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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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板元(はんもと):丸蔦(まるつた) 歌川派(うたがわは)の多(おお)くの浮世絵師(うきよえし)が東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを描(えが)いていますが、芳員(よしかず)が描(えが)いたこのシリーズは、各(かく)宿(しゅく)場(ば)にまつわる伝説(でんせつ)や逸(いつ)話(わ)を面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全(ぜん)般(ぱん)的(てき)に横(よこ)小(しょう)判(ばん)の絵(え)の中(なか)にはユーモラスな図(ず)柄(がら)が多(おお)いとも言(い)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 程ヶ(ほどga)谷(や)
歌舞伎(かぶき)では提灯(ちょうちん)が燃(も)え、その中(なか)からお岩(いわ)の亡霊(ぼうれい)が現(あらわ)れるという趣向(しゅこう)ですが、本作(ほんさく)では破(やぶ)れた提灯(ちょうちん)がお岩(いわ)さんの顔(かお)に、その下(した)の焚(た)き火(び)から立(た)ち上(のぼ)る煙(けむり)が髪(かみ)に見立(みた)てられています。壊(こわ)れた岩壁(いわかべ)から見(み)える瓜(うり)と葉(は)が顔(かお)のように見(み)えたり、簾(すだれ)も蛇(へび)のように描(えが)かれたりと不気味(ぶきみ)な雰囲気(ふんいき)が漂(ただよ)います。 また画中(がちゅう)の文章(ぶんしょう)から、本作(ほんさく)では四谷怪談(よつやかいだん)が藤沢(ふじさわ)の四谷(よつや)で起(お)こったものとして描(えが)かれていることがわかります。
小倉(おぐら)擬(なぞらえ)百人一首(ひゃくにんいっしゅ) 大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)朝臣(あそん)
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804~17)。 板元(はんもと):鶴屋金助(つるやきんすけ) 浮絵(うきえ)という遠近(えんきん)感(かん)のある洋風(ようふう)表現(ひょうげん)を用(もち)いて、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)八(はち)段(だん)目(め)の道行(みちゆき)の場面(ばめん)を美人画(びじんが)に見立(みた)てて描(えが)いたもので、他(た)の絵師(えし)の画題(がだい)としても多(おお)くとりあげられています。
役者(やくしゃ)見立(みたて)忠臣蔵(ちゅうしんぐら)八(はち)段(だん)目(め)
傘(かさ)を手(て)に持(も)ち並(なら)んだ五人男(ごにんおとこ)が描(えが)かれます。本作(ほんさく)に描(えが)かれた場面(ばめん)では、一人一人(ひとりひとり)が台詞(せりふ)にのせ、自分(じぶん)の来歴(らいれき)を語(かた)るのが見所(みどころ)です。着物(きもの)の柄(がら)については作品番号(さくひんばんごう)51と忠信利平(ただのぶりへい)、南郷力丸(なんごうりきまる)は同(おな)じですが、異(こと)なるものも見(み)られます。日本左右衛門(にっぽんざえもん)は方位磁石(ほういじしゃく)と綱(つな)が描(えが)かれ、五人男(ごにんおとこ)の首領(しゅりょう)として舵取(かじとり)り役(やく)であったことにちなみます。弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)は菊(きく)の花(はな)と、江(え)の島(しま)弁才天(べんさいてん)の眷属(けんぞく)である蛇(へび)が配(はい)されています。赤星(あかぼし)十三(じゅうざ)は桜(さくら)と鶏(にわとり)で、鶏(にわとり)は明(あ)け方(がた)を告(つ)げる鳥(とり)であることから、明(あ)け星(ぼし)(赤星(あかぼし))という関連(かんれん)に拠(よ)るものです。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より白浪(しらなみ)五(ご)人(にん)男(おとこ))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ)) 長(なが)い旅路(たびじ)を経(へ)て、行列(ぎょうれつ)が京(きょう)に到着(とうちゃく)しました。 内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)で、将軍(しょうぐん)が公家(くげ)の正装(せいそう)である束帯姿(そくたいすがた)を身(み)にまとい、天皇(てんのう)に拝謁(はいえつ)している場面(ばめん)が描(えが)かれています。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。 東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。 描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。
東海(とうかい)道之(どうの)内(うち)京都(きょうと)参内(さんだい)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」シリーズの一枚(いちまい)です。由比ヶ浜(ゆいがはま)の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の一の鳥居(いちのとりい)の前(まえ)あたりから、稲村ヶ崎(いなむらがさき)、腰越(こしごえ)、江(え)の島(しま)、さらには遠(とお)く箱根山(はこねやま)、二子岳(ふたごだけ)、下田(しもだ)、そして富士(ふじ)までを望(のぞ)む景観(けいかん)が地名(ちめい)と共(とも)に描(えが)かれており、鳥瞰的(ちょうかんてき)な名所絵(めいしょえ)に長(ちょう)じた貞秀(さだひで)ならではの作品(さくひん)です。 また、中央(ちゅうおう)には画面(がめん)を二分(にぶん)するように松(まつ)の木(き)が描(えが)かれるといった、斬新(ざんしん)な構成(こうせい)も見(み)られます。波打(なみう)ち際(ぎわ)に立(た)っているのが将軍家茂(しょうぐんいえもち)と思(おも)われますが、実際(じっさい)に家茂(いえもち)がこの場所(ばしょ)に立(た)つことはなく、40番(ばん)の作品(さくひん)と同様(どうよう)に源頼朝(みなもとのよりとも)に仮託(かたく)して描(えが)かれたものと考(かんが)えられています。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものの一枚(いちまい)です。由比ヶ浜(ゆいがはま)の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の一ノ鳥居(いちのとりい)の前(ぜん)あたりから、稲村ヶ崎(いなむらがさき)、腰越(こしごえ)、江(え)の島(しま)、さらには遠(とお)く箱根山(はこねやま)、二子岳(ふたごだけ)、下田(しもだ)、そして富士(ふじ)を望(のぞ)む景観(けいかん)が描(えが)かれています。実際(じっさい)にこのように見(み)えるかはともかく、鳥瞰図(ちょうかんず)や一覧図(いちらんず)に長(ちょう)じた、貞秀(さだひで)ならではの作品(さくひん)といえましょう。また、画面(がめん)中央(ちゅうおう)を分(わ)けるように描(えが)かれた松(まつ)の枝(えだ)や、ふたつの大波(おおなみ)など、斬新(ざんしん)な構図(こうず)を思(おも)いのままに描(えが)いた初代広重(しょだいひろしげ)顔負(かおま)けの構成力(こうせいりょく)にも、貞秀(さだひで)の絵師(えし)としての非凡(ひぼん)さが見(み)て取(と)れます。 中央(ちゅうおう)下辺(かへん)に立(た)っているのが将軍家茂(しょうぐんいえもち)と思(おも)われますが、実際(じっさい)に家茂(いえもち)がこの場所(ばしょ)に立(た)つことはありませんでした。源頼朝(みなもとのよりとも)に仮託(かたく)して描(えが)かれたものと考(かんが)えられています。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)ノ内(うち) 由井ヶ(ゆいが)浜(はま)
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。板元(はんもと):伊勢屋兼吉(いせやかねきち) 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」シリーズの一枚(いちまい)で、二代国貞(にだいくにさだ)(四代豊国(よんだいとよくに))と二代広重(にだいひろしげ)の共筆作品(きょうひつさくひん)です。将軍(しょうぐん)が江(え)の島(しま)の岩屋(いわや)の前(まえ)で、海女(あま)の親子(おやこ)が海中(かいちゅう)から鮑(あわび)を取(と)ってくるようすを上覧(じょうらん)している場面(ばめん)でしょう。 ただし、実際(じっさい)に家茂(いえもち)が上洛(じょうらく)の途中(とちゅう)で江(え)の島(しま)へ寄(よ)った事実(じじつ)はなく、江(え)の島(しま)にゆかりの源頼朝(みなもとのよりとも)に仮託(かたく)したものと考(かんが)えられます。 画面(がめん)中央(ちゅうおう)の波(なみ)を境(さかい)に、陸上(りくじょう)のようすを二代広重(にだいひろしげ)が、海中(かいちゅう)のようすを二代国貞(にだいくにさだ)が描(えが)いており、人物(じんぶつ)が得意(とくい)な二代国貞(にだいくにさだ)、風景描写(ふうけいびょうしゃ)に長(た)けた広重(ひろしげ)が、それぞれの手腕(しゅわん)を発揮(はっき)しています。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)之(の)内(うち) 江之島(えのしま)
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)を代表(だいひょう)する風景(ふうけい)の帷子橋(かたびらばし)が描(えが)かれています。帷子橋(かたびらばし)は初代(しょだい)広重(ひろしげ)の名所絵(めいしょえ)にも度々(たびたび)登場(とうじょう)しました。 橋(はし)を渡(わた)る人々(ひとびと)には、煙管(きせる)をくわえた 武士(ぶし)とお付(つ)きのものや、笠(かさ)を手(て)に持(も)つ女性(じょせい)と荷物(にもつ)持(も)ち などがおり、旅人(たびびと)が行(い)き交(か)う様子(ようす)が見(み)られます。 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)の重宣時代(しげのぶじだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 程ヶ(ほどが)谷(や) かたびら橋(ばし)