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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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制作(せいさく)時期(じき):明治2年(めいじにねん)(1869)5月(ごがつ)。板元(はんもと):大金(たいきん) この5枚(まい)続(つづき)大作(たいさく)は明治2年(めいじにねん)の5月(ごがつ)に刊行(かんこう)されたもので、明治(めいじ)2己巳(つちのとみ)年(ねん)の開帳(かいちょう)の年(とし)に合(あ)わせて、常磐津(ときわづ)女(おんな)連中(れんちゅう)500人(にん)の名(な)が4段(だん)にわたって刷(す)られています。この作品(さくひん)と同様(どうよう)の画題(がだい)を扱(あつか)ったものに、三代(さんだい)広重(ひろしげ)の「東京(とうきょう)常磐津(ときわづ)総帥(そうすい)匠(たくみ)江(え)の嶋(しま)参詣(さんけい)之(の)図(ず)」(大判(おおばん)3枚(まい)続(つづき)、明治(めいじ)8年(ねん) 神奈川県立博物館(かながわけんりつはくぶつかん)蔵(ぞう))があります。
江嶋(えのしま)大明神(だいみょうじん)大祭(たいさい)参(まい)り常磐津(ときわづ)女(おんな)連中(れんぢゅう)
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)の重宣時代(しげのぶじだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾三駅(ごじゅうさんえき) 加奈川(かながわ) 横浜(よこはま)
北陸東海御巡幸双六(ほくりくとうかいごじゅんこうすごろく)
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 藤沢(ふじさわ)にあった間(あい)の宿(しゅく)(宿場(しゅくば)間(かん)の休憩所(きゅうけいじょ))である「四ツ谷(よつや)の立場(たてば)」を描(えが)いた作品(さくひん)です。題字(だいじ) に「追分道(おいわけみち)」とあるのは、この地(ち)が東海道(とうかいどう)から大山道(おおやまみち)が分岐(ぶんき)しているためです。 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚(けっこん)以前(いぜん)の重宣(しげのぶ)時代(じだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥(りゅうしょう)時代(じだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しており、藤沢宿(ふじさわしゅく)の立場(たてば)、四ツ谷(よつや)を描(えが)いたこのシリーズでは、全(まった)く同(おな)じ図柄(ずがら)で、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)のものと立祥(りゅうしょう)と名(な)を改(あらた)めてからのものとの二種(にしゅ)が存在(そんざい)します。 「追分道(おいわけみち)」とあるのは、この地(ち)が東海道(とうかいどう)から大山道(おおやまみち)が分岐(ぶんき)しているためです。 茶屋(ちゃや)のにぎわいが見(み)て取(と)れましょう。左端(ひだりはし)の「大山(おおやま)みち」と書(か)かれた、不動明王像(ふどうみょうおうぞう)を戴(いただ)いた道標(みちしるべ)は、現在(げんざい)も同地(どうち)に立(た)っています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 藤沢(ふじさわ) 追分(おいわけ)道(みち)
張交図(はりまぜず)とは、1枚(いちまい)の中(なか)に複数(ふくすう)箇所(かしょ)の名所(めいしょ)(風景(ふうけい)、名産(めいさん)、物語(ものがたり)等(とう))を並(なら)べたもので、広重(ひろしげ)は東海道(とうかいどう)をはじめ、各地(かくち)の張交作品(はりまぜさくひん)を手(て)がけています。 1枚目(いちまいめ)は、(上段(じょうだん)から)日本橋(にほんばし)(夏(なつ)の名物(めいぶつ)、麦湯(むぎゆ)の屋台(やたい))、品川(しながわ)(大森(おおもり)〔現(げん)大田区(おおたく)〕名物(めいぶつ)の麦藁細工(むぎわらざいく)の纏(まとい))、加奈川(かながわ)(神奈川(かながわ)湊(みなと)の風景(ふうけい))、保土ヶ谷(ほどがやしゅく)(保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)の留(とめ)め女(おんな))、川崎(かわさき)(大師河原(だいしがわら)名物(めいぶつ)の梨(なし))。 2枚目(にまいめ)は、(右下(みぎした)から)戸塚(とつか)(名物(めいぶつ)「焼(や)き餅(もち)」)、藤沢(ふじさわ)(宿場(しゅくば)の飯盛女(めしもりおんな))、 四谷(よつや)追分(おいわけ)(四ツ谷(よつや)の追分(おいわけ)。人馬(にんば)の継(つ)ぎ立(だ)て場(ば)でもあったことを駕籠(かご)と馬(うま)の足(あし)で象徴(しょうちょう))、伊勢原(いせはら)(大山麓(おおやまふもと)の街(まち))、大滝(おおたき)(参詣者(さんけいしゃ)の水垢離(みずごり)の場(ば)であった大山(おおやま)の滝(たき))。 3枚目(さんまいめ)は、(右下(みぎした)から)田村(たむら)(四ツ谷(よつや)から大山(おおやま)へ向(む)かう際(さい)の相模川(さがみがわ)の渡(わた)し場(ば))、子安(こやす)(子安(こやす)の木地細工(きじざいく))、大山前不動(おおやままえふどう)(大山寺(たいさんじ)の手前(てまえ)にある堂(どう))、石尊寺(せきそんじ)来迎谷(らいごうだに)(富士山(ふじさん)に日(ひ)が沈(しず)む情景(じょうけい)は阿弥陀如来(あみだにょらい)の来迎(らいごう)と例(たと)えられていた)、良弁之滝(ろうべんのたき)(良弁上人(りょうべんしょうにん)が身(み)を清(きよ)めたという伝承(でんしょう)がある)。 いずれも、大山詣(おおやままいり)に誘(さそ)う名所(めいしょ)・名物(めいぶつ)の数々(かずかず)が描(えが)かれています。
大山道(おおやまどう)中張(ちゅうはり)交(まぜ)図会(ずえ)
安政(あんせい)5年(ねん)(1858) 歌川国貞(うたがわくにさだ)の門人(もんじん)であった貞秀(さだひで)は、鳥瞰(ちょうかん)構図(こうず)による風景画(ふうけいが)と、横浜絵(よこはまえ)を得意(とくい)としました。本(ほん)図(ず)では相模国(さがみのくに)大隅郡(おおすみぐん)(現(げん)伊勢原市(いせはらし)・秦野市(はだのし)・平塚市(ひらつかし)一帯(いったい))を描(えが)いており、東側(ひがしがわ)から見(み)た大山(おおやま)が大(おお)きく表現(ひょうげん)されています。本来(ほんらい)手前(てまえ)にあるはずの江(え)の島(しま)と藤沢(ふじさわ)が奥(おく)に描(えが)かれているなど実景(じっけい)とは異(こと)なる改変(かいへん)が加(くわ)えられていますが、平面図(へいめんず)では伝(つた)わりにくい大山(おおやま)の全体像(ぜんたいぞう)を把握(はあく)することが出来(でき)ます。大山(おおやま)の入(い)り口(くち)から山頂(さんちょう)の石尊社(せきそんしゃ)までの名所(めいしょ)のみならず、人々(ひとびと)のにぎわう様子(ようす)や気候(きこう)まで豊(ゆた)かに描写(びょうしゃ)されているのが特徴(とくちょう)です。 題名(だいめい)にある「大山寺(おおやまでら)雨降神社(あぶりじんじゃ)」とは、「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」のことです。大山(おおやま)は、相模湾(さがみわん)からの湿潤(しつじゅん)な風(かぜ)を受(う)け、雨雲(あまぐも)ができやすい地形(ちけい)のため、古来(こらい)より雨降山(あめふりやま)とも呼(よ)ばれ「雨乞(あまご)い」や「止(し)(し)雨(う)(う)」の信仰(しんこう)を集(あつ)めました。本図(もとず)でも、大山(おおやま)の山頂(さんちょう)に雨(あめ)が降(ふ)っています。
相模国(さがみのくに)大隅(おおすみ)郡(ぐん)大山寺(おおやまでら)雨降神社(あぶりじんじゃ)真景(さねかげ)
北側(きたがわ)の島(しま)の入口(いりぐち)にある青銅製(せいどうせい)の鳥居(とりい)のそばに「新地(しんち)」と記(しる)されています。ここは明治(めいじ)になってから埋(う)め立(た)てられた場所(ばしょ)です。参道(さんどう)に両脇(りょうわき)には、「江戸(えど)や」「さぬきや」「堺屋(さかいや)」「岩本楼(いわもとろう)」「恵比寿(えびす)や」といった旅館(りょかん)の名前(なまえ)が見(み)えます。二(ふた)つ目(め)の鳥居(とりい)の先(さき)には「学校(がっこう)」とあります。ここは片瀬小学校江(かたせしょうがっこうえ)の島分校(しまぶんこう)で、江戸時代(えどじだい)には三重塔(さんじゅうのとう)があったところです(現在(げんざい)の市民(しみん)の家(いえ)あたり)。「学校(がっこう)」から南(みなみ)(上方(かみがた))へ進(すす)むと、杉山検校(すぎやまけんぎょう)がその石(いし)につまづいて鍼(はり)の極意(ごくい)を会得(えとく)したという「福石(ふくいし)」があり、その先(さき)に「邊(辺)津宮(へつのみや)」があります。隣接(りんせつ)して「八坂神社(やさかじんじゃ)」があるのは現在(げんざい)も同(おな)じです。「辺津宮(へつみや)」から東(ひがし)へ行(い)くと「中津宮(なかつみや)」があります。「中津宮(なかつみや)」からさらに進(すす)むと左手(ひだりて)に洋風(ようふう)の建物(たてもの)があります。ここは横浜(よこはま)の貿易商(ぼうえきしょう)サムエル・コッキングが明治時代(めいじじだい)に居住(きょじゅう)した邸宅(ていたく)であると考(かんが)えられています(現在(げんざい)のガーデンパーラー )。さらに行(い)くと煉瓦(れんが)(れんが)の塀(へい)に囲(かこ)まれた「植物園(しょくぶつえん)」(現在(げんざい)のサムエル・コッキング苑(えん))が記(しる)されています。さらに進(すす)むと「奥津宮(おくつみや)」に至(いた)り、階段(かいだん)を下(くだ)ると「(嬰(稚児)が淵(ちごがふち))」、「御窟(おんいわや)(岩屋(いわや))」へと至(いた)ります。 入口(いりぐち)の青銅製(せいどうせい)の鳥居(とりい)を左側(ひだりがわ)には「東町(あずままち) 」と記(しる)されている漁師町(りょうしまち)が広(ひろ)がっています。また、関東大震災(かんとうだいしんさい)により隆起(りゅうき)した「聖天島(しょうてんじま)」が、まだ海(うみ)に突(つ)き出(で)ている状態(じょうたい)で描(えが)かれています。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)真景(しんけい)
繪図屋(えずや)善兵衛(ぜんべえ) 文化(ぶんか)5年(ねん)(1808) この絵図(えず)は、江(え)の島(しま)の入(い)り口(くち)に「絵図(えず)屋(や)」の屋号(やごう)のお店(みせ)が販売(はんばい)していた島(しま)の案内(あんない)図(ず)です。当時(とうじ)の参詣(さんけい)者(しゃ)の島内(とうない)観光(かんこう)のために売(う)られていました。 画面(がめん)右(みぎ)に江(え)の島(しま)の北側(きたがわ)(入口(いりぐち))にあたる箇所(かしょ)を配(はい)しており、本来(ほんらい)なら画(が)中(ちゅう)には見(み)えない位置(いち)にある南側(みなみがわ)の岩屋(いわや)などが画面(がめん)左(ひだり)に展開(てんかい)されて描(えが)かれ、江(え)の島(しま)全体(ぜんたい)を画(が)中(ちゅう)で一望(いちぼう)できるような立体(りったい)的(てき)な構図(こうず)となっています。No.23やNo.25と比(くら)べると、江(え)の島(しま)の形(かたち)が異(こと)なりますが、No.25と同様(どうよう)に富士山(ふじさん)が画(が)中(ちゅう)右側(みぎがわ)に描(えが)かれています。さらに、富士山(ふじさん)の手前(てまえ)には現(げん)茅ヶ崎(ちがさき)海岸(かいがん)の沖合(おきあい)にある「烏帽子岩(えぼしいわ)」が描(えが)かれています。 図(ず)の右上(みぎうえ)には版元(はんもと)の店先(みせさき)が寛政(かんせい)7年(ねん)(1795)に火事(かじ)に遭(あ)い、版木(はんぎ)が消滅(しょうめつ)した記述(きじゅつ)が書(か)かれており、こちらの絵図(えず)その後(ご)、彫(ほ)りなおされた版木(はんぎ)で摺(す)り増(ま)しされたものです。左下(ひだりした)には「えのしま入口(いりぐち)左(ひだり)がは かど」と版元(はんもと)の住所(じゅうしょ)が記(しる)されています。版元(はんもと)の「絵図(えず)屋(や)」は、現在(げんざい)も同地(どうち)で土産物(みやげもの)屋(や)を営(いとな)んでいます。
江嶋(えのしま)一望(いちぼう)図(ず)