ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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池ノ辺(いけのべ)遺跡(いせき)は、小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)江ノ島線(えのしません)善行駅(ぜんぎょうえき)の南西(なんせい)約(やく)1.2kmの地点(ちてん)にあります。引地川(ひきちがわ)に面(めん)した通称(つうしょう)稲荷(いなり)台地(だいち)西側(にしがわ)の一段(いちだん)低(ひく)くなった段丘(だんきゅう)上(じょう)に位置(いち)し、標高(ひょうこう)約(やく)30mを測(はか)ります。1978年(ねん)(昭和(しょうわ)53年(ねん))に藤沢市(ふじさわし)中央卸売市場(ちゅうおうおろしうりしじょう)の建設工事(けんせつこうじ)にともなって、発掘調査(はっくつちょうさ)が実施(じっし)されました。 その結果(けっか)、縄文時代(じょうもんじだい)の遺物(いぶつ)をはじめ、古墳時代(こふんじだい)から平安時代(へいあんじだい)にかけての集落(しゅうらく)跡(あと)が明(あき)らかになりました。
池ノ辺(いけのべ)遺跡(いせき)
女坂(めさか)遺跡(いせき)は、小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)江ノ島線(えのしません)長後駅(ちょうごえき)の北北西(ほくほくせい)約(やく)3.8km、東海道新幹線(とうかいどうしんかんせん)の北側(きたがわ)に位置(いち)し、目久尻川(めくじりがわ)東岸(とうがん)の標高(ひょうこう)44mの丘陵(きゅうりょう)部(ぶ)の尾根(おね)上(じょう)にあります。1994年(ねん)(平成(へいせい)6年(ねん))、廃棄物(はいきぶつ)最終処分場(さいしゅうしょぶんじょう)建設(けんせつ)事業(じぎょう)にともなって、発掘調査(はっくつちょうさ)が実施(じっし)されました。 その結果(けっか)、縄文時代(じょうもんじだい)の炉(ろ)穴(あな)をはじめ、土拡(どこう)や陥(おと)し穴(あな)などとともに、土器(どき)や石器(せっき)などが確認(かくにん)されました。
女坂(めさか)遺跡(いせき)
No.106遺跡(いせき)は、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)湘南台駅(しょうなんだいえき)の東方(とうほう)約(やく)900mに位置(いち)し、境川(さかいがわ)に接(せっ)した沖積(ちゅうせき)低地(ていち)にあります。1997年(ねん)(平成(へいせい)9年(ねん))、横浜市(よこはまし)高速鉄道(こうそくてつどう)1号線(ごうせん)(地下鉄(ちかてつ))および相模鉄道(さがみてつどう)いずみ野線(のせん)建設工事(けんせつこうじ)にともなって、両(りょう)路線(ろせん)の橋脚(きょうきゃく)部分(ぶぶん)について発掘調査(はっくつちょうさ)が実施(じっし)されました。 その結果(けっか)、多量(たりょう)の木材(もくざい)に混(ま)ざって、加工(かこう)木材(もくざい)、炭化(たんか)材(ざい)、縄文土器(じょうもんどき)、クルミなどの遺物(いぶつ)とともに、土坑(どこう)、木道(もくどう)状(じょう)遺構(いこう)、焼礫(しょうれき)集中(しゅうちゅう)部(ぶ)などの遺構(いこう)が確認(かくにん)されました。これらの遺物(いぶつ)や遺構(いこう)は縄文時代(じょうもんじだい)早期(そうき)のものと考(かんが)えられ、当時(とうじ)の人(ひと)びとの河川(かせん)域(いき)での活動(かつどう)のあり方(かた)を考(かんが)えるうえで、たいへん貴重(きちょう)な資料(しりょう)となっています。
No.106遺跡(いせき)
高倉(たかくら)滝ノ上(たきのうえ)遺跡(いせき)は小田急(おだきゅう)江(え)の島線(しません)長後駅(ちょうごえき)の北東(ほくとう)約(やく)1km、市域(しいき)を南北(なんぼく)にはしる境川(さかいがわ)の右岸(うがん)、相模野台地(さがみのだいち)の縁辺(えんぺん)部(ぶ)に位置(いち)しています。本(ほん)遺跡(いせき)では数次(すうじ)の発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われていますが、その中(なか)でも1987年(ねん)(昭和(しょうわ)62年(ねん))に行(おこな)われた県営(けんえい)住宅(じゅうたく)建設(けんせつ)に伴(ともな)う発掘調査(はっくつちょうさ)では弥生時代(やよいじだい)から古墳時代(こふんじだい)にかけての集落(しゅうらく)跡(あと)が確認(かくにん)されました。
高倉(たかくら)滝ノ上(たきのうえ)遺跡(いせき)
高倉(たかくら) 枯藪(かれやぶ)遺跡(いせき)は、小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)江ノ島線(えのしません)長後駅(ちょうごえき)の東(ひがし)南(なん)約(やく)900m、国道(こくどう)467号(ごう)東側(ひがしがわ)の隣接(りんせつ)地点(ちてん)にあります。地形(ちけい)的(てき)には、境川(さかいがわ)の中流(ちゅうりゅう)西岸(せいがん)の標高(ひょうこう)23m前後(ぜんご)の台地(だいち)上(じょう)に立地(りっち)しています。1987年(ねん)(昭和(しょうわ)62年(ねん))、郵便局(ゆうびんきょく)建設(けんせつ)にともなって、発掘調査(はっくつちょうさ)が実施(じっし)されました。 その結果(けっか)、縄文時代(じょうもんじだい)と思(おも)われる陥(おと)し穴(あな)をはじめ、古墳時代(こふんじだい)の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)や奈良(なら)・平安時代(へいあんじだい)の住居(じゅうきょ)が確認(かくにん)されました。
高倉(たかくら)枯藪(かれやぶ)遺跡(いせき)
長後(ちょうご)上ノ原(うえのはら)遺跡(いせき)は、小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)江ノ島線(えのしません)高座渋谷駅(こうざしぶやえき)の南方(なんぽう)約(やく)350mのに位置(いち)しています。地形(ちけい)的(てき)には、東方(とうほう)600mに境川(さかいがわ)、西方(せいほう)500mに引地川(ひきちがわ)が流(なが)れ、この二(ふた)つの河川(かせん)に挟(はさ)まれた標高(ひょうこう)約(やく)45mを測(はか)る台地(だいち)上(じょう)の中央部(ちゅうおうぶ)に位置(いち)しています。 これまで数次(すうじ)の発掘調査(はっくつちょうさ)がおこなわれ、その結果(けっか)、奈良(なら)・平安時代(へいあんじだい)の住居(じゅうきょ)や掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)などの遺構(いこう)が確認(かくにん)され、この地(ち)一帯(いったい)に当時(とうじ)の大規模(だいきぼ)な集落(しゅうらく)が営(いとな)まれていたことが明(あき)らかとなりました。
長後(ちょうご)上ノ原(うえのはら)遺跡(いせき)
鵠沼(くげぬま)下(した)ノ沢(さわ)遺跡(いせき)は引地川(ひきちがわ)左岸(さがん)、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)の本鵠沼駅(ほんくげぬまえき)から北西(ほくせい)約(やく)500mに所在(しょざい)します。これまでの発掘調査(はっくつちょうさ)で奈良時代(ならじだい)、平安時代(へいあんじだい)の竪穴(たてあな)建物(たてもの)や土師器(はじき)、須恵器(すえき)などが確認(かくにん)されており、比較的(ひかくてき)規模(きぼ)の大(おお)きい集落(しゅうらく)が引地川(ひきちがわ)左岸(さがん)の砂丘(さきゅう)に形成(けいせい)されていたことがわかっています。
鵠沼(くげぬま)下(した)ノ沢(さわ)遺跡(いせき)
鵠沼(くげぬま)藤ヶ谷(ふじがや)遺跡(いせき)は境川(さかいがわ)右岸(うがん)、江(え)の島(しま)電鉄(でんてつ)線(せん)の鵠沼駅(くげぬまえき)から北東(ほくとう)約(やく)230mに所在(しょざい)します。これまで数次(すうじ)の発掘調査(はっくつちょうさ)がおこなわれており、その結果(けっか)市内(しない)では数少(かずすく)ない古墳時代(こふんじだい)中期(ちゅうき)の竪穴(たてあな)建物(たてもの)や土師器(はじき)・須恵器(すえき)などがみつかっています。
鵠沼(くげぬま)藤ヶ谷(ふじがや)遺跡(いせき)