ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
沢(さわ)村屋(むらや)清吉(せいきち)版(ばん) 明治(めいじ)4年(ねん)(1871年(ねん)) 日本橋(にほんばし)を振(ふ)り出(だ)し、西京(さいきょう)を上(あ)がりとしています。京都(きょうと)は明治維新(めいじいしん)後(ご)、江戸(えど)が東京(とうきょう)と称(しょう)されるようになると、西京(さいきょう)と呼(よ)ばれるようになりました。 この双六(すごろく)の各(かく)マスは、主(おも)に初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)「保永堂版(ほえいどうばん)五十三次(ごじゅうさんつぎ)」に描(えが)かれた情景(じょうけい)をもとに作画(さくが)されたものです(蒲原宿(かんばらしゅく)を雪景色(ゆきげしき)に描(えが)くなど)。 幕末(ばくまつ)から開化(かいか)期(き)にかけて最(もっと)も活躍(かつやく)した絵師(えし)の一人(ひとり)である歌川芳虎(うたがわよしとら)の画(え)にしては稚拙(ちせつ)な筆(ふで)が気(き)になりますが、藤沢(ふじさわ)の図(ず)には「江(え)のしま道(みち)」、平塚(ひらつか)の図(ず)には「馬入川(ばにゅうがわ)」と添(そ)え書(が)きがあります。
東海道中(とうかいどうちゅう)名物(めいぶつ)寿古録(すごろく)
江戸時代(えどじだい)の四季(しき)の行事(ぎょうじ)や風物(ふうぶつ)を主題(しゅだい)とした双六(すごろく)で、サイコロの目(め)によって様々(さまざま)なコマへ飛(と)び移(うつ)る「飛(と)び双六(すごろく)」です。画面(がめん)下(した)の振(ふ)り出(だ)しで、サイコロを振(ふ)り、1は恵方参(えほうまいり)、2は福引(ふくびき)、3は初(はつ)卯(う)(正月(しょうがつ)最初(さいしょ)の卯(う)の日(ひ)の神社(じんじゃ)詣(もうで))、4は梅見(うめみ)、5は初午(はつうま)(二月(にがつ)最初(さいしょ)の午(うま)の日(ひ)の稲荷社(いなりしゃ)の祭(まつり))、6は隅田川(すみだがわ)(行楽(こうらく))に進(すす)み、最後(さいご)に画面(がめん)上(じょう)の「初春(しょしゅん)」まで行(い)けば、あがりとなります。 振(ふ)り出(だ)しの左上(ひだりうえ)には「江(え)の嶋(しま)」のコマがあり、女性(じょせい)たちが初夏(しょか)の頃(ころ)に江の島(えのしま)へ向(む)かう様子(ようす)が描(えが)かれています。江の島(えのしま)詣(もうで)が江戸時代(えどじだい)の四季(しき)の風物(ふうぶつ)の一(ひと)つとして浸透(しんとう)していたことが分(わ)かる資料(しりょう)となっています。
四季(しき)楽(たの)しみ双六(すごろく)
東京(とうきょう)・辻(つじ)岡屋(おかや)亀吉(かめきち)版(ばん) 明治(めいじ)3年(ねん)(1870年(ねん)) 明治(めいじ)になると、首都(しゅと)が東京(とうきょう)に移(うつ)ったため、双六(すごろく)も東京(とうきょう)行(い)きが「上(あ)がり」となりますが、この双六(すごろく)では、まだ東京(とうきょう)日本橋(にほんばし)を振(ふ)り出(だ)し、西京(さいきょう)(京都(きょうと))を上(あ)がりとしています。 日本橋(にほんばし)の馬車(ばしゃ)が文明開化(ぶんめいかいか)をイメージさせますが、それ以外(いがい)のマスはほとんど江戸時代(えどじだい)の情景(じょうけい)と変(か)わりありません。各(かく)宿(やど)の名所(めいしょ)・名物(めいぶつ)を中心(ちゅうしん)に描(えが)き、ところどころに大(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』の情景(じょうけい)が挿入(そうにゅう)されています。 藤沢宿(ふじさわしゅく)のマスは名(な)に掛(か)けてか「富士山(ふじさん)」。ひとつ前(まえ)の戸塚(とつか)は、焼餅(やきもち)坂(ざか)の名(な)の由来(ゆらい)となった「焼(や)き餅(もち)」の図(ず)です。 また、明治(めいじ)になると、浮世絵(うきよえ)双六(すごろく)の色彩(しきさい)が江戸(えど)期(き)のものと変(か)わってきます。特(とく)にドギツイ赤色(あかいろ)や紫色(むらさきいろ)は特徴(とくちょう)的(てき)ですが、これは幕末(ばくまつ)から輸入(ゆにゅう)されるようになったアニリン赤(あか)(洋紅(ようこう))や紫(むらさき)ムラコといわれるもので、明治(めいじ)の人々(ひとびと)にとって、これらの鮮(あざ)やかな色彩(しきさい)は文明開化(ぶんめいかいか)の色(いろ)であったのでしょう。
東海道中(とうかいどうちゅう)名処(めいしょ)名物(めいぶつ)滑稽(こっけい)双六(すごろく)
井上茂兵衛(いのうえもへえ)版(ばん) 明治(めいじ)初期(しょき) この双六(すごろく)は、江戸(えど)後期(こうき)に渓斎英泉(けいさいえいせん)画(が)・佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)版(ばん)の同(どう)版図(はんと)があり、明治(めいじ)になってから井上茂兵衛(いのうえもへえ)が再版(さいはん)発行(はっこう)したものです。英泉(えいせん)と佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)のコンビといえば美人画(びじんが)のシリーズなどで有名(ゆうめい)ですが、この双六(すごろく)も画(が)中(ちゅう)の人物(じんぶつ)などが丁寧(ていねい)に描(えが)かれていて人気(にんき)の高(たか)かったものだったのでしょう。新鐫(しんせん)とは、新版(しんぱん)のことです。 各(かく)マスの絵(え)の上(うえ)に、道中(どうちゅう)記(き)(旅行(りょこう)案内(あんない)書(しょ))に記(しる)されているような各地(かくち)の名所(めいしょ)等(とう)が記載(きさい)され、藤沢(ふじさわ)では、大山(おおやま)参(まい)りの人々(ひとびと)(揃(そろ)いの笠(かさ)をかぶり、木太刀(きだち)や御神酒(おみき)枠(わく)をかついでいる)の絵(え)の上(うえ)に、「左(ひだり)り江(え)のしま道(どう)」「右(みぎ) 大山(おおやま)石(いし)尊(みこと)みち」「ゆぎやう(遊行(ゆぎょう))寺(てら) おぐりはんくわん(小栗判官(おぐりはんがん))の古(こ)せき(跡(あと))」「十人(じゅうにん)のせきひ(石碑(せきひ))あり」、平塚宿(ひらつかしゅく)との間(ま)には「ばにう(馬入(ばにゅう))川(かわ) 船(ふな)わたし(渡(わた)し)」と記(しる)されています。
東海道(とうかいどう)五十三(ごじゅうさん)駅(えき)名所(めいしょ)旧跡行程記(きゅうせきこうていき)新鐫道中(しんせんどうちゅう)双六(すごろく)
丸屋久四郎(まるやきゅうしろう)版(ばん) 制作(せいさく)年代(ねんだい)不詳(ふしょう) 「い」-池(いけ)がみ(本門寺(ほんもんじ))、「ろ」-六(ろく)あみだ(阿弥陀(あみだ))、「は」-白山権現(はくさんごんげん)というように、いろはで始(はじ)まる寺社(じしゃ)仏閣(ぶっかく)の名所(めいしょ)を詠(よ)み込(こ)んだ絵(え)双六(すごろく)で、「え」は江(え)の島(しま)が描(えが)かれています。画(え)の中央(ちゅうおう)、上下(じょうげ)には歌舞伎(かぶき)『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の「南禅寺(なんぜんじ)山門(さんもん)の場(ば)」の石川五右衛門(いしかわごえもん)(上(うえ))と、真柴(ましば)久吉(ひさよし)(実(じつ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし))が描(えが)かれています。
いろは譬(たとえ)神仏(しんぶつ)名所(めいしょ)寿語六(すごろく)
山口屋藤兵衛(やまぐちやとうべえ)板(ばん) 弘化(こうか)年間(ねんかん)(1844-1848年(ねん)) 四季(しき)の行事(ぎょうじ)や風物(ふうぶつ)を主題(しゅだい)とした双六(すごろく)です。振(ふ)り出(だ)しで、1を振(ふ)れば恵方参(えほうまいり)、2を振(ふ)れば福引(ふくび)き、3を振(ふ)れば初(はつ)卯(う)(正月(しょうがつ)初(はつ)卯(う)の日(ひ)の神社(じんじゃ)詣(もう)で)、4を振(ふ)れば梅見(うめみ)、5を振(ふ)れば初午(はつうま)(2月(にがつ)の最初(さいしょ)の午(うま)の日(ひ)の稲荷社(いなりしゃ)の祭(まつり))、6を振(ふ)れば隅田川(すみだがわ)(行楽(こうらく))にはじまり、節分(せつぶん)、汐(しお)干(ひ)(潮干狩(しおひが)り)、年(とし)(歳(とし))の市(し)、山王祭(さんのうまつり)、吉原(よしわら)などの行事(ぎょうじ)・風物(ふうぶつ)を経(へ)て、初春(しょしゅん)で上(あ)がりとなっています。行楽(こうらく)地(ち)の一(ひと)つとして「江(え)の嶋(しま)」もあり、このマスからは、1で「かつを(初鰹(はつがつお))」、2で「すずみ(涼(りょう)舟(ふね))」、3で「山(やま)(やま)参(まい)り(大山(おおやま)詣(もう)で)」、4で「とうち(温泉(おんせん)(とうじ))」、6で「月見(つきみ)」へとなっています。
四季(しき)のたのしみ双六(すごろく)
丸屋(まるや)鉄次郎(てつじろう)版(ばん) 明治(めいじ)7年(ねん)(1874年(ねん)) 明治(めいじ)5年(ねん)、新橋(しんばし)-横浜駅(よこはまえき)間(かん)に鉄道(てつどう)が開通(かいつう)したのちの東海道(とうかいどう)双六(すごろく)です。振(ふ)り出(だ)しを京都府(きょうとふ)・御所(ごしょ)博覧(はくらん)会(かい)とし、上(あ)がりを東京(とうきょう)として、神奈川(かながわ)(県(けん))以降(いこう)には汽車(きしゃ)や駅舎(えきしゃ)が登場(とうじょう)し、東京(とうきょう)には近代(きんだい)的(てき)な駅舎(えきしゃ)が描(えが)かれています。 各(かく)マスの間(ま)は電信柱(でんしんばしら)で仕切(しき)られていますが、関西(かんさい)方面(ほうめん)の駅(えき)の絵(え)は江戸時代(えどじだい)のものとあまり変(か)わりません。地名(ちめい)(駅名(えきめい))は、吉田(よしだ)が豊橋(とよはし)となり、府中(ふちゅう)が静岡(しずおか)に変(か)わっています。また、静岡(しずおか)に馬車(ばしゃ)が、藤沢(ふじさわ)など数(すう)ヶ所(かしょ)に人力車(じんりきしゃ)が描(えが)かれています。
新撰(しんせん)東海道(とうかいどう)五十三駅(ごじゅうさんえき)電信(でんしん)明細(めいさい)双録(すごろく)
横山良八(よこやまりょうはち)版(ばん) 明治(めいじ)初期(しょき) 振(ふ)り出(だ)しが西京(さいきょう)(京都(きょうと))、上(あ)がりは東京(とうきょう)日本橋(にほんばし)です。題材(だいざい)は江戸時代(えどじだい)そのまま、十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』に描(えが)かれた滑稽(こっけい)な二(に)人組(にんぐみ)の道中(どうちゅう)ですが、こうもり傘(がさ)やガス灯(とう)、日本橋(にほんばし)の馬車(ばしゃ)など随所(ずいしょ)に文明開化(ぶんめいかいか)の影響(えいきょう)が伺(うかが)えます。 制作(せいさく)年代(ねんだい)は不明(ふめい)ですが、汽車(きしゃ)が見(み)られるのが品川(しながわ)だけなので、新橋(しんばし)-横浜駅(よこはまえき)間(かん)に正式(せいしき)に鉄道(てつどう)が開通(かいつう)する明治(めいじ)5年(ねん) (1972年(ねん))直前(ちょくぜん)のものと考(かんが)えられます。 図(ず)中(ちゅう)、府中(ふちゅう)は静岡(しずおか)に地名(ちめい)が変(か)わっていますが、明治(めいじ)になり徳川宗家(とくがわそうけ)ゆかりの地(ち)であるがゆえに新政府(しんせいふ)に恭順(きょうじゅん)の意(い)を示(しめ)すため、市内(しない)の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡(しずおか)に改称(かいしょう)したものです。 国政(くにまさ)(四(よん)代(だい))は、幕末(ばくまつ)~明治(めいじ)に活躍(かつやく)した絵師(えし)で、明治(めいじ)22年(ねん)(1889年(ねん))に三代(さんだい)国貞(くにさだ)を継(つ)いでいます。
どおけ東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)双六(すごろく)