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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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江戸(えど)から江(え)の島(しま)へ向(む)かう道中(どうちゅう)の名所(めいしょ)・旧跡(きゅうせき)等(とう)について書(か)かれた【往来物(おうらいもの)】。往来物(おうらいもの)とは、平安時代末期(へいあんじだいまっき)から明治前期(めいじぜんき)まで、広(ひろ)く使(つか)われた作文(さくぶん)の初級(しょきゅう)教科書(きょうかしょ)のことをいいます。もともと往復(おうふく)の手紙文(てがみぶん)を例文(れいぶん)としたことから往来(おうらい)の名称(めいしょう)がつけられました。この書(しょ)では特(とく)に、口絵(くちえ)として「江島金亀山与願寺之図(えのしまきんきざんよがんじのず)」と、頭書(かしらがき)(本文(ほんぶん)の内容(ないよう)を大(おお)まかに示(しめ)す上欄(じょうらん)に書(か)き加(くわ)えられた文書(ぶんしょ))に絵(え)や解説文(かいせつぶん)が付(つ)けられています 。
頭書(かしらがき)絵入(えいり) 江島(えのしま)詣(もうで)文章(ぶんしょう) 寛政(かんせい)新編(しんぺん)・名所(めいしょ)案内(あんない)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):小嶋屋(こじまや)重兵衛(じゅうべえ) 新田義貞(にったよしさだ)(鎌倉時代(かまくらじだい)の武将(ぶしょう))の次男(じなん)・義興(よしおき)が敵(てき)の策略(さくりゃく)により舟(ふね)を沈(しず)められ無念(むねん)の死(し)を遂(と)げた、多摩川(たまがわ)の矢口渡(やぐちのわたし)の場面(ばめん)を描(えが)いています。 この話(はなし)をもとにした演目(えんもく)が歌舞伎(かぶき)でも上演(じょうえん)され、江戸(えど)の人々(ひとびと)にはよく知(し)られた場面(ばめん)でありました。 このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(さんにん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。 風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 川崎(かわさき)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):伊場屋久兵衛(いばやきゅうべえ) 品川宿(しながわしゅく)近(ちか)くの鈴(すず)が森(もり)処刑(しょけい)場(じょう)(江戸時代(えどじだい)にで、白井(しらい)権八(ごんぱち)が雲助(くもすけ)(住所不定(じゅうしょふてい)の人足(にんそく))と争(あらそ)う場面(ばめん)が描(えが)かれています。 白井(しらい)権八(ごんぱち)は、歌舞伎(かぶき)の演目(えんもく)に登場(とうじょう)する人物(じんぶつ)で、辻斬(つじぎ)り(金銭(きんせん)目的(もくてき)での人(ひと)斬(き)り)を繰(く)り返(かえ)す美形(びけい)の青年(せいねん)として知(し)られています。 このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(にん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。 風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 品川(しながわ)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):伊場仙(いばせん)(伊場(いば)屋(や)仙三郎(せんざぶろう)) 画面(がめん)手前(てまえ)にみえる欄干(らんかん)は日本橋(にほんばし)の欄干(らんかん)です。画面(がめん)背景(はいけい)の右(みぎ)奥(おく)には江戸城(えどじょう)、さらに左(ひだり)奥(おく)には富士山(ふじさん)が見(み)え、東海道(とうかいどう)の起点(きてん)であった日本橋(にほんばし)を表(あらわ)す定番(ていばん)の構図(こうず)となっています。 このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(にん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 日本橋(にほんばし)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):伊勢屋市兵衛(いせやいちべえ) このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(さんにん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。 風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。 藤沢(ふじさわ)は国芳(くによし)の手(て)による小栗判官(おぐりはんがん)照手(てるて)姫(ひめ)で、いったん地獄(じごく)へ堕(お)ちた小栗(おぐり)が熊野(くまの)で本復(ほんぷく)した様子(ようす)を描(えが)いています。 岩(いわ)を持(も)ち上(あ)げているのが小栗(おぐり)で、しゃがんで驚(おどろ)いた様子(ようす)をしている女性(じょせい)が照手(てるて)姫(ひめ)。小栗(おぐり)の後方(こうほう)の滝(たき)は那智(なち)の滝(たき)で、向(む)かって左(ひだり)に見(み)える車(くるま)と綱(つな)が土車(つちぐるま)に乗(の)せられて東海道(とうかいどう)を上(のぼ)ったという物語(ものがたり)を暗示(あんじ)しています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 藤沢(ふじさわ)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)4年(ねん)頃(ごろ)(1833)。 板元(はんもと):蔦(つた)吉(きち)(蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)) このシリーズは美人(びじん)を主体(しゅたい)とした東海道(とうかいどう)シリーズのため、一般(いっぱん)に「美人(びじん)東海道(とうかいどう)」と呼(よ)ばれています。 各(かく)図(ず)共(ども)、前景(ぜんけい)に女性(じょせい)の艶姿(あですがた)を大(おお)きく描(えが)き、上部(じょうぶ)背景(はいけい)には源氏(げんじ)雲(くも)で仕切(しき)って、五十三次(ごじゅうさんつぎ)各(かく)宿(やど)の風景(ふうけい)を配(はい)しており、図(ず)左側(ひだりがわ)の鳥居(とりい)が藤沢宿(ふじさわしゅく)にあった江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)です。 旅(たび)姿(すがた)の女性(じょせい)像(ぞう)の右側(みぎがわ)には、宮戸(みやと)連(れん)(俳句(はいく)の結社(けっしゃ))其生の「此(この)しゆく(宿(やど))に ゆかりの色(いろ)や杜若(かきつばた)」という句(く)が添(そ)えられています。
藤沢宿(ふじさわしゅく) 七(なな)
製作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)8年(ねん)頃(ごろ)(1811)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 北斎(ほくさい)は広重(ひろしげ)より30年(ねん)くらい前(まえ)に数種類(すうしゅるい)の東海道(とうかいどう)の揃(そろ)い物(ぶつ)を描(えが)いていますが、実(じつ)は文化(ぶんか)9年(ねん)まで東海道(とうかいどう)を旅(たび)した記録(きろく)はありません。 おそらく名所図会(めいしょずえ)等(など)を基(もと)にして作画(さくが)したものと思(おも)われます。 そのためか景観(けいかん)描写(びょうしゃ)に主眼(しゅがん)を置(お)いた初代(しょだい)広重(ひろしげ)の作品(さくひん)に対(たい)し、旅(たび)や宿場(しゅくば)の風俗(ふうぞく)を描(えが)いた作品(さくひん)が多(おお)く、この作品(さくひん)でも描(えが)かれているのは街道(かいどう)を行(い)く荷役(にやく)とそれに付(つ)きそう宰領(さいりょう)(監督(かんとく)者(しゃ))の姿(すがた)です。 荷役(にやく)の二人(ふたり)のかけ声(ごえ)が聞(き)こえてきそうな動(うご)きのある作品(さくひん)です。
藤沢(ふじさわ)
有山定次郎(ありやまていじろう)は明治期(めいじき)に活躍(かつやく)した石版画(せきはんが)の絵師(えし)兼(けん)画工(がこう)で、多(おお)くの石版(せきはん)作品(さくひん)を残(のこ)しました。本作(ほんさく)は、江(え)の島(しま)を背景(はいけい)に女性(じょせい)を配(はい)したもので、観光客(かんこうきゃく)への土産物(みやげもの)として作成(さくせい)されたものと思(おも)われます。 石版画(せきはんが)は描(えが)く際(さい)の筆圧(ふであつ)や、微妙(びみょう)な筆(ふで)使(づか)いなどが写(うつ)し取(と)れる版画(はんが)技法(ぎほう)であり、背景(はいけい)のぼかしにその技法(ぎほう)の特徴(とくちょう)が表(あらわ)れています。石版画(せきはんが)は、濃淡(のうたん)による遠近感(えんきんかん)の表現(ひょうげん)により水墨画(すいぼくが)の墨(すみ)と近(ちか)い考(かんが)え方(かた)となり、明治期(めいじき)に入(はい)ってきた新技法(しんぎほう)でありながら、すぐに絵師(えし)たちの感性(かんせい)に結(むす)びつくことができた技法(ぎほう)でもありました。
美人(びじん)鏡(かがみ) 江乃(えの)島(しま)