Fujisawa Net Museum

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制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2(ねん)(1855)2(がつ)
板元(はんもと)(しるし)なし

これは団扇絵(うちわえ)で、満潮(まんちょう)()()(しま)正面(しょうめん)から()()です。参道(さんどう)(うみ)(ぼっ)して()えませんが、片瀬(かたせ)(はま)()()げられた(ふね)が3(せき)と、参詣(さんけい)(じん)(はこ)んでいるのか(しま)(むこ)うにも2(せき)(ふね)()えます。弘化(こうか)4(ねん)(1847(ねん))(すえ)の『江ノ島(えのしま)参詣(さんけい)()()書写(しょしゃ)』に「片瀬(かたせ)渡場(わたりば)百姓渡舟賃払(ひゃくしょうわたりぶねちんはらい)方舟(はこぶね)弐艘(にそう)つなき(おき)」と記録(きろく)され百姓(ひゃくしょう)(わたし)(ふね)(ぜに)をとって、参詣(さんけい)(じん)(はこ)んだことが(しる)されています。
画面(がめん)画題(がだい)落款(らっかん)(かこ)いが(あか)()られているだけで、あとは(あい)濃淡(のうたん)だけで()られています。いわゆる藍摺(あいずり)江戸(えど)末期(まっき)(おこな)われた(あい)一色(いっしょく)、または(あい)(しゅ)としてその濃淡(のうたん)色調(しきちょう)をととのえて()(いろ)極度(きょくど)制限(せいげん)し、少量(しょうりょう)(べに)などをきき(しょく)として(もち)いた錦絵(にしきえ)のことです。藍摺(あいずり)発生(はっせい)天保(てんぽう)13(ねん)(1842(ねん))の奢侈禁止令(しゃしきんしれい)との関係(かんけい)説明(せつめい)されますが、実際(じっさい)には文政(ぶんせい)12(ねん)(1829(ねん))(ころ)輸入(ゆにゅう)された(とう)(あい)(らん)(めい)ベロリンという(いろどり)やかな藍色(あいいろ)を、当時(とうじ)狂歌(きょうか)()たちがすでに摺物(すりもの)などに(もち)いていて、それ以来(いらい)ペロリン(あい)錦絵(にしきえ)にも使用(しよう)されたことが、青葱堂(せいそうどう)冬圃(とうほ)随筆(ずいひつ)真佐(まさ)(よし)のかつら』に(しる)されています。

歌川広重 相州江之嶋金亀山

相州(そうしゅう)(こう)()(しま)金亀(きんき)(ざん)

制作(せいさく)時期(じき):安政(やすまさ)元年(がんねん)(1854)2月(にがつ)
板元(はんもと):(つた)(きち)

これは「鎌倉(かまくら)七里(しちり)(はま)風景(ふうけい)」と(つい)で、(つた)(きち)から出版(しゅっぱん)されたもので(ちゅう)短冊(たんざく)です。
広重(ひろしげ)相州(そうしゅう)一番(いちばん)名所(めいしょ)である()(しま)度々(たびたび)(おとず)れて、(おお)くの作品(さくひん)(のこ)しています。広重(ひろしげ)は「()(そう)(たび)絵日記(えにっき)」のスケッチ旅行(りょこう)(さい)()(しま)岩本楼(いわもとろう)投宿(とうしゅく)し、(どう)絵日記(えにっき)(だい)(さん)(じゅう)()(けい)に「同所(どうしょ)岩本楼(いわもとろう)(うえ)」、(さん)(じゅう)三景(さんけい)に「おとなしく酒宴(しゅえん)」と、岩本楼(いわもとろう)での投宿(とうしゅく)様子(ようす)(つた)える2(かい)(のこ)しています。
これは広重(ひろしげ)()(しま)(おとず)れるごとに、(この)んで()まった岩本楼(いわもとろう)の「富士見(ふじみ)()」から(えが)いた、富士(ふじ)(けい)(おも)われる(いち)()です。

歌川広重 相州江之島眺望

相州(そうしゅう)江之島(えのしま)眺望(ちょうぼう)

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11(ねん)~13(ねん)(1840~1843)(ころ)
板元(はんもと):増銀(ますぎん)

諸国(しょこく)勝景(しょうけい)シリーズには10点(じゅってん)あり、1「近江(おうみ)琵琶湖(びわこ)」、2「京師(けいし)嵐山(あらしやま)」、3「芸州(げいしゅう)厳島(いつくしま)」、4「下総(しもうさ)刀禰(とね)(がわ)」、5「駿州(すんしゅう)三甫(みほ)(うら)」、6「勢州(せいしゅう)二見ヶ浦(ふたみがうら)」、7「相州(そうしゅう)七里ヶ濱(しちりがはま)」、8「東都(とうと)霞ヶ関(かすみがせき)」、9「播州(ばんしゅう)(むろ)()()」、10「武蔵(むさし)玉川(たまがわ)」です。広重(ひろしげ)はこうした小品(しょうひん)沢山(たくさん)(えが)いているのですが、風景(ふうけい)代表作(だいひょうさく)には各種(かくしゅ)東海道(とうかいどう)シリーズが有名(ゆうめい)で、その種類(しゅるい)は40を()えるといわれます。
(なか)でも(もっと)著名(ちょめい)保永堂版<(ほえいどうばん)の「東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」(天保(てんぽう)3・4(ねん))(ぞく)に「行書(ぎょうしょ)東海道(とうかいどう)」と()ばれる天保(てんぽう)(まつ)(ごろ)江崎屋(えさきや)(ばん)のシリーズ。また嘉永(かなが)前期(ぜんき)の「隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう)」と()ばれる丸清版(まるせいばん)などがあります。また(ほか)にも「木曾(きそ)街道(かいどう)六拾九(ろくじゅうきゅう)(つぎ)」、「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」などがあります。

歌川広重 諸国勝景 相州七里ヶ浜

諸国(しょこく)勝景(しょうけい) 相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11(ねん)~13(ねん)(1840~1843)(ころ)
板元(はんもと)(しるし)なし

横長(よこなが)16.8cm、竪長(たてなが)11.2cmという大変(たいへん)(ちい)さな画面(がめん)に、七里ヶ浜(しちりがはま)から()()(しま)様子(ようす)(えが)かれます。このような(ちい)さい浮世絵(うきよえ)(まめ)(ばん)(しょう)されますが、本作(ほんさく)小奉書(こぼうしょ)(やく)47cm×(やく)33cm)を(やっ)()りにしたサイズに(ちか)いと(かんが)えられます。
手前(てまえ)()()った岸壁(がんぺき)小動岬(こゆるぎみさき)(おも)われ、上部(じょうぶ)(まつ)(えが)かれます。小動岬(こゆるぎみさき)名称(めいしょう)は、その(いただき)小動(こゆるぎ)(まつ)という、(かぜ)もないのに()れたと(つた)えられる(まつ)由来(ゆらい)します。

諸国(しょこく)名所(めいしょ)シリーズのうちの七里ガ浜(しちりがはま)()で、前景(ぜんけい)()()った断崖(だんがい)()き、正面(しょうめん)(ちゅう)(けい)(うみ)()かぶ()(しま)(えが)き、遠景(えんけい)には富士山(ふじさん)()かけ(せん)(ほどこ)すなど、遠近(えんきん)(かん)表現(ひょうげん)するのに心憎(こころにく)いばかりの工夫(くふう)をこらしています。(ほか)にこうした小品(しょうひん)()(しま)関係(かんけい)するのは「諸国(しょこく)名産(めいさん)」(有田屋清右衛門(ありたやせいえもん)(ばん))があり「相州(そうしゅう)()(しま)(さん)(あわび)かす(づけ)細工(ざいく)」があります。そして(さら)(ちい)さいその半分(はんぶん)作品(さくひん)には、本朝(ほんちょう)名所(めいしょ)縮図(しゅくず)である「諸国(しょこく)名所(めいしょ)相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)」があります。

歌川広重 諸国名所 相州七里浜

諸国(しょこく)名所(めいしょ) 相州(そうしゅう)七里(しちりが)(はま)

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)5(ねん)(1834)(ころ)
板元(はんもと)(しるし)なし

東海道(とうかいどう)()内江(うちえ)嶋路(しまじ)片瀬(かたせ)()(しち)(めん)山見(ざんみ)浜辺(はまべ)」とともに、東海道(とうかいどう)(わき)(みち)(えが)こうとしたものですが、(わき)(みち)ということで発売(はつばい)しても人気(にんき)(うす)かったのでしょうか、(ほか)()出版(しゅっぱん)されていません。しかし()版下(はんした)(のこ)っていて(あら)たに復刻(ふっこく)されています。これらの()には(ほか)(れい)()ない(わき)()を、画題(がだい)としてとり()げた広重(ひろしげ)意欲(いよく)といったものが(かん)じられます。
この作品(さくひん)のもっている空間(くうかん)(ひろ)がりは、(ほか)七里ガ浜(しちりがはま)(えが)いた浮世絵(うきよえ)よりも、また洋風(ようふう)表現(ひょうげん)によって(えが)いたものをはるかに超越(ちょうえつ)しています。ここには富士山(ふじさん)(えが)かれておらず、()(しま)点景(てんけい)として存在(そんざい)するだけで、画題(がだい)のとおり七里ガ浜(しちりがはま)中心(ちゅうしん)となっています。

歌川広重 東海道之内江之嶋路七里ヶ浜江ノ嶋遠望

東海道(とうかいどう)()内江(うちえ)()嶋路(しまじ)七里ヶ浜(しちりがはま)()(しま)遠望(えんぼう)

制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)5(ねん)(1858) 4(がつ)(ごろ)
板元(はんもと):蔦吉(つたきち)

広重(ひろしげ)(さい)晩年(ばんねん)制作(せいさく)されたシリーズの(ひと)つとして有名(ゆうめい)作品(さくひん)です。冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)シリーズは三亭(さんてい)春馬(しゅんま)目録(もくろく)(づけ)全部(ぜんぶ)で37()となり、江戸(えど)南伝馬町(みなみでんまちょう)蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)から上梓(じょうし)されたもので、安政(あんせい)5(ねん)4(がつ)改印(かいいん)()翌年(よくねん)刊行(かんこう)されています。広重(ひろしげ)富士(ふじ)取材(しゅざい)した(そろい)(もの)は、嘉永(かえい)5(ねん)12(がつ)改印(かいいん)の「不二三十六景(ふじさんじゅうろっけい)」の(そろい)があるにすぎません。
そのどちらもあの有名(ゆうめい)な「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」の北斎(ほくさい)死後(しご)刊行(かんこう)されていることは、(かれ)北斎(ほくさい)敬意(けいい)(あらわ)し、また遠慮(えんりょ)したようにも(おも)えます。

この画面(がめん)()(しま)富士(ふじ)七里ガ浜(しちりがはま)(のぞ)袖ヶ浦(そでがうら)あたりです。手前(てまえ)(えが)かれている茶屋(ちゃや)は「出口(でぐち)茶屋(ちゃや)」と()ばれ、天保(てんぽう)9(ねん)(ごろ)紀行文(きこうぶん)冨士大山道中(ふじおおやまどうちゅう)雑記(ざっき)(つき)江之嶋(えのしま)鎌倉(かまくら)』にも「袖ヶ浦(そでがうら)茶屋(ちゃや)(あり)(この)(ところ)にて鎌倉(かまくら)絵図(えず)(ならびに)名所記(めいしょき)(など)(あきな)茶屋(ちゃや)婦人(ふじん)絵図(えず)講釈(こうしゃく)(いた)す」と(しる)されています。茶店(ちゃみせ)軒先(のきさき)には「蔦吉(つたきち)」、「日本(にっぽん)はし」、「(さかな)()し」などの(さつ)()られます。

歌川広重 冨士三十六景 相模七里が浜

冨士(ふじ)(さん)(じゅう)(ろっ)(けい) 相模(さがみ)(しち)()(はま)



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