Fujisawa Net Museum

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製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。
板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ))

背景(はいけい)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)日本橋(にほんばし) 朝之景(あさのかげ)」の構図(こうず)(もち)いています。
広重(ひろしげ)作品(さくひん)では(はし)(うえ)大名行列(だいみょうぎょうれつ)出立風景(しゅったつふうけい)(えが)かれますが、本作(ほんさく)では(はし)(うえ)()満載(まんさい)した大八車(だいはちぐるま)(はし)手前(てまえ)天秤棒(てんびんぼう)(かつ)いだ棒手振(ぼてふ)りが(えが)かれるなど、庶民(しょみん)通交風景(つうこうふうけい)となっています。

また画面(がめん)左上(ひだりうえ)には富士山(ふじさん)()(くわ)えられ、正月(しょうがつ)風情(ふぜい)でしょうか、(なら)ぶように(たこ)()がっています。手前(てまえ)女性(じょせい)()(そで)(がら)大輪(たいりん)(うめ)で、正月(しょうがつ)にふさわしいものとなっています。板元(はんもと)森屋治兵衛(もりやじへえ)

国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)前名(まえな))(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)()姿(すがた)美人(びじん)(えが)いたもので、(ぜん)シリーズを(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)非常(ひじょう)によく()ています。

東海道五拾三次之内 日本橋之図

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち) 日本橋(にほんばし)()()

制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい)落款(らっかん)なし

喜多川(きたがわ)歌政(かせい)(さく)(つた)えられます。紙本(しほん)著色(ちょしょく)六曲(ろっきょく)一隻(いっせき)屏風(びょうぶ)で、金地(きんじ)六曲(ろくきょく)屏風(びょうぶ)七里ガ浜(しちりがはま)から()()(しま)(えが)き、左方(さかた)には房総半島(ぼうそうはんとう)もかすかに()えます。
()(しま)とそれに()(えが)いて(つづ)七里ガ浜(しちりがはま)丘陵(きゅうりょう)は、南画(なんが)(ふう)描法(びょうほう)(かん)じられます。七里ガ浜(しちりがはま)()参詣(さんけい)(にん)男女(だんじょ)浮世絵(うきよえ)(ふう)、やや人物(じんぶつ)背景(はいけい)のバランスがくずれ、画面(がめん)(ひろ)さを十分(じゅうぶん)()かしきれないところがあります。

落款(らっかん)がなく、(でん)喜多川(きたがわ)歌政(かせい)となっていますが、初代(しょだい)歌政(かせい)作品(さくひん)というよりは二代(にだい)歌政(かせい)ではないかと(かんが)えられます。描法(びょうほう)などの比較(ひかく)研究(けんきゅう)必要(ひつよう)で、結論(けつろん)今後(こんご)研究(けんきゅう)(ゆだ)ねられます。

喜多川歌政 無題(七里ガ浜より見た江の島風景図)

題名(だいめい)不詳(ふしょう)七里ガ浜(しちりがはま)より()()(しま)風景(ふうけい)()

大判(おおばん)(よこ)1(まい) (たて)25.3 (よこ)36.3
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804~18)(ころ)板元(はんもと):「○に(はま)(しるし)
女性(じょせい)(うし)()()どもがその(うし)()いている姿(すがた)(えが)かれています。このように、砂浜(すなはま)(うし)()いて(ある)くという構図(こうず)国芳(くによし)広重(ひろしげ)など、()絵師(えし)作品(さくひん)にも(おお)()られる典型(てんけい)(てき)なものです。実際(じっさい)にも、()(しま)周辺(しゅうへん)ではこうした風習(ふうしゅう)はあったようで、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)(さく)滑稽(こっけい)()()嶋家(しまいえ)土産(みやげ)』の(ついで)に「(うし)にひかれて善行寺(ぜんぎょうじ)ならぬ岩本院(いわもといん)にあゆみをはこぶものおほしとかや」とあり、また、七里ガ浜(しちりがはま)(うし)()きが()()けていたという場面(ばめん)()てきます。浮世絵(うきよえ)では、(うし)()(きゃく)女性(じょせい)(うし)()きは()どもの姿(すがた)(えが)かれていますが、実際(じっさい)には男性客(だんせいきゃく)()り、(うし)()きは大人(おとな)であったようです。

二代喜多川歌麿 江之島の風景

江之島(えのしま)風景(ふうけい)



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