Fujisawa Net Museum

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(かさ)()()(なら)んだ五人男(ごにんおとこ)(えが)かれます。本作(ほんさく)(えが)かれた場面(ばめん)では、一人一人(ひとりひとり)台詞(せりふ)にのせ、自分(じぶん)来歴(らいれき)(かた)るのが見所(みどころ)です。着物(きもの)(がら)については作品番号(さくひんばんごう)51と忠信利平(ただのぶりへい)南郷力丸(なんごうりきまる)(おな)じですが、(こと)なるものも()られます。日本左右衛門(にっぽんざえもん)方位磁石(ほういじしゃく)(つな)(えが)かれ、五人男(ごにんおとこ)首領(しゅりょう)として舵取(かじとり)(やく)であったことにちなみます。弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)(きく)(はな)と、()(しま)弁才天(べんさいてん)眷属(けんぞく)である(へび)(はい)されています。赤星(あかぼし)十三(じゅうざ)(さくら)(にわとり)で、(にわとり)()(がた)()げる(とり)であることから、()(ぼし)赤星(あかぼし))という関連(かんれん)()るものです。

題名(だいめい)不詳(ふしょう)(『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より白浪(しらなみ)()(にん)(おとこ)

製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)。
板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ))

(なが)旅路(たびじ)()て、行列(ぎょうれつ)(きょう)到着(とうちゃく)しました。
内裏(だいり)紫宸殿(ししんでん)で、将軍(しょうぐん)公家(くげ)正装(せいそう)である束帯姿(そくたいすがた)()にまとい、天皇(てんのう)拝謁(はいえつ)している場面(ばめん)(えが)かれています。

文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)上洛(じょうらく)意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と()われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)姿(すがた)大名行列(だいみょうぎょうれつ)(えが)かれています。
東海道(とうかいどう)宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)名所(めいしょ)()()げているため、150(まい)()える膨大(ぼうだい)(そろ)(ぶつ)となっています。
(えが)いている絵師(えし)三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)当時(とうじ)()れっ()絵師(えし)分担(ぶんたん)して(えが)いています。

東海道之内京都参内(上洛東海道)

東海(とうかい)道之(どうの)(うち)京都(きょうと)参内(さんだい)()上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう)


製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)。
板元(はんもと)(しるし)なし

上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」シリーズの一枚(いちまい)です。由比ヶ浜(ゆいがはま)鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)一の鳥居(いちのとりい)(まえ)あたりから、稲村ヶ崎(いなむらがさき)腰越(こしごえ)()(しま)、さらには(とお)箱根山(はこねやま)二子岳(ふたごだけ)下田(しもだ)、そして富士(ふじ)までを(のぞ)景観(けいかん)地名(ちめい)(とも)(えが)かれており、鳥瞰的(ちょうかんてき)名所絵(めいしょえ)(ちょう)じた貞秀(さだひで)ならではの作品(さくひん)です。
また、中央(ちゅうおう)には画面(がめん)二分(にぶん)するように(まつ)()(えが)かれるといった、斬新(ざんしん)構成(こうせい)()られます。波打(なみう)(ぎわ)()っているのが将軍家茂(しょうぐんいえもち)(おも)われますが、実際(じっさい)家茂(いえもち)がこの場所(ばしょ)()つことはなく、40(ばん)作品(さくひん)同様(どうよう)源頼朝(みなもとのよりとも)仮託(かたく)して(えが)かれたものと(かんが)えられています。

文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)上洛(じょうらく)意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と()われているものの一枚(いちまい)です。由比ヶ浜(ゆいがはま)鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)一ノ鳥居(いちのとりい)(ぜん)あたりから、稲村ヶ崎(いなむらがさき)腰越(こしごえ)()(しま)、さらには(とお)箱根山(はこねやま)二子岳(ふたごだけ)下田(しもだ)、そして富士(ふじ)(のぞ)景観(けいかん)(えが)かれています。実際(じっさい)にこのように()えるかはともかく、鳥瞰図(ちょうかんず)一覧図(いちらんず)(ちょう)じた、貞秀(さだひで)ならではの作品(さくひん)といえましょう。また、画面(がめん)中央(ちゅうおう)()けるように(えが)かれた(まつ)(えだ)や、ふたつの大波(おおなみ)など、斬新(ざんしん)構図(こうず)(おも)いのままに(えが)いた初代広重(しょだいひろしげ)顔負(かおま)けの構成力(こうせいりょく)にも、貞秀(さだひで)絵師(えし)としての非凡(ひぼん)さが()()れます。
中央(ちゅうおう)下辺(かへん)()っているのが将軍家茂(しょうぐんいえもち)(おも)われますが、実際(じっさい)家茂(いえもち)がこの場所(ばしょ)()つことはありませんでした。源頼朝(みなもとのよりとも)仮託(かたく)して(えが)かれたものと(かんが)えられています。

東海道名所ノ内 由井ヶ浜

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)(うち) 由井ヶ(ゆいが)(はま)

製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)。板元(はんもと):伊勢屋兼吉(いせやかねきち)

文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)上洛(じょうらく)意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」シリーズの一枚(いちまい)で、二代国貞(にだいくにさだ)四代豊国(よんだいとよくに))と二代広重(にだいひろしげ)共筆作品(きょうひつさくひん)です。将軍(しょうぐん)()(しま)岩屋(いわや)(まえ)で、海女(あま)親子(おやこ)海中(かいちゅう)から(あわび)()ってくるようすを上覧(じょうらん)している場面(ばめん)でしょう。
ただし、実際(じっさい)家茂(いえもち)上洛(じょうらく)途中(とちゅう)()(しま)()った事実(じじつ)はなく、()(しま)にゆかりの源頼朝(みなもとのよりとも)仮託(かたく)したものと(かんが)えられます。
画面(がめん)中央(ちゅうおう)(なみ)(さかい)に、陸上(りくじょう)のようすを二代広重(にだいひろしげ)が、海中(かいちゅう)のようすを二代国貞(にだいくにさだ)(えが)いており、人物(じんぶつ)得意(とくい)二代国貞(にだいくにさだ)風景描写(ふうけいびょうしゃ)()けた広重(ひろしげ)が、それぞれの手腕(しゅわん)発揮(はっき)しています。

東海道名所之内 江之島

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)()(うち) 江之島(えのしま)

板元(はんもと):丸蔦(まるつた)

歌川派(うたがわは)(おお)くの浮世絵師(うきよえし)東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを(えが)いていますが、芳員(よしかず)(えが)いたこのシリーズは、(かく)宿(しゅく)()にまつわる伝説(でんせつ)(いつ)()面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。
(ぜん)(ぱん)(てき)(よこ)(しょう)(ばん)()(なか)にはユーモラスな()(がら)(おお)いとも()われます。

この藤沢(ふじさわ)場面(ばめん)は、(さむらい)(うま)囲碁(いご)()っているもので、藤沢(ふじさわ)ゆかりの「小栗判官(おぐりはんがん)照手姫(てるてひめ)伝説(でんせつ)」に登場(とうじょう)する、「鬼鹿毛(おにかげ)乗馬(じょうば)(だん)」を暗示(あんじ)しています。
すなわち、(さむらい)小栗判官(おぐりはんがん)(うま)鬼鹿毛(おにかげ)(よこ)()ている女性(じょせい)照手(てるて)(ひめ)というわけです。鬼鹿毛(おにかげ)(くつわ)(しるし)浴衣(ゆかた)()ているのもご(あい)(きょう)といったところです。

東海道五十三次内 藤沢 ひらつかへ二り余

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち) 藤沢(ふじさわ) ひらつかへ()()



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