Fujisawa Net Museum

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制作(せいさく)時期(じき):享和(きょうわ)年間(ねんかん)(1801~04)(ころ)
板元(はんもと)(しるし)なし

この作品(さくひん)摺物(すりもの)()ばれ、木版(もくはん)()りによる(くば)(もの)で、普通(ふつう)正月(しょうがつ)新作(しんさく)狂歌(きょうか)などを()()えて絵師(えし)依頼(いらい)して制作(せいさく)し、(くば)(ぶつ)として使用(しよう)したものをいいます。そしてそれが注文(ちゅうもん)(ひん)のため、普通(ふつう)一般(いっぱん)(やす)()られる浮世絵(うきよえ)とは(ちが)って、さまざまに工夫(くふう)をこらした金泥(きんでい)銀泥(ぎんでい)などを使用(しよう)した豪華(ごうか)なものが(おお)く、一般的(いっぱんてき)(おお)(もち)いられる(かたち)角判(かくばん)摺物(すりもの)といわれ、いわゆる色紙(しきし)(ばん)使用(しよう)します。

この摺物(すりもの)(かたち)は、おそらくこの(ばい)のものを(ふた)つに()って片方(かたほう)()(えが)き、他方(たほう)狂歌(きょうか)案内(あんない)文字(もじ)()れた形式(けいしき)で、これはその一方(いっぽう)作品(さくひん)であると(かんが)えられます。(したが)って(なに)目的(もくてき)使用(しよう)されたか(わか)りませんが、画面(がめん)右手(みぎて)従者(じゅうしゃ)(おも)われる着物(きもの)()に“荻江(おぎえ)”という文字(もじ)()えるところから、音楽(おんがく)(かみ)である()(しま)弁財天(べざいてん)参詣(さんけい)をする、当時(とうじ)流行(りゅうこう)の「荻江節(おぎえぶし)」の師匠(ししょう)(れん)(えが)いているので、それらと何等(なんら)かの関係(かんけい)があったと(おも)われます。

葛飾北斎 無題(七里ガ浜)

題名(だいめい)不詳(ふしょう)七里ガ浜(しちりがはま)

半切(はんせつ)(よこ)1(まい) (たて)13.6 (よこ)17.3
制作(せいさく)時期(じき):寛政(かんせい)(1789~1801)(すえ)(ごろ)板元(はんもと)(しるし)なし

本作(ほんさく)では水平線(すいへいせん)がやや(ひく)く、(そら)(ひろ)(えが)かれています。北斎(ほくさい)はこのような洋風(ようふう)表現(ひょうげん)(もち)いた風景画(ふうけいが)複数(ふくすう)(えが)いていており、人物(じんぶつ)(くろ)いシルエットで表現(ひょうげん)されているところなど(どう)版画(はんが)からの影響(えいきょう)色濃(いろこ)くうかがえます。
(なみ)(いただき)部分(ぶぶん)などに繊細(せんさい)空摺(からず)り(凹凸(おうとつ)(かたち)表現(ひょうげん)される()りの技巧(ぎこう))が(ほどこ)され、画面(がめん)(ふち)()りに模様(もよう)()られるなどの工夫(くふう)がみられます。画面(がめん)右手(みぎて)には横文字(よこもじ)(ふう)()れた書体(しょたい)で「ほくさいえかく(北斎(ほくさい)(えが)く)」と()かれています。

(つき)()成丈(なりたけ)狂歌(きょうか)()りで、「みさかなの(あわび)ささえをとる海士(あま)(みず)いらすにて(いわ)ふとそ(さけ)」となっています。北斎(ほくさい)洋風(ようふう)表現(ひょうげん)(かれ)(わか)修業(しゅうぎょう)時代(じだい)春朗(しゅんろう)(めい)(ころ)から顕著(けんちょ)()られ、その傾向(けいこう)生涯(しょうがい)にわたっています。その代表的(だいひょうてき)作品(さくひん)には「日本(にっぽん)境田(さかいだ)中見(なかみ)()()」や「羽田(はねだ)弁天(べんてん)()()」などがありますが、この()(しま)七里ガ浜(しちりがはま)(えが)いた()洋画(ようが)意識(いしき)しています。このことは画面(がめん)右手(みぎて)(うえ)横文字(よこもじ)(ふう)()れた書体(しょたい)でも(わか)りますし、また()のまわりを(がく)のように(ふち)どっていることでもそれがいえます。また正確(せいかく)遠近(えんきん)表現(ひょうげん)大胆(だいたん)なもののとらえ(かた)は、一種独特(いっしゅどくとく)雰囲気(ふんいき)をかもし()しています。そして七里ガ浜(しちりがはま)づたいに()(しま)三々五々(さんさんごご)(むか)人物(じんぶつ)が、すべて(かげ)として(えが)かれているのも(なに)暗示(あんじ)しているようで興味深(きょうみぶか)く、また(なみ)部分(ぶぶん)には空摺(からず)りも使用(しよう)されていて、きめの(こま)かい作品(さくひん)となっています。

葛飾北斎 無題(江の島風景)

題名(だいめい)不詳(ふしょう)()(しま)風景(ふうけい)

制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)6(1809)(ねん)
板元(はんもと):森屋治兵衛(もりやじへえ)

歌麿(うたまろ)天明(てんめい)7(ねん)(1787(ねん))(ころ)には上野(うえの)忍岡(しのぶがおか)御数寄屋町(おすきやまち)()み、のち板元(はんもと)蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)(かた)寄宿(きしゅく)しています。その援助(えんじょ)()独特(どくとく)美人画(びじんが)制作(せいさく)しています。(とく)寛政(かんせい)3(ねん)(ごろ)より美人(びじん)大首絵(おおくびえ)という女性(じょせい)上半身(じょうはんしん)(えが)いた作品(さくひん)評判(ひょうばん)となります。
この作品(さくひん)()(しま)(えが)いたという判然(はんぜん)とした確証(かくしょう)はありませんが、(みぎ)の1(まい)開帳(かいちょう)文字(もじ)(はい)った提灯(ちょうちん)があり、()(しま)雰囲気(ふんいき)(ただよ)わせています。この()主題(しゅだい)美人画(びじんが)ですが、()どもの(およ)ぐさまを見物(けんぶつ)している体裁(ていさい)()っています。

喜多川歌麿 無題(江の島弁財天開帳)

題名(だいめい)不詳(ふしょう)()(しま)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう)

制作(せいさく)時期(じき):享和(きょうわ)年間(ねんかん)(1801~04)(ころ)
板元(はんもと):(つる)(しん)

この作品(さくひん)は1(がつ)から12(がつ)までの12(まい)(そろい)制作(せいさく)されたもののうちの1(まい)で、表題(ひょうだい)はすべて(おな)じです。12(まい)全部(ぜんぶ)確認(かくにん)されず、現在(げんざい)わかっているものは、「陬月(すうげつ)正月(しょうがつ)〕)の大神楽(おおかぐら)」「睦月(むつき)(むつき〔正月(しょうがつ)〕)の女郎買(じょろかい)」「皐月(さつき)(〔5(がつ)〕)の(さかな)(うり)」「水無月(みなづき)(〔6(がつ)〕)の(みず)(うり)」「初秋(しょしゅう)多満(たま)(さい)」「名月(めいげつ)遊興(ゆうきょう)」「霜月(しもつき)(〔11(がつ)〕)の神詣(かみもうで)」「玄英(げんえい) ((ふゆ)別名(べつめい))の雑司(ぞうし)(がや)」の9(てん)です。
この作品(さくひん)商家(しょうか)女房(にょうぼう)(とも)若者(わかもの)()れて()(しま)(もうで)()かける姿(すがた)(えが)いたもので、菅笠(すげがさ)をかぶり(くろ)(えり)のコートを()手甲(てっこう)をした女房(にょうぼう)天秤(てんびん)荷物(にもつ)()()けて(かた)にかけた従者(じゅうしゃ)姿(すがた)は、当時(とうじ)近場(ちかば)(たび)典型(てんけい)(てき)なスタイルです。この作品(さくひん)()所有(しょゆう)されているところは(すく)なく、多少(たしょう)補色(ほしょく)した部分(ぶぶん)()うけられますが、貴重(きちょう)資料(しりょう)であるといえます。

喜多川歌麿 風流四季の遊 弥生の江之島詣

風流(ふりゅう)四季(しき)(あそび) 弥生(やよい)江之島(えのしま)(もうで)

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1830~44)。
板元(はんもと):永寿(えいじゅ)(どう)

冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)北斎(ほくさい)最大(さいだい)傑作(けっさく)のシリーズもので、最初(さいしょ)刊行(かんこう)された36(まい)は「(おもて)」といわれ、のち好評(こうひょう)のため(ぞく)(かん)された10(まい)は「(うら)」と()ばれ、全部(ぜんぶ)で46(まい)発行(はっこう)されています。そのうちでも(さん)大傑作(だいけっさく)といわれるものは、(ぞく)赤富士(あかふじ)とよばれる「凱風快晴(がいふうかいせい)」、「山下白雨(さんかはくう)」、「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」です。
これら富士(ふじ)(えが)いた46(しゅ)(るい)作品(さくひん)は、それぞれに共通(きょうつう)する技法(ぎほう)によって(いく)つかに分類(ぶんるい)することが出来(でき)ますが、(おお)きく()けると伝統(でんとう)(てき)日本画(にほんが)影響(えいきょう)(つよ)いもの、中国(ちゅうごく)(かん)()(てき)要素(ようそ)のあるもの、さらに遠近法(えんきんほう)()()れた洋画(ようが)(てき)表現(ひょうげん)など(みっ)つに()けられます。
この()はそうしたもののうち(かん)()(てき)要素(ようそ)のまさったもので、その黄緑(きみどり)(いろ)(あわ)色調(しきちょう)は「相州箱根湖水(そうしゅうはこねこすい)」のそれを連想(れんそう)させます。そして一見(いっけん)地続(じつづ)きのように()え、()絵師(えし)表現(ひょうげん)(くら)べて、平坦(へいたん)()(しま)山水画(さんすいが)(おも)わせます。

葛飾北斎 冨嶽三十六景 相州江の嶌

()(がく)(さん)(じゅう)(ろっ)(けい) 相州(そうしゅう)()(しま)

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)5(ねん)(1834)(ころ)
板元(はんもと)(しるし)なし

本作(ほんさく)今回(こんかい)のテーマ からはずれますが、片瀬(かたせ)から()()(しま)(えが)いた風景(ふうけい)です。((ほん)シリーズは現在(げんざい)2(てん)のみ確認(かくにん)されています)構図(こうず)としては、()(しま)(たか)視点(してん)から()おろすように(とら)え、前景(ぜんけい)七面山(しちめんざん)(ちゅう)(けい)龍口寺(りゅうこうじ)門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)配置(はいち)し、正面(しょうめん)には(しお)()いた(みち)()(しま)(むか)人々(ひとびと)(てん)のように(えが)かれています。
片瀬(かたせ)()(しま)直面(ちょくめん)する陸地(りくち)部分(ぶぶん)ですが、このように画題(がだい)として()()げられるものはあまりなく、(めずら)しい図柄(ずがら)作品(さくひん)()えるでしょう。画題(がだい)にある七面山(しちめんざん)旅人(たびびと)休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)(やま)で、日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)裏山(うらやま)にあたります。

この作品(さくひん)はシリーズものとして出版(しゅっぱん)する予定(よてい)であったらしいのですが、2(かい)しか完成(かんせい)していません。もう(ひと)つは「東海道之内(とうかいどうのうち)江之嶋(えのしま)()七里ヶ浜(しちりがはま)()(しま)遠望(えんぼう)」です。画題(がだい)には片瀬(かたせ)とあり、片瀬(かたせ)()(しま)直面(ちょくめん)する陸地(りくち)部分(ぶぶん)ですから、()(しま)(えが)けば当然(とうぜん)その一部(いちぶ)浮世絵(うきよえ)()てきますが、このように画題(がだい)として()()げられるものは(すく)ないようです。そして七面山(しちめんざん)から()()であると画題(がだい)にあるとおり、構図(こうず)では旅人(たびびと)休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)(やま)部分(ぶぶん)がそれに該当(がいとう)します。

七面山(しちめんやま)日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)裏山(うらやま)で、龍口寺(りゅうこうじ)(いま)でも(ひろ)境内(けいだい)敷地(しきち)がありますが、日蓮(にちれん)ゆかりの()でもあります。図柄(ずがら)としても()浮世絵(うきよえ)とは(ちが)っていて、()(しま)(たか)視点(してん)から()おろすように(とら)え、前景(ぜんけい)七面山(しちめんざん)中景(ちゅうけい)龍口寺(りゅうこうじ)門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)配置(はいち)していて、ちょうど正面(しょうめん)には(しお)()いた(みち)()(しま)(むか)人々(ひとびと)(てん)のように(えが)かれています。

歌川広重 東海道之内江之嶋路片瀬自七面山見浜辺

東海道(とうかいどう)()内江(うちえ)()嶋路(しまみち)片瀬(かたせ)(しち)(めん)(ざん)山見(よりはま)浜辺(べをみる)

制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6(ねん)(1853)。
板元(はんもと):若与(わかよ)

立派(りっぱ)()(もの)()った貴人(きじん)()(しま)参詣(さんけい)()えて、片瀬(かたせ)(はま)小動(こゆるぎ)(さき)()七里ガ浜(しちりがはま)(むか)うところでしょうか。
挟箱(はさみばこ)先頭(せんとう)長刀(なぎなた)羅紗(らしゃ)(いり)(ふくろ)日傘(ひがさ)(こし)(もの)(づつ)履物(はきもの)(もち)など行列(ぎょうれつ)威儀(いぎ)(ただ)し、御殿(ごてん)女中(じょちゅう)たちは(そろ)いの(うめ)模様(もよう)着物(きもの)(そろ)いの日傘(ひがさ)()し、(もの)()ちは藤花(ふじはな)(あさ)()模様(もよう)振袖(ふりそで)姿(すがた)、4(にん)六尺(ろくしゃく)(かつ)緋色(ひいろ)松竹梅(しょうちくばい)模様(もよう)羅紗(らしゃ)日覆(ひおおい)をかけた乗物(のりもの)周囲(しゅうい)には、(いろ)とりどりの裲襠(うちかけ)姿(すがた)上臈(じょうろう)たちがいて、その(うしろ)には菅傘(すげがさ)(さむらい)(れつ)(つづ)いています。この乗物(のりもの)(あるじ)は、相当(そうとう)身分(みぶん)(たか)大名(だいみょう)奥方(おくがた)大奥(おおおく)行列(ぎょうれつ)想像(そうぞう)させます。
()(しま)弁財天(べんざいてん)家康(いえやす)慶長(けいちょう)5(ねん)(1600(ねん))に関東(かんとう)下向(げこう)したときに参詣(さんけい)して以来(いらい)代々(だいだい)将軍家(しょうぐんけ)祈祷(きとう)(しょ)となったことや、五代(ごだい)将軍(しょうぐん)綱吉(つなよし)病気(びょうき)杉山検校(すぎやまけんぎょう)祈祷(きとう)治療(ちりょう)によって平癒(へいゆ)したこともあって、大奥(おおおく)(およ)(しょ)大名(だいみょう)からの信仰(しんこう)(おお)(あつ)めたといわれています。上空(じょうくう)()二羽(にわ)(つる)大奥(おおおく)参詣(さんけい)行列(ぎょうれつ)であることを、広重(ひろしげ)はそれとなく表現(ひょうげん)しているように(おも)われます。

歌川広重 江のしま参詣の図

()のしま参詣(さんけい)()



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