Fujisawa Net Museum

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制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)5(ねん)(1834)(ころ)
板元(はんもと)(しるし)なし

本作(ほんさく)今回(こんかい)のテーマ からはずれますが、片瀬(かたせ)から()()(しま)(えが)いた風景(ふうけい)です。((ほん)シリーズは現在(げんざい)2(てん)のみ確認(かくにん)されています)構図(こうず)としては、()(しま)(たか)視点(してん)から()おろすように(とら)え、前景(ぜんけい)七面山(しちめんざん)(ちゅう)(けい)龍口寺(りゅうこうじ)門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)配置(はいち)し、正面(しょうめん)には(しお)()いた(みち)()(しま)(むか)人々(ひとびと)(てん)のように(えが)かれています。
片瀬(かたせ)()(しま)直面(ちょくめん)する陸地(りくち)部分(ぶぶん)ですが、このように画題(がだい)として()()げられるものはあまりなく、(めずら)しい図柄(ずがら)作品(さくひん)()えるでしょう。画題(がだい)にある七面山(しちめんざん)旅人(たびびと)休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)(やま)で、日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)裏山(うらやま)にあたります。

この作品(さくひん)はシリーズものとして出版(しゅっぱん)する予定(よてい)であったらしいのですが、2(かい)しか完成(かんせい)していません。もう(ひと)つは「東海道之内(とうかいどうのうち)江之嶋(えのしま)()七里ヶ浜(しちりがはま)()(しま)遠望(えんぼう)」です。画題(がだい)には片瀬(かたせ)とあり、片瀬(かたせ)()(しま)直面(ちょくめん)する陸地(りくち)部分(ぶぶん)ですから、()(しま)(えが)けば当然(とうぜん)その一部(いちぶ)浮世絵(うきよえ)()てきますが、このように画題(がだい)として()()げられるものは(すく)ないようです。そして七面山(しちめんざん)から()()であると画題(がだい)にあるとおり、構図(こうず)では旅人(たびびと)休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)(やま)部分(ぶぶん)がそれに該当(がいとう)します。

七面山(しちめんやま)日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)裏山(うらやま)で、龍口寺(りゅうこうじ)(いま)でも(ひろ)境内(けいだい)敷地(しきち)がありますが、日蓮(にちれん)ゆかりの()でもあります。図柄(ずがら)としても()浮世絵(うきよえ)とは(ちが)っていて、()(しま)(たか)視点(してん)から()おろすように(とら)え、前景(ぜんけい)七面山(しちめんざん)中景(ちゅうけい)龍口寺(りゅうこうじ)門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)配置(はいち)していて、ちょうど正面(しょうめん)には(しお)()いた(みち)()(しま)(むか)人々(ひとびと)(てん)のように(えが)かれています。

歌川広重 東海道之内江之嶋路片瀬自七面山見浜辺

東海道(とうかいどう)()内江(うちえ)()嶋路(しまみち)片瀬(かたせ)(しち)(めん)(ざん)山見(よりはま)浜辺(べをみる)

制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6(ねん)(1853)。
板元(はんもと):若与(わかよ)

立派(りっぱ)()(もの)()った貴人(きじん)()(しま)参詣(さんけい)()えて、片瀬(かたせ)(はま)小動(こゆるぎ)(さき)()七里ガ浜(しちりがはま)(むか)うところでしょうか。
挟箱(はさみばこ)先頭(せんとう)長刀(なぎなた)羅紗(らしゃ)(いり)(ふくろ)日傘(ひがさ)(こし)(もの)(づつ)履物(はきもの)(もち)など行列(ぎょうれつ)威儀(いぎ)(ただ)し、御殿(ごてん)女中(じょちゅう)たちは(そろ)いの(うめ)模様(もよう)着物(きもの)(そろ)いの日傘(ひがさ)()し、(もの)()ちは藤花(ふじはな)(あさ)()模様(もよう)振袖(ふりそで)姿(すがた)、4(にん)六尺(ろくしゃく)(かつ)緋色(ひいろ)松竹梅(しょうちくばい)模様(もよう)羅紗(らしゃ)日覆(ひおおい)をかけた乗物(のりもの)周囲(しゅうい)には、(いろ)とりどりの裲襠(うちかけ)姿(すがた)上臈(じょうろう)たちがいて、その(うしろ)には菅傘(すげがさ)(さむらい)(れつ)(つづ)いています。この乗物(のりもの)(あるじ)は、相当(そうとう)身分(みぶん)(たか)大名(だいみょう)奥方(おくがた)大奥(おおおく)行列(ぎょうれつ)想像(そうぞう)させます。
()(しま)弁財天(べんざいてん)家康(いえやす)慶長(けいちょう)5(ねん)(1600(ねん))に関東(かんとう)下向(げこう)したときに参詣(さんけい)して以来(いらい)代々(だいだい)将軍家(しょうぐんけ)祈祷(きとう)(しょ)となったことや、五代(ごだい)将軍(しょうぐん)綱吉(つなよし)病気(びょうき)杉山検校(すぎやまけんぎょう)祈祷(きとう)治療(ちりょう)によって平癒(へいゆ)したこともあって、大奥(おおおく)(およ)(しょ)大名(だいみょう)からの信仰(しんこう)(おお)(あつ)めたといわれています。上空(じょうくう)()二羽(にわ)(つる)大奥(おおおく)参詣(さんけい)行列(ぎょうれつ)であることを、広重(ひろしげ)はそれとなく表現(ひょうげん)しているように(おも)われます。

歌川広重 江のしま参詣の図

()のしま参詣(さんけい)()

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)4(ねん)(1833)(ころ)
板元(はんもと):川長(かわちょう)

()(しま)画面(がめん)一杯(いっぱい)(えが)かれ、将来(しょうらい)展開(てんかい)されるべきさまざまな要素(ようそ)(ふく)まれています。色彩(しきさい)(てき)には(あい)(みどり)がかなり(つよ)()ていて、(のち)のおさえた色調(しきちょう)のそれとは(こと)なっていますが、空間(くうかん)処理(しょり)仕方(しかた)(ひろ)がりを()せています。また前景(ぜんけい)として、いく(ぶん)類型(るいけい)(てき)三角形(さんかっけい)(おお)きな(なみ)広重(ひろしげ)らしい特徴(とくちょう)(あらわ)しています。
岩場(いわば)(あそ)人々(ひとびと)(みぎ)1(まい)部分(ぶぶん)には、それが平坦(へいたん)であるため俎板(まないた)(いわ)(魚板(ぎょばん)(がん))といわれる(ところ)にござを()き、(さけ)をくみ()わしている場面(ばめん)があり、(なか)1(まい)には女性(じょせい)(なに)かをねだる(はだか)()どもがいます。さらに(ひだり)1(まい)には旅人(たびびと)(ぜに)()げる仕草(しぐさ)をしていて、その(ぜに)海中(かいちゅう)()()んで(ひろ)おうとする()どもがいて、()(しま)での旅人(たびびと)風俗(ふうぞく)端的(たんてき)画面(がめん)()ている描写(びょうしゃ)となっています。

歌川広重 相州江之嶋岩屋之図

相州(そうしゅう)()()(しま)岩屋(いわや)()()

製作時期(せいさくじき):安政(あんせい)3(ねん)(1856)。
板元(はんもと):山口藤兵衛(やまぐちとうべえ)

神奈川(かながわ)・・・浦島寺(うらしまでら)故事(こじ)
神奈川宿(かながわしゅく)には浦島太郎(うらしまたろう)伝説(でんせつ)をもつ浦島寺(うらしまでら)()ばれる(てら)がありました。物語(ものがたり)終盤(しゅうばん)で、玉手箱(たまてばこ)から()(けむり)()び、老人(ろうじん)姿(すがた)になっていっていく様子(ようす)(えが)かれています。

(ほど)かや・・・橋脚(きょうきゃく)
帷子川(かたびらがわ)()かる帷子橋(かたびらばし)橋脚(きょうきゃく)(えが)かれています。保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)代表(だいひょう)する風景(ふうけい)としてよく()()げられています。

戸塚(とつか)・・・大坂(おおさか)景色(けしき)
戸塚宿(とつかしゅく)西(にし)位置(いち)する大阪(おおさか)景色(けしき)です。富士見(ふじみ)名所(めいしょ)として()られていました。

藤沢(ふじさわ)・・・照天姫(てるてひめ)
照天姫(てるてひめ)は、藤沢(ふじさわ)にゆかりのある伝説(でんせつ)人物(じんぶつ)小栗判官(おぐりはんがん)恋人(こいびと)です。

広重(ひろしげ)風景(ふうけい)中心(ちゅうしん)とした東海道(とうかいどう)ものを(おお)(えが)いていますが、この()(よう)(こと)なったタイプのシリーズも(のこ)しています。これは一般(いっぱん)張交東海道(はりまぜとうかいどう)といわれるもので、1(まい)(なか)に3~5宿(しゅく)風景(ふうけい)名産(めいさん)物語(ものがたり)(とう)挿入(そうにゅう)されています。

東海道張交図会 加奈川 程かや 戸塚 藤沢(山藤版)

東海道(とうかいどう)(はり)(まぜ)図会(ずえ) 加奈川(かながわ) (ほど)かや 戸塚(とつか) 藤沢(ふじさわ)山藤(やまふじ)(ばん)

制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4(ねん)嘉永(かえい)5(ねん)(1844~1853)(ころ)
板元(はんもと):住政(すみまさ)

これは「相州(そうしゅう)()()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)参詣(さんけい)群衆(ぐんしゅう)()()」と同時(どうじ)江戸(えど)四谷(よつや)傳馬(でんま)(まち)二丁目(にちょうめ)住吉屋(すみよしや)から刊行(かんこう)された作品(さくひん)で、()(しま)弁財天(べんざいてん)参詣(さんけい)するために参道(さんどう)(れつ)をつくった(おんな)講中(こうじゅう)音曲(おんぎょく)連中(れんちゅう)のその()(ばん)とも()えるものです。
画面(がめん)(ひだり)岩場(いわば)参道(さんどう)(かく)木瓜(もっこう)日傘(ひがさ)常磐津(ときわづ)(ぶし)中央(ちゅうおう)三本(さんぼん)(きね)江戸(えど)長唄(ながうた)杵屋(きねや)(ひし)()(かしわ)清元(きよもと)(ぶし)桜草(さくらそう)宮本(みやもと)(ぶし)(みぎ)(たいら)俎板(まないた)(いわ)(うえ)緋毛氈(ひもうせん)(ひろ)酒肴(さけさかな)(たの)しんでいます。その(はた)では()りをする清元節(きよもとぶし)女性(じょせい)たちもいます。

三々五々(さんさんごご)岩場(いわば)(めぐ)りをしたり、本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)(もうで)たり、(はだか)子供(こども)たちに投銭(なげせん)をしてそれを海中(かいちゅう)(ひろ)わせたりして芸者(げいしゃ)(たの)しむ有様(ありさま)は、天保(てんぽう)9(ねん)(1830(ねん))に()かれた『富士大(ふじおお)山道(やまどう)(ちゅう)雑記(ざっき)(つき)()()(しま)鎌倉(かまくら)』にも「…(しま)入口(いりぐち)(ならびに)此所(このところ)にても子供(こども)数多(あまた)(おり)少々(しょうしょう)出銭(でせん)にて海中(かいちゅう)飛入(とびい)り、種々(しゅじゅ)芸事(げいごと)いたし(そうろう)(こと)」とあります。当時(とうじ)()(しま)(もうで)様子(ようす)をよく表現(ひょうげん)しています。
画題(がだい)にある「本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)」は、(いわや)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう)()わせて刊行(かんこう)されたことを証明(しょうめい)しているといっても過言(かごん)ではありません。

歌川広重 相州江の嶋弁才天開帳詣本宮岩屋の図

相州(そうしゅう)()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)()

制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4(ねん)嘉永(かえい)5(ねん)(1844~1853)(ころ)
板元(はんもと):住政(すみまさ)

江戸(えど)後期(こうき)になると()(しま)江戸(えど)(ちか)手頃(てごろ)行楽(こうらく)()として、弁財天(べんざいてん)信仰(しんこう)()わせて人気(にんき)(あつ)め、江戸(えど)人々(ひとびと)()講中(こうじゅう)()んで参詣(さんけい)することが(さか)んになり、(とく)に6(ねん)一度(いちど)開帳(かいちょう)(とき)多数(たすう)参詣(さんけい)(にん)(にぎわ)ったといわれます。この(おな)住吉屋政五郎(すみよしやまさごろう)から出版(しゅっぱん)された作品(さくひん)として「相州(そうしゅう)()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)()」があり、「()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)」と()わせて開帳(かいちょう)三部作(さんぶさく)(ひと)つです。

()(しま)参詣(さんけい)(むか)う4(くみ)(おんな)講中(こうじゅう)(そろ)いの日傘(ひがさ)(えが)()けています。まず中央(ちゅうおう)(れつ)先頭(せんとう)三本(さんぼん)(きね)江戸(えど)長唄(ながうた)杵屋(きねや)、それに(つづ)(ひし)()(かしわ)清元(きよもと)(ぶし)、その(ひだり)(かく)木瓜(もっこう)常磐津(ときわづ)(ぶし)画面(がめん)(みぎ)桜草(さくらそう)(もん)一群(いちぐん)富本節(とみもとぶし)人々(ひとびと)(かんが)えられます。いずれも音曲(おんぎょく)連中(れんちゅう)の、(いき)(つや)やかな行列(ぎょうれつ)です。『武江年表(ぶこうねんぴょう)』に嘉永(かえい)4(ねん)(1851(ねん))辛亥(かのとい)の2(がつ)28(にち)より百日間(ひゃくにちかん)(いわや)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう)があり江戸(えど)より参詣(さんけい)(にん)(おお)しとあります。まさにその(にぎ)わいを()せるような作品(さくひん)です。

歌川広重 相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図

相州(そうしゅう)()()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)参詣(さんけい)群集(ぐんしゅう)()()

板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)

(たて)()では、南湖(なんご)()(ちゅう)南期(なんご)表記(ひょうき))の松林(まつばやし)と、富士山(ふじさん)景色(けしき)(えが)かれています。ここから()える富士山(ふじさん)は、東海道(とうかいどう)左手(ひだりて)()えるため「左富士(ひだりふじ)」と()ばれ、南湖(なんご)吉原宿(よしわらしゅく)()ヶ所(かしょ)のみで()ることの出来(でき)希少(きしょう)景色(けしき)でした。

このシリーズが(たて)(がた)(ばん)であるため、一般(いっぱん)(たて)()東海道(とうかいどう)()ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 (さい))の作品(さくひん)です。
この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿場(しゅくば)鳥瞰図(ちょうかんず)訳注(やくちゅう)(とり)目線(めせん)(そら)から(なが)めた)ように(えが)方法(ほうほう))で(えが)かれ、町並(まちな)(とう)遠近法(えんきんほう)(もち)い、この()表題(ひょうだい)にもあるように東海道(とうかいどう)南湖(なんご)((げん)茅ヶ崎市(ちがさきし))の松並木(まつなみき)風景(ふうけい)(えが)いています。

南湖(なんご)藤沢宿(ふじさわしゅく)平塚宿(ひらつかしゅく)()立場(たちば)(宿場(しゅくば)宿場(しゅくば)()休憩(きゅうけい)場所(ばしょ))のあったところで、京都(きょうと)()かっていく道中(どうちゅう)富士山(ふじさん)(ひだり)()える「左富士(ひだりふじ)」の名所(めいしょ)(ひと)つでもありました。
訳注(やくちゅう)東海道(とうかいどう)京都(きょうと)()かう(さい)基本(きほん)(てき)右側(みぎがわ)富士山(ふじさん)()えるため、(めずら)しい場所(ばしょ)とされます。)現在(げんざい)でも鳥井(とりい)土橋(どばし)から、きれいな「左富士(ひだりふじ)」を()ることができます。

五十三次名所図会 七 藤沢(竪絵東海道)

五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) (なな) 藤沢(ふじさわ) 南湖(なんご)松原(まつばら)(ひだ)不二(ふじ)(たて)()東海道(とうかいどう)



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