ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
板元(はんもと)印(しるし)なし 落款(らっかん)、板元(はんもと)印(しるし)ともになく作者不詳(さくしゃふしょう)となっています。極印(ごくいん)が半分(はんぶん)に切(き)られているので、元(もと)の大(おお)きさは現在(げんざい)のものより少(すこ)し大(おお)きかったと考(かんが)えられます。弁才天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)を描(えが)いた作品(さくひん)は多(おお)くありますが、表題(ひょうだい)に開帳(かいちょう)の場所(ばしょ)や年(とし)を明記(めいき)している点(てん)が珍(めずら)しい作品(さくひん)です。 また、江(え)の島(しま)では海士(あま)と呼(よ)ばれる男性(だんせい)が鮑(あわび)取(と)りをしていました。多(おお)くの作品(さくひん)で鮑(あわび)取(と)りをしているのは女性(じょせい)として描(えが)かれていますが、この作品(さくひん)では男性(だんせい)の姿(すがた)で描(えが)かれている点(てん)も注目(ちゅうもく)されます。
相州(そうしゅう)江(え)ノ嶋(しま)弁才天(べんざいてん)上下(じょうげ)ノ宮(みや)己巳(つちのとみ)年(どし)御(ご)開帳(かいちょう)繁栄(はんえい)之(の)全(ぜん)図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい) 司馬江漢(しばこうかん)の作(さく)と伝(つた)えられています。 彼(かれ)は天明(てんめい)3年(ねん)(1783年(ねん))に銅(どう)版画(はんが)を作成(さくせい)した画家(がか)として著名(ちょめい)であり、また油絵(あぶらえ)風(ふう)に描(えが)く洋風画(ようふうが)の大家(おおや)でもありました。 彼(かれ)の制作(せいさく)した銅(どう)版画(はんが)に「七里ヶ浜(しちりがはま)図(ず)」(天明(てんめい)7年(ねん))がありますし、また洋風画(ようふうが)にはいくつかの七里ガ浜(しちりがはま)を描(えが)いた作品(さくひん)がありますが、それらの作品(さくひん)は構図(こうず)として低(ひく)い視点(してん)から描(えが)いており、この図(ず)のように鳥瞰図(ちょうかんず)のような視点(してん)の高(たか)さからは描(えが)いておりません。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(七里ガ浜(しちりがはま)地引(じび)き網(あみ))
制作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)29年(ねん)(1896)3月1日(がつついたち)印刷(いんさつ)。 板元(はんもと):松本(まつもと)平吉(へいきち) 月耕(げっこう)には錦絵(にしきえ)の作例(さくれい)は数(すう)種(しゅ)あり、月耕(げっこう)随筆(ずいひつ)シリーズは最(もっと)も有名(ゆうめい)です。 この江(え)の島(しま)参(まい)りもそのシリーズの一(ひと)つで、江(え)の島(しま)参道(さんどう)で一服(いっぷく)しながら七里ガ浜(しちりがはま)の方(ほう)を眺(なが)める二人(ふたり)の美人(びじん)は、明治(めいじ)の明(あか)るさと、伝統(でんとう)の薄(うす)れを同時(どうじ)に併(あわ)せもつ感(かん)を与(あた)えます。
月耕(げっこう)随筆(ずいひつ) 江(え)の嶌(しま)参(まい)り
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)(1840)。 板元(はんもと):萬重(まんしげ) 団扇(うちわ)絵(え)として描(えが)かれたもので『源氏物語(げんじものがたり)』の見立(みたて)絵(え)で、右(みぎ)の婦人(ふじん)の手(て)にすがる童子(どうじ)を源氏(げんじ)の君(きみ)に見立(みた)て、光(ひかり)の君(きみ)が宮廷(きゅうてい)における勢力(せいりょく)を失(うしな)い、須磨(すま)に退却(たいきゃく)する、「須磨(すま)」の巻(まき)になぞらえています。 浮世絵(うきよえ)では、源氏(げんじ)が3月(がつ)上巳(じょうし)の日(ひ)に須磨(すま)の海(うみ)の祓(はら)いに行(い)った時(とき)に襲(おそ)われた場面(ばめん)を描(えが)くことが多(おお)いのですが、ここでは場所(ばしょ)を江(え)の島(しま)に設定(せってい)しているところが興味深(きょうみぶか)く、江(え)の島(しま)の開帳(かいちょう)が3月(がつ)上巳(じょうし)の日(ひ)に関(かん)することが多(おお)いことに由来(ゆらい)すると考(かんが)えられます。
見立(みたて)浮世(うきよ)源氏(げんじ)相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)須磨(すま)
制作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)2年(ねん)(1869)頃(ごろ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 各地(かくち)の名所(めいしょ)八景(はっけい)を一連(いちれん)の絵(え)に仕立(した)て、それを一(ひと)つ一(ひと)つ切(き)っても鑑賞(かんしょう)できるようにされているものです。 八景(はっけい)の構成(こうせい)は、相州(そうしゅう)江(こう)ノ嶌(しま)、奥州(おうしゅう)松嶌(まつしま)、勢州(せいしゅう)二見ヶ浦(ふたみがうら)、播州(ばんしゅう)舞子ノ浜(まいこのはま)となっています。
無題(むだい)(諸国(しょこく)名所(めいしょ)づくし江(え)ノ嶌(しま))
制作(せいさく)時期(じき):元治(げんじ)元年(がんねん)(1864)5月(がつ)。 板元(はんもと):辻岡(つじおか)屋(や) 田舎(いなか)源氏(げんじ)の光(ひかり)の君(きみ)が江(え)の島(しま)遊覧(ゆうらん)に訪(おとず)れ、稚児ヶ淵(ちごがふち)で海女(あま)達(たち)の鮑(あわび)漁(いさ)りを見物(けんぶつ)している様(さま)を描(えが)いています。光(ひかり)の君(きみ)は特徴(とくちょう)のある海老茶筌髷(えびちゃせんまげ)に豪華(ごうか)な衣裳(いしょう)を身(み)につけています。 いわゆる源氏絵(げんじえ)で版(はん)の色(いろ)数(すう)も多(おお)く、空摺(からずり)の技法(ぎほう)も駆使(くし)した入念(にゅうねん)な錦絵(にしきえ)です。
今様(いまよう)けんじ江(え)之(の)嶋(しま)兒(ちご)ヶ淵(ふち)
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(よんねん)~嘉永(かなが)末期(まっき)(1847~1854)。 板元(はんもと):不明(ふめい) 落款(らっかん)は一嶺斎(いちりゅうさい)芳雪(ほうせつ)で、この板元(はんもと)印(しるし)は石井研堂(いしいけんどう)『地本(じもと)錦絵(にしきえ)問屋(とんや)譜(ふ)』に「薩摩守忠度(さつまのかみただのり)」の武者絵(むしゃえ)にあるとだけ記(しる)されています。波(なみ)荒(あら)い七里ガ浜(しちりがはま)で銭(ぜに)を投(な)げ、裸(はだか)の子(こ)どもに拾(ひろ)わせて楽(たの)しむ3人(にん)の女性(じょせい)、左(ひだり)の駕籠(かご)かきは2人(ふたり)とも芳雪(ほうせつ)得意(とくい)の刺青(いれずみ)をしています。 当時(とうじ)の江(え)の島(しま)詣(もうで)の旅(たび)風俗(ふうぞく)がよくわかる資料(しりょう)です。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)詣(もうで)春(はる)の賑(にぎわい)
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)頃(ごろ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 浮画(うきえ)とあるように洋風(ようふう)の遠近(えんきん)感(かん)をとり入(い)れた作品(さくひん)ですが、版(ばん)がかなりつぶれていて色(いろ)版(ばん)もずれている点(てん)から、後(こう)版(ばん)の可能性(かのうせい)が強(つよ)いと思(おも)われます。
新版(しんばん)浮(うき)画(え) 江(え)之(の)嶌(しま)金亀(きんき)山(ざん)之(の)遠景(えんけい)