した胎内(たいない)を進(すす)んでいくと、奥(おく)には二(ふた)つの空間(くうかん)があります。大日如来(だいにちにょらい)を祀(まつ)る父(ちち)の胎内(たいない)と、阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀(まつ)る母(はは)の胎内(たいない)です。 「洞中(どうちゅう)是(これ)よりせば(狭(せば))るる」「此所(このところ)入口(いりぐち)よりもひろ(広(ひろ))し」等(とう)、短冊(たんざく)に胎内(たいない)の様子(ようす)が細(こま)かく書(か)かれ、狭(せま)い産道(さんどう)を身(み)をかがめながら進(すす)む様子(ようす)も描(えが)かれています。 富士山(ふじさん)は古(ふる)くから山岳信仰(さんがくしんこう)の霊山(れいざん)として知(し)られており、江戸時代(えどじだい)中期(ちゅうき)頃(ごろ)には江戸(えど)庶民(しょみん)にも関心(かんしん)が広(ひろ)まります。開山(かいさん)期(き)には講中(こうじゅう)(信仰(しんこう)集団(しゅうだん))による富士登山(ふじとざん)が行(おこな)われ、無病息災(むびょうそくさい)を祈願(きがん)していました。
冨士山(ふじさん)體内巡之図(たいないめぐりのず)
富士山(ふじさん)の五合(ごごう)目(め)から頂上(ちょうじょう)までが、俯瞰(ふかん)的(てき)な構図(こうず)で画面(がめん)いっぱいに描(えが)かれています。ごつごつとした茶色(ちゃいろ)の岩肌(いわはだ)で富士山(ふじさん)を表現(ひょうげん)している点(てん)が特徴(とくちょう)的(てき)で、登山道(とざんどう)には富士講(ふじこう)の人々(ひとびと)の姿(すがた)が細(こま)かく描(えが)き込(こ)まれています。また、主(おも)だった地点(ちてん)や名所(めいしょ)なども事細(ことこま)かに記(しる)されており、富士登山(ふじとざん)の案内(あんない)図(ず)としての役割(やくわり)も兼(か)ね備(そな)えていました。 本作(ほんさく)は、画(が)中(ちゅう)に「登山(とざん)成就(じょうじゅ)時(じ)玉蘭斎(ぎょくらんさい)貞秀(さだひで)写(うつし)」とあり、絵師(えし)の実体験(じつたいけん)を載(の)せた文章(ぶんしょう)が挿入(そうにゅう)されている点(てん)が珍(めずら)しいとされています。一説(いっせつ)には、本作(ほんさく)は貞秀(さだひで)の富士(ふじ)初(はつ)登山(とざん)の際(さい)に描(えが)かれたと言(い)われており、富士山(ふじさん)の山頂(さんちょう)から見下(みお)ろした景色(けしき)に感動(かんどう)した体験(たいけん)が反映(はんえい)されているのかもしれません。
三国(さんごく)第一山(だいいちさん)之(の)図(ず)