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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 名物(めいぶつ)有松(ありまつ)しぼりを売(う)る店(みせ)が街道(かいどう)沿(ぞ)いに軒(のき)を連(つら)ねている有松(ありまつ)の立場(たてば)が描(えが)かれています。木綿(もめん)の生地(きじ)に様々(さまざま)な絞(しぼ)りの技法(ぎほう)で染(そ)め上(あ)げた有松(ありまつ)しぼりは、夏(なつ)の浴衣地(ゆかたじ)として多(おお)く用(もち)いられました。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 四十四(よんじゅうよん) 有松(ありまつ)しぼり店(てん) 鳴海(なるみ) 宮(みや)迄(まで)一(いち)り廿(にじゅう)八(はっ)町(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 知立(ちりゅう)神社(じんじゃ)は、江戸時代(えどじだい)には「東海道(とうかいどう)三社(さんしゃ)」の一(ひと)つに数(かぞ)えられ、東海道(とうかいどう)を旅(たび)する人々(ひとびと)には「まむし除(よ)け」のご利益(りえき)があるとして信仰(しんこう)されていました。 画(え)中(ちゅう)に描(えが)かれる人々(ひとびと)の細(こま)かい描写(びょうしゃ)からは、人情味(にんじょうみ)あふれる情景(じょうけい)を描(えが)いた初代(しょだい)広重(ひろしげ)の画風(がふう)が継承(けいしょう)されていることが感(かん)じられます。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 四十三(よんじゅうさん) 池鯉鮒(ちりゅう) 知立(ちりゅ)府(う)神社(じんじゃ)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 矢作橋(やはぎばし)は東海道一(とうかいどういち)の長(なが)さを誇(ほこ)り、名所(めいしょ)としても知(し)られていました。 幕末(ばくまつ)の安政(あんせい)2年(ねん)(1855)の大洪水(だいこうずい)により橋(はし)が流(なが)され、明治(めいじ)4年(ねん)(1871)の仮橋(かりばし)の架橋(かきょう)まで橋(はし)は架(か)けられていませんでした。 画(え)に描(えが)かれているのは、その仮橋(かりばし)でしょうか。人力車(じんりきしゃ)や洋装(ようそう)の人々(ひとびと)が行(い)きかっています。また、橋(はし)のたもとでは、洗濯(せんたく)をする女性(じょせい)や、水(みず)を汲(く)みに来(き)た男性(だんせい)の姿(すがた)も描(えが)かれています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 四(よん)十二(じゅうに) 岡崎(おかざき) 矢(や)はぎ橋(ばし)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 藤川宿(ふじかわしゅく)の東(ひがし)にある山中村(やまなかむら)の景色(けしき)を描(えが)いています。 山中村(やまなかむら)は麻(あさ)を用(もち)いて作(つく)った道具(どうぐ)類(るい)が名物(めいぶつ)で、画中(がちゅう)でも道(みち)の両側(りょうがわ)に店(みせ)が並(なら)んでいるのが見(み)えます。 簡素(かんそ)な建物(たてもの)が並(なら)び、江戸時代(えどじだい)と変(か)わらぬ景色(けしき)に見(み)える村(むら)にも、電信柱(でんしんばしら)が設置(せっち)されています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 四十(よんじゅう)一(いち) 藤川(ふじかわ) 山中(やまなか)の里(さと)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 突然(とつぜん)の雨(あめ)に降(ふ)られたのでしょうか、画面上部(がめんじょうぶ)を覆(おお)う黒(くろ)い空(そら)には稲光(いなびかり)が走(はし)り、あぜ道(みち)の街道(かいどう)を行(い)きかう人々(ひとびと)は急(せ)いたように道(みち)を走(はし)り出(だ)す様子(ようす)が描(えが)かれています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 四十(よんじゅう) 赤坂(あかさか) 縄手道(なわてみち)の夕立(ゆうだち)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 御油(ごゆ)は、姫(ひめ)街道(かいどう)と鳳来寺(ほうらいじ)への参道(さんどう)との分岐点(ぶんきてん)で、交通(こうつう)の要所(ようしょ)として賑(にぎ)わっていました。次(つぎ)の宿場(しゅくば)が近(ちか)いため、旅人(たびびと)を引(ひ)き留(と)める飯盛女(めしもりおんな)が大勢(おおぜい)いたことでも知(し)られています。店先(みせさき)の旗(はた)には、広重(ひろしげ)の名前(なまえ)が書(か)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十九(じゅうく) 東(ひがし)入口(いりぐち)国(くに)すし 御油(ごゆ) 赤坂(あかさか)迄(まで)十(じゅう)六(ろく)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 豊川橋(とよがわはし)とは、吉田大橋(よしだおおはし)のことで東海道(とうかいどう)の三大橋(さんおおはし)にあげられます。 吉田宿(よしだしゅく)は城下町(じょうかまち)として非常(ひじょう)に栄(さか)えましたが、明治(めいじ)2(1869)年(ねん)に豊橋(とよはし)と改称(かいしょう)しました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 豊川(とよかわ)橋(ばし)は、吉田(よしだ)宿(やど)にあった吉田(よしだ)大橋(おおはし)のことで、東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)のひとつでした。吉田(よしだ)宿(しゅく)は城下町(じょうかまち)として栄(さか)えていましたが、明治(めいじ)2年(ねん)(1869)に豊橋(とよはし)と改称(かいしょう)しました。 初代(しょだい)広重(ひろしげ)の「五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 三十五 吉田(よしだ) 豊川(とよかわ)大(おお)はし」(通称(つうしょう):竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))と同(おな)じ構図(こうず)ですが、三代(さんだい)広重(ひろしげ)の作品(さくひん)では洋装(ようそう)の人々(ひとびと)や人力車(じんりきしゃ)が橋(はし)を渡(わた)る様子(ようす)が描(えが)かれており、時代(じだい)の変化(へんか)を感(かん)じさせます。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十(じゅう)八(はち) 豊橋(とよはし) 豊川(とよかわ)の大(おお)はし
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 本図(ほんず)は三代(さんだい)広重(ひろしげ)の師匠(ししょう)である初代(しょだい)歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)が晩年(ばんねん)に手掛(てが)けた竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と同(おな)じ構図(こうず)をとっています。 浜名湖(はまなこ)の東側(ひがしがわ)、舞坂(まいさか)の渡(わた)し場(ば)近(ちか)くを描(えが)いています。手前(てまえ)に見(み)える杭(くい)は波除(なみよけ)と思(おも)われます。 画面(がめん)中央(ちゅうおう)にそびえる小高(こだか)い山(やま)は、実際(じっさい)にはなく、創作(そうさく)で描(えが)かれたものです。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三十四(さんじゅうよん) 今切(いまぎり)海上(かいじょう) 舞坂(まいさか) あらい迄(まで)渡舩(わたりぶね)一里(いちり)