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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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狂歌(きょうか):風(かぜ)ふけば 花(はな)にこゝろを 興津川(おきつがわ) あさき瀬(せ)にだに 袖(そで)はぬれけり(年垣真春) 興津川(おきつがわ)の徒歩(かち)渡(わた)しのようすが描(えが)かれています。薩埵(さつた)峠(とうげ)を背景(はいけい)にした興津川(おきつがわ)の景色(けしき)です。興津川(おきつがわ)では徒歩(かち)渡(わた)しが行(おこな)われており、画(が)中(ちゅう)には川岸(かわぎし)で人足(にんそく)が客(きゃく)を乗(の)せたり降(お)ろしたりする様子(ようす)が描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 興津(おきつ) 興津川(おきつがわ) (狂歌(きょうか)入(にゅう)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):春風(しゅんぷう)に 池(いけ)の氷(こおり)の とけそめて 刎(はね)出(で)る鯉(こい)や 鮒(ふな)も花(はな)なる(狂歌亭真似言) 画面(がめん)右(みぎ)に宿場(しゅくば)の出入口(でいりぐち)を示(しめ)す牓(ぼう)示(じ)杭(くい)がみえることから、宿場(しゅくば)の入(い)り口(くち)を描(えが)いていることがわかります。また、同(どう)じく画面(がめん)右(みぎ)に、御幣(ごへい)をつけた馬(うま)を引(ひ)き連(つ)れる一行(いっこう)が見(み)えますが、これは八朔(はっさくの)御馬(おうま)進(しん)献(けん)という旧暦(きゅうれき)の毎年(まいとし)8月(がつ)に幕府(ばくふ)から御所(ごしょ)へ馬(うま)を献上(けんじょう)する一行(いっこう)を描(えが)いています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 池鯉鮒(ちりゅう)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):梅(うめ)か香(か)に 袖(そで)ふりあふて 泊(とま)り村(むら) つえつき坂(ざか)を のぼる旅人(たびびと)(緑庵松俊) 四日市宿(よっかいちしゅく)の先(さき)に架(か)かる橋(はし)を、巡礼(じゅんれい)者(しゃ)、天狗(てんぐ)の面(めん)を背負(せお)った金毘羅(こんぴら)参(まい)りの男性(だんせい)、伊勢(いせ)参(まい)り(抜(ぬ)け参(まい)り)の子供(こども)たちなどが行(い)き交(か)う様子(ようす)を描(えが)いています。四日市宿(よっかいちしゅく)には、東海道(とうかいどう)と伊勢街道(いせかいどう)の分岐(ぶんき)である日永(ひなが)の追分(おいわけ)があったので、多(おお)くの旅人(たびびと)でにぎわっていたそうです。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 四日市(よっかいち)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):すゞ(ず)か山(やま) ふる双六(すごろく)は たび人(びと)の さきへさきへと いそぐ駅路(えきろ)(森風亭波都賀) 坂(さか)下宿(したしゅく)の手前(てまえ)の筆(ふで)捨(すて)山(やま)の場面(ばめん)を描(えが)いています。この茶屋(ちゃや)は、鈴鹿(すずか)川(かわ)を挟(はさ)んだ対岸(たいがん)に望(のぞ)む筆(ふで)捨(すて)山(やま)の眺望(ちょうぼう)が評判(ひょうばん)でした。筆(ふで)捨(すて)山(やま)の名前(なまえ)は、室町時代(むろまちじだい)の絵師(えし)、狩(か)野(のう)元信(もとのぶ)がこの山(やま)を写(うつ)そうと筆(ふで)を取(と)ったところ天候(てんこう)の変化(へんか)に左右(さゆう)され思(おも)うように写(うつ)しきれず、ついに諦(あきら)めて筆(ふで)を捨(す)てたという故事(こじ)に由来(ゆらい)するものです。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 阪之下(さかのした)筆(ふで)捨(すて)山(やま)之(の)図(ず)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
制作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ) 18 年(ねん)(1885)。 豊原国周(とよはらくにちか)(1835 - 1900)は、三代(さんだい)豊国(とよくに)に入門(にゅうもん)しましたが、終生(しゅうせい)、歌川(うたがわ)を称(しょう)さず、豊原(とよはら)を名乗(なの)りました。 芳年(ほうねん)、芳(よし)幾(いく)と合(あ)わせて明治(めいじ)浮世絵(うきよえ)界(かい)の三傑(さんけつ)とも称(しょう)されました。 作品(さくひん)は河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作(さく)の歌舞伎(かぶき)狂言(きょうげん)「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」のハイライト、「稲瀬川(いなせがわ)勢揃(せいぞろ)い」で、大見得(おおみえ)を切(き)る5人(にん)の口(くち)から述(の)べられる口上(こうじょう)が、ずらりと記(しる)されています。
しら浪(なみ)五(ご)人(にん)男(おとこ)
制作(せいさく)時期(じき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)1212月(がつ)。板元(はんもと):相(あい)卜(ぼく) 七里ガ浜(しちりがはま)の小動(こゆるぎ)崎(さき)の付近(ふきん)を牛(うし)の背(せ)に揺(ゆ)られながら江(え)の島(しま)に向(む)かう光(ひかり)の君(きみ)、画題(がだい)には「七里ヶ浜(しちりがはま)遊覧(ゆうらん)之(の)図(ず)」としかありませんが、図様(ずよう)は柳亭種彦(りゅうていたねひこ)作(さく)、歌川国貞(うたがわくにさだ)(三代(さんだい)豊国(とよくに))画(が)の大長編(だいちょうへん)合巻(ごうかん)『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』全(ぜん)38巻(かん)の文政(ぶんせい)12年(ねん)(1829年(ねん))から天保(てんぽう)13年(ねん)(1842年(ねん))にかけて刊行(かんこう)された、略称(りゃくしょう)『田舎(いなか)源氏(げんじ)』の主人公(しゅじんこう)光(ひかり)の君(きみ)が七里ガ浜(しちりがはま)を遊覧(ゆうらん)しているところを描(えが)いている見立絵(みたてえ)です。田舎(いなか)源氏(げんじ)は『源氏物語(げんじものがたり)』を草子(そうし)形式(けいしき)に翻案(ほんあん)したもので、「偐紫」は似(に)せ、偽(にせ)紫式部(むらさきしきぶ)で「田舎(いなか)」は卑俗(ひぞく)なまがい物(もの)の『源氏物語(げんじものがたり)』を意味(いみ)します。この田舎(いなか)源氏(げんじ)は刊行(かんこう)以来(いらい)大変(たいへん)な人気(にんき)を呼(よ)びましたが、天保(てんぽう)の改革(かいかく)で筆禍(ひっか)を受(う)けて中絶(ちゅうぜつ)し、著者(ちょしゃ)種彦(たねひこ)も没(ぼっ)してしまいますが、水野忠邦(みずのただくに)失脚(しっきゃく)後(ご)に復活(ふっかつ)します。そして原作(げんさく)挿絵(さしえ)の名(めい)場面(ばめん)を錦絵(にしきえ)化(か)して刊行(かんこう)し、いわゆる「源氏絵(げんじえ)」の流行(りゅうこう)となり、歌川派(うたがわは)の絵師(えし)のほとんどがこの画題(がだい)を手掛(てが)けています。また歌舞伎(かぶき)にも採用(さいよう)され、「内裡(だいり)模様(もよう)源氏紫(げんじのえどころ)」(天保(てんぽう)9年(ねん))、「東山(ひがしやま)桜(さくら)荘子(そうし)」・「源氏(げんじ)模様(もよう)娘(むすめ)雛形(ひながた)」(嘉永(かえい)4年(ねん))などがあります。これらのうち浄瑠璃(じょうるり)「名(めい)夕顔(ゆうがお)雨(あめ)の旧寺(ふるでら)」は「古寺(ふるでら)」という名(な)で現在(げんざい)も上演(じょうえん)されることもあります。版画(はんが)の作例(さくれい)として最(もっと)も早(はや)いものは、初代(しょだい)国貞(くにさだ)の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(大判(おおばん)、天保(てんぽう)期(き))が数(すう)種(しゅ)出版(しゅっぱん)されています。また「亀戸(かめいど)天満宮(てんまんぐう)奉納(ほうのう)田舎(いなか)源氏(げんじ)額面(がくめん)写(うつし)」(天保(てんぽう)10年(ねん)刊(かん))があります。
七里ケ浜(しちりがはま)遊覧(ゆうらん)之(の)図(ず) 江(え)のしま眺望(ちょうぼう)之景(のけい)
製作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2年(にねん)(1855)。板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう) 鞠子宿(まりこしゅく)内(ない)の様子(ようす)が描(えが)かれています。鞠子(まりこ)はとろろ汁(じる)で有名(ゆうめい)な宿場(しゅくば)でした。両側(りょうがわ)に続(つづ)く茶屋(ちゃや)には「とろろ汁(じる)」の看板(かんばん)がいくつもかかっています。左(ひだり)手前(てまえ)の店先(みせさき)で客(きゃく)がとろろ汁(じる)をすすっています。また茶屋(ちゃや)の壁(かべ)には浮世絵(うきよえ)と思(おも)われる絵画(かいが)が飾(かざ)ってあり、当時(とうじ)浮世絵(うきよえ)が一般的(いっぱんてき)に普及(ふきゅう)していたことが伺(うかが)える作品(さくひん)でもあります。 このシリーズが竪(たて)型(がた)版(ばん)であるため、一般(いっぱん)に竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 才(さい))の作品(さくひん)です。広重(ひろしげ)の東海道(とうかいどう)ものは大体(だいたい)において、横型(よこがた)の風景画(ふうけいが)が多(おお)いなかで、竪(たて)型(がた)物(ぶつ)もいくつかあります。この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿(やど)が鳥瞰図(ちょうかんず)で描(えが)かれ、町並(まちな)み等(とう)に遠近法(えんきんほう)を用(もち)い、横(よこ)判(ばん)では見(み)られない雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。
五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 二十一(にじゅういち) 鞠子(まりこ) 駅中(えきちゅう)名物(めいぶつ)とろゝ汁(しる)をひさく(竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2年(にねん)(1855)。板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう) 竪(たて)絵(え)では、鴫(しぎ)立沢(たつさわ)とその奥(おく)に広(ひろ)がる相模湾(さがみわん)の景色(けしき)を描(えが)いています。鳥瞰(ちょうかん)的(てき)に描(えが)かれていることで、より画面(がめん)に広(ひろ)がりが出(で)ています。 このシリーズが竪(たて)型(がた)版(ばん)であるため、一般(いっぱん)に竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 才(さい))の作品(さくひん)です。広重(ひろしげ)の東海道(とうかいどう)ものは大体(だいたい)において、横型(よこがた)の風景画(ふうけいが)が多(おお)いなかで、竪(たて)型(がた)物(ぶつ)もいくつかあります。この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿(やど)が鳥瞰図(ちょうかんず)で描(えが)かれ、町並(まちな)み等(とう)に遠近法(えんきんほう)を用(もち)い、横(よこ)判(ばん)では見(み)られない雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。
五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 九(く) 大磯(おおいそ) 鴫(しぎ)立沢(たつざわ)西行(さいぎょう)庵(あん)(竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))