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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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月岡芳年(つきおかよしとし) 明治元年(めいじがんねん)(1868) 明治元年(めいじがんねん)(1868)に制作(せいさく)された作品(さくひん)で、振(ふ)り出(だ)しの「西京(さいきょう)(さいきょう)」(京都(きょうと))から、上(あ)がりの「東京府(とうきょうふ)」に至(いた)る明治天皇(めいじてんのう)の東(とう)(とう)幸(こう)(こう)の様子(ようす)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の各(かく)宿(やど)が、ひとコマずつ双六(すごろく)風(ふう)に描(えが)かれていますが、到着(とうちゃく)地点(ちてん)の「東京府(とうきょうふ)」のコマは、日本橋(にほんばし)ではなく江戸城(えどじょう)となっています。また人物(じんぶつ)は簡略(かんりゃく)化(か)され、全(すべ)てのコマが鳥瞰(ちょうかん)的(てき)な視点(してん)で描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう)御幸(みゆき)之(の)図(ず)
歌川貞秀(うたがわさだひで) 文久(ぶんきゅう)2年(ねん)(1862) 横浜絵(よこはまえ)や鳥瞰図(ちょうかんず)で知(し)られる歌川貞秀(うたがわさだひで)が、開港(かいこう)間(ま)もない横浜(よこはま)を訪(おとず)れ、現地(げんち)の様子(ようす)を詳細(しょうさい)に記(しる)した版本(はんぽん)です。遠近法(えんきんほう)などの表現(ひょうげん)は西欧(せいおう)の銅版(どうはん)画(が)や石版(せきばん)画(が)を参考(さんこう)にしたと言(い)われています。外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)の他(ほか)、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアなどの風俗(ふうぞく)についても幅広(はばひろ)く紹介(しょうかい)しています。
横浜(よこはま)開港(かいこう)見聞(けんぶん)誌(し) 初編(はつへん)・二編(にへん)
作者不詳(さくしゃふしょう) 嘉永(かえい)6年(ねん)(1853)頃(ころ) 嘉永(かえい)6年(ねん)(1853)6月(がつ)、米(べい)艦隊(かんたい)(黒船(くろふね))入津(にゅうしん)の模様(もよう)を記録(きろく)した墨書画(ぼくしょが)です。当時(とうじ)の記録(きろく)等(とう)を1巻(かん)にまとめたものであると思(おも)われます(横浜市歴史博物館(よこはましれきしはくぶつかん)蔵(ぞう)に類似(るいじ)の着彩(ちゃくさい)画(が)あり)。「アメリカ人(じん)栗(くり)(久里(くり))浜(はま)上陸行軍(じょうりくこうぐん)ノ図(ず)(惣(そう)人数(にんずう)五百余人(ごひゃくよにん))」の図(ず)中(ちゅう)、二角(にかく)帽子(ぼうし)をかぶって、下(した)に「惣(そう)大将(たいしょう)」と記(しる)されているのがペリー提督(ていとく)で、同行(どうこう)の童子(どうじ)が書翰(しょかん)を入(い)れた包(つつみ)を持(も)っています。巻末(かんまつ)には、「久里浜(くりはま)陣押(じんおし)(じんおし)、荒増(あらまし)(あらまし)之(の)図(ず)(惣(そう)人数(にんずう)一千百有余人(いっせんひゃくゆうよにん))」が記(しる)されていて、上陸(じょうりく)時(じ)の日本側(にっぽんがわ)の態勢(たいせい)も記録(きろく)されています。
相州(そうしゅう)浦賀(うらが)米国船(べいこくせん)入津之図(にゅうしんのず)
森島中良(もりしまちゅうりょう) 作(さく) 森島中良(もりしまちゅうりょう)・北尾政美(きたおまさよし)・大槻玄沢(おおつきげんたく) 画(が) 天明(てんめい)7年(ねん)(1787) 作者(さくしゃ)の森島中良(もりしまちゅうりょう)は、蘭学者(らんがくしゃ)で、戯作者(げさくしゃ)でもあった人(ひと)です。『紅毛雑話(こうもうざつわ)』は、御殿医(ごてんい)(江戸時代(えどじだい)、将軍(しょうぐん)や大名(だいみょう)に仕(つか)えた医師(いし)の俗称(ぞくしょう))であった兄(あに)の桂川甫周(かつらがわほしゅう)が、江戸(えど)参府(さんぷ)のオランダ人(じん)から聞(き)いた話(はなし)などを中良(なから)がまとめたもので、天明(てんめい)7年(ななねん)(1787)に刊行(かんこう)されました。蘭学(らんがく)知識(ちしき)を一般(いっぱん)向(む)けに解説(かいせつ)した啓蒙(けいもう)書(しょ)です。本図(もとず)は「ミコラスコービュン」(顕微鏡(けんびきょう))の図(ず)で、その仕組(しく)みや見方(みかた)の説明(せつめい)がついています。顕微鏡(けんびきょう)で見(み)た虫(むし)を描(えが)いた拡大(かくだい)図(ず)は有名(ゆうめい)で、ノミや蚊(か)、ぼうふらなども描(えが)かれています。西洋(せいよう)の飛行船(ひこうせん)やエレキテルといった目新(めあたら)しい事物(じぶつ)も紹介(しょうかい)されています。 江戸時代(えどじだい)の人々(ひとびと)が、鎖国(さこく)政策(せいさく)の中(なか)でも、海外(かいがい)の事物(じぶつ)に興味(きょうみ)を持(も)っていたことが伝(つた)わってきます。
紅毛雑話(こうもうざつわ) 巻之三(まきのさん)
日本(にほん)の各国(かっこく)(令制国(りょうせいこく))の名勝(めいしょう)が、その地(ち)の説明文(せつめいぶん)と共(とも)に描(えが)かれた三代(さんだい)広重(ひろしげ)によるシリーズ作品(さくひん)です。相模国(さがみのくに)の勝景(しょうけい)としては江の島岩屋(えのしまいわや)の風景(ふうけい)が選(えら)ばれ、奥(おく)には富士(ふじ)を望(のぞ)みます。
日本(にっぽん)六(ろく)拾(じつ)二洲(にしゅう)地誌(ちし)略図(りゃくず) 相模国(さがみのくに) 江之島(えのしま)岩屋(いわや)
鮮(あざ)やかな赤(あか)を背景(はいけい)に「浜松屋(はままつや)」の一場面(いちばめん)が描(えが)かれます。「浜松屋(はままつや)」は弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)がもろ肌脱(はだぬ)ぎで名台詞(めいぜりふ)を述(の)べるのが見所(みどころ)の場面(ばめん)です。 「浜松屋(はままつや)」のあらすじは、呉服屋(ごふくや)の浜松屋(はままつや)に良家(りょうけ)の令嬢(れいじょう)が現(あらわ)れ婚礼(こんれい)の衣装(いしょう)を買(か)いに来(き)ますが、万引(まんび)きしたとして店(みせ)の者(もの)と言(い)い争(あらそ)いになります。しかし、その令嬢(れいじょう)が実(じつ)は弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)で、罪(つみ)を着(き)せられたとして店(みせ)から金(かね)をゆすり取(と)ろうとします。そこに日本駄右衛門(にっぽんだえもん)が善人(ぜんにん)のふりをして現(あらわ)れ、弁天小僧(べんてんこぞう)の正体(しょうたい)を暴(あば)きます。バレては仕方(しかた)ないと、弁天小僧(べんてんこぞう)は着物(きもの)を脱(ぬ)ぎ、「知(し)らざぁいって聞(き)かせやしょう」台詞(せりふ)へと繋(つな)がります。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より白浪(しらなみ)五(ご)人(にん)男(おとこ))
傘(かさ)を手(て)に持(も)ち並(なら)んだ五人男(ごにんおとこ)が描(えが)かれます。本作(ほんさく)に描(えが)かれた場面(ばめん)では、一人一人(ひとりひとり)が台詞(せりふ)にのせ、自分(じぶん)の来歴(らいれき)を語(かた)るのが見所(みどころ)です。着物(きもの)の柄(がら)については作品番号(さくひんばんごう)51と忠信利平(ただのぶりへい)、南郷力丸(なんごうりきまる)は同(おな)じですが、異(こと)なるものも見(み)られます。日本左右衛門(にっぽんざえもん)は方位磁石(ほういじしゃく)と綱(つな)が描(えが)かれ、五人男(ごにんおとこ)の首領(しゅりょう)として舵取(かじとり)り役(やく)であったことにちなみます。弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)は菊(きく)の花(はな)と、江(え)の島(しま)弁才天(べんさいてん)の眷属(けんぞく)である蛇(へび)が配(はい)されています。赤星(あかぼし)十三(じゅうざ)は桜(さくら)と鶏(にわとり)で、鶏(にわとり)は明(あ)け方(がた)を告(つ)げる鳥(とり)であることから、明(あ)け星(ぼし)(赤星(あかぼし))という関連(かんれん)に拠(よ)るものです。
作者不詳(さくしゃふしょう) 安政(あんせい)元年(がんねん)(1854) 江戸時代(えどじだい)末期(まっき)の黒船来航(くろふねらいこう)により、江戸幕府(えどばくふ)は大(おお)きな緊張(きんちょう)感(かん)に包(つつ)まれ、その対応(たいおう)として、三浦半島(みうらはんとう)から房総半島(ぼうそうはんとう)にかけての海岸線(かいがんせん)の守(まも)りを固(かた)めました。この海防(かいぼう)を絵図(えず)に記(しる)したものが「御固図(おかためず)」とよばれるもので、この絵図(えず)でも海岸線(かいがんせん)沿(ぞ)いに譜代大名(ふだいだいみょう)などを割(わ)り当(あ)て、強固(きょうこ)な防御(ぼうぎょ)施設(しせつ)を配備(はいび)している様子(ようす)がわかります。江戸城(えどじょう)に近(ちか)い海上(かいじょう)には砲台(ほうだい)を備(そな)えた「御台場(おだいば)」が築造(ちくぞう)され、絵図(えず)中(ちゅう)には櫓(やぐら)(やぐら)や大砲(たいほう)、藩主(はんしゅ)の家紋(かもん)の入(はい)った幟旗(のぼりばた)も見(み)えます。
浦賀圍図(うらがかこいず)