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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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制作(せいさく)時期(じき):安政(やすまさ)元年(がんねん)(1854)2月(にがつ)。 板元(はんもと):蔦(つた)吉(きち) これは「鎌倉(かまくら)七里(しちり)が浜(はま)風景(ふうけい)」と対(つい)で、蔦(つた)吉(きち)から出版(しゅっぱん)されたもので中(ちゅう)短冊(たんざく)です。 広重(ひろしげ)は相州(そうしゅう)一番(いちばん)の名所(めいしょ)である江(え)の島(しま)に度々(たびたび)訪(おとず)れて、多(おお)くの作品(さくひん)を残(のこ)しています。広重(ひろしげ)は「武(ぶ)相(そう)旅(たび)絵日記(えにっき)」のスケッチ旅行(りょこう)の際(さい)に江(え)の島(しま)の岩本楼(いわもとろう)に投宿(とうしゅく)し、同(どう)絵日記(えにっき)の第(だい)三(さん)十(じゅう)二(に)景(けい)に「同所(どうしょ)岩本楼(いわもとろう)上(うえ)」、三(さん)十(じゅう)三景(さんけい)に「おとなしく酒宴(しゅえん)」と、岩本楼(いわもとろう)での投宿(とうしゅく)の様子(ようす)を伝(つた)える2回(かい)を残(のこ)しています。 これは広重(ひろしげ)が江(え)の島(しま)を訪(おとず)れるごとに、好(この)んで泊(と)まった岩本楼(いわもとろう)の「富士見(ふじみ)の間(ま)」から描(えが)いた、富士(ふじ)の景(けい)と思(おも)われる一(いち)図(ず)です。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)眺望(ちょうぼう)
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)年間(ねんかん)(1844~48)頃(ころ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 他(ほか)に「諸国(しょこく)名所(めいしょ)拾(じつ)景(けい) 下総(しもふさ)利根川(とねがわ)」があり、これと同一(どういつ)のシリーズとすると板元(はんもと)は佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)、喜鶴(きづる)堂(どう)ということになります。これは小品(しょうひん)ですが、作例(さくれい)としても他(ほか)にあまり所蔵(しょぞう)されておらず、貴重(きちょう)なものです。
諸国(しょこく)名所(めいしょ)拾(じゅっ)景(けい) 相模(さがみ)江(え)ノ嶌(しま)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)~13年(ねん)(1840~1843)頃(ころ)。 板元(はんもと):増銀(ますぎん) 諸国(しょこく)勝景(しょうけい)シリーズには10点(じゅってん)あり、1「近江(おうみ)琵琶湖(びわこ)」、2「京師(けいし)嵐山(あらしやま)」、3「芸州(げいしゅう)厳島(いつくしま)」、4「下総(しもうさ)刀禰(とね)川(がわ)」、5「駿州(すんしゅう)三甫(みほ)浦(うら)」、6「勢州(せいしゅう)二見ヶ浦(ふたみがうら)」、7「相州(そうしゅう)七里ヶ濱(しちりがはま)」、8「東都(とうと)霞ヶ関(かすみがせき)」、9「播州(ばんしゅう)室(むろ)之(の)津(つ)」、10「武蔵(むさし)玉川(たまがわ)」です。広重(ひろしげ)はこうした小品(しょうひん)を沢山(たくさん)描(えが)いているのですが、風景(ふうけい)の代表作(だいひょうさく)には各種(かくしゅ)の東海道(とうかいどう)シリーズが有名(ゆうめい)で、その種類(しゅるい)は40を越(こ)えるといわれます。 中(なか)でも最(もっと)も著名(ちょめい)な保永堂版<(ほえいどうばん)の「東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」(天保(てんぽう)3・4年(ねん))俗(ぞく)に「行書(ぎょうしょ)東海道(とうかいどう)」と呼(よ)ばれる天保(てんぽう)末(まつ)頃(ごろ)の江崎屋(えさきや)版(ばん)のシリーズ。また嘉永(かなが)前期(ぜんき)の「隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう)」と呼(よ)ばれる丸清版(まるせいばん)などがあります。また他(ほか)にも「木曾(きそ)街道(かいどう)六拾九(ろくじゅうきゅう)次(つぎ)」、「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」などがあります。
諸国(しょこく)勝景(しょうけい) 相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)~13年(ねん)(1840~1843)頃(ころ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 横長(よこなが)16.8cm、竪長(たてなが)11.2cmという大変(たいへん)小(ちい)さな画面(がめん)に、七里ヶ浜(しちりがはま)から見(み)た江(え)の島(しま)の様子(ようす)が描(えが)かれます。このような小(ちい)さい浮世絵(うきよえ)は豆(まめ)判(ばん)と称(しょう)されますが、本作(ほんさく)は小奉書(こぼうしょ)(約(やく)47cm×約(やく)33cm)を八(やっ)ツ切(ぎ)りにしたサイズに近(ちか)いと考(かんが)えられます。 手前(てまえ)の切(き)り立(た)った岸壁(がんぺき)は小動岬(こゆるぎみさき)と思(おも)われ、上部(じょうぶ)に松(まつ)が描(えが)かれます。小動岬(こゆるぎみさき)の名称(めいしょう)は、その頂(いただき)に小動(こゆるぎ)の松(まつ)という、風(かぜ)もないのに揺(ゆ)れたと伝(つた)えられる松(まつ)に由来(ゆらい)します。 諸国(しょこく)名所(めいしょ)シリーズのうちの七里ガ浜(しちりがはま)の図(ず)で、前景(ぜんけい)に切(き)り立(た)った断崖(だんがい)を置(お)き、正面(しょうめん)中(ちゅう)景(けい)に海(うみ)に浮(う)かぶ江(え)の島(しま)を描(えが)き、遠景(えんけい)には富士山(ふじさん)と帆(ほ)かけ船(せん)を施(ほどこ)すなど、遠近(えんきん)感(かん)を表現(ひょうげん)するのに心憎(こころにく)いばかりの工夫(くふう)をこらしています。他(ほか)にこうした小品(しょうひん)に江(え)の島(しま)が関係(かんけい)するのは「諸国(しょこく)名産(めいさん)」(有田屋清右衛門(ありたやせいえもん)版(ばん))があり「相州(そうしゅう)江(え)の島(しま)産(さん)鮑(あわび)かす漬(づけ)細工(ざいく)」があります。そして更(さら)に小(ちい)さいその半分(はんぶん)の作品(さくひん)には、本朝(ほんちょう)名所(めいしょ)の縮図(しゅくず)である「諸国(しょこく)名所(めいしょ)相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)」があります。
諸国(しょこく)名所(めいしょ) 相州(そうしゅう)七里(しちりが)浜(はま)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)5年(ねん)(1834)頃(ころ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 「東海道(とうかいどう)之(の)内江(うちえ)ノ嶋路(しまじ)片瀬(かたせ)自(じ)七(しち)面(めん)山見(ざんみ)浜辺(はまべ)」とともに、東海道(とうかいどう)の脇(わき)路(みち)を描(えが)こうとしたものですが、脇(わき)路(みち)ということで発売(はつばい)しても人気(にんき)が薄(うす)かったのでしょうか、他(ほか)の図(ず)は出版(しゅっぱん)されていません。しかし他(た)の版下(はんした)が残(のこ)っていて新(あら)たに復刻(ふっこく)されています。これらの図(ず)には他(ほか)に例(れい)を見(み)ない脇(わき)路(ろ)を、画題(がだい)としてとり上(あ)げた広重(ひろしげ)の意欲(いよく)といったものが感(かん)じられます。 この作品(さくひん)のもっている空間(くうかん)の広(ひろ)がりは、他(ほか)の七里ガ浜(しちりがはま)を描(えが)いた浮世絵(うきよえ)よりも、また洋風(ようふう)表現(ひょうげん)によって描(えが)いたものをはるかに超越(ちょうえつ)しています。ここには富士山(ふじさん)も描(えが)かれておらず、江(え)の島(しま)も点景(てんけい)として存在(そんざい)するだけで、画題(がだい)のとおり七里ガ浜(しちりがはま)が中心(ちゅうしん)となっています。
東海道(とうかいどう)之(の)内江(うちえ)之(の)嶋路(しまじ)七里ヶ浜(しちりがはま)江(え)ノ嶋(しま)遠望(えんぼう)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)3年(ねん)(1832) 板元(はんもと):藤岡屋彦太郎(ふじおかやひこたろう) 松原(まつばら)堂(どう) 本朝(ほんちょう)名所(めいしょ)シリーズの15枚(まい)の揃(そろい)物(もの)の一(ひと)つです。これには一(いち)立(りつ)斎(とき)の落款(らっかん)があり、腰越(こしごえ)のあたりから見(み)た景色(けしき)のようで、前景(ぜんけい)としての右手(みぎて)の高(たか)い山(やま)と左手(ひだりて)の低(ひく)い山(やま)に囲(かこ)まれた間(ま)からわずかに見(み)える七里ガ浜(しちりがはま)の砂浜(すなはま)、駕籠(かご)かき、何(なに)かをねだる子(こ)どもらを描(えが)き、ちょうど正面(しょうめん)に海(うみ)に浮(う)かぶ江(え)の島(しま)を配置(はいち)して、左(ひだり)の白(しろ)い帆(ほ)と白(しろ)い富士山(ふじさん)を色彩(しきさい)的(てき)に対比(たいひ)させています。 浜(はま)に打(う)ち寄(よ)せる三角(さんかく)の大波(おおなみ)は、のちに広重(ひろしげ)の作品(さくひん)の特徴(とくちょう)のうちの一(ひと)つとなる典型(てんけい)的(てき)な例(れい)となるものです。
本朝(ほんちょう)名所(めいしょ) 相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)
制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)5年(ねん)(1858) 4月(がつ)頃(ごろ)。 板元(はんもと):蔦吉(つたきち) 広重(ひろしげ)の最(さい)晩年(ばんねん)に制作(せいさく)されたシリーズの一(ひと)つとして有名(ゆうめい)な作品(さくひん)です。冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)シリーズは三亭(さんてい)春馬(しゅんま)の目録(もくろく)付(づけ)で全部(ぜんぶ)で37部(ぶ)となり、江戸(えど)南伝馬町(みなみでんまちょう)の蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)から上梓(じょうし)されたもので、安政(あんせい)5年(ねん)4月(がつ)に改印(かいいん)を受(う)け翌年(よくねん)に刊行(かんこう)されています。広重(ひろしげ)の富士(ふじ)に取材(しゅざい)した揃(そろい)物(もの)は、嘉永(かえい)5年(ねん)12月(がつ)改印(かいいん)の「不二三十六景(ふじさんじゅうろっけい)」の揃(そろい)があるにすぎません。 そのどちらもあの有名(ゆうめい)な「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」の北斎(ほくさい)の死後(しご)に刊行(かんこう)されていることは、彼(かれ)が北斎(ほくさい)に敬意(けいい)を表(あらわ)し、また遠慮(えんりょ)したようにも思(おも)えます。 この画面(がめん)は江(え)の島(しま)と富士(ふじ)、七里ガ浜(しちりがはま)を望(のぞ)む袖ヶ浦(そでがうら)あたりです。手前(てまえ)に描(えが)かれている茶屋(ちゃや)は「出口(でぐち)の茶屋(ちゃや)」と呼(よ)ばれ、天保(てんぽう)9年(ねん)頃(ごろ)の紀行文(きこうぶん)『冨士大山道中(ふじおおやまどうちゅう)雑記(ざっき)附(つき)江之嶋(えのしま)鎌倉(かまくら)』にも「袖ヶ浦(そでがうら)茶屋(ちゃや)有(あり)、此(この)所(ところ)にて鎌倉(かまくら)絵図(えず)并(ならびに)名所記(めいしょき)等(など)商(あきな)ふ茶屋(ちゃや)の婦人(ふじん)、絵図(えず)講釈(こうしゃく)を致(いた)す」と記(しる)されています。茶店(ちゃみせ)の軒先(のきさき)には「蔦吉(つたきち)」、「日本(にっぽん)はし」、「魚(さかな)可(か)し」などの札(さつ)が見(み)られます。
冨士(ふじ)三(さん)十(じゅう)六(ろっ)景(けい) 相模(さがみ)七(しち)里(り)か浜(はま)
制作(せいさく)時期(じき):天明(てんめい)5年(ねん)(1785)頃(ころ)。板元(はんもと):鶴屋喜右衛門(つるやきえもん) 春章(しゅんしょう)としては珍(めずら)しい風景画(ふうけいが)で、浮絵(うきえ)という遠近法(えんきんほう)を使用(しよう)しています。江(え)の島(しま)を中国(ちゅうごく)の神仙(しんせん)思想(しそう)にある蓬来島(ほうらいじま)に模(も)しており、右手(みぎて)に富士(ふじ)、上部(じょうぶ)には雲(くも)が朱(しゅ)で描(えが)かれて日(ひ)の出(で)を暗示(あんじ)し、いわゆるお目(め)出(で)たい作品(さくひん)となっています。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)ノ風景(ふうけい)腰越(こしごえ)ノ方(かた)ヨリ見(み)図(ず)