Fujisawa Net Museum

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角判(かくばん)摺物(すりもの)(たて)1(まい) (たて)21.0 (よこ)17.9
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)初期(しょき)板元(はんもと)(しるし)なし

 俎岩(まないたいわ)そのものは(えが)かず、()(しま)名物(めいぶつ)(あわび)と、()(もの)()(つく)った()れもの)に(はい)った(あわび)粕漬(かすづけ)(さけ)のしぼりかすで味付(あじつ)けする漬物(つけもの))でその土地(とち)表現(ひょうげん)されています。そして(あわび)(あいだ)には煙管(きせる)手前(てまえ)(あか)(もの)()()こす(さい)(もち)いる火打(ひう)(がね)(おも)われます。
煙管(きせる)(パイプ)の雁首(がんくび)()()し)といった金属(きんぞく)()(えが)いた箇所(かしょ)には効果的(こうかてき)銀泥(ぎんでい)(ほどこ)されており、また(あわび)付着(ふちゃく)している(ちい)さな(かい)空押(からお)し(Embos)がなされているなど、(こま)かい(ところ)まで()()んだつくりとなっています。

 江島記行(えのしまきこう)朱印(しゅいん)十六番(じゅうろくばん)(つづき)とあり、(すべ)て16(まい)発行(はっこう)されたと(おも)われますが、確認(かくにん)出来(でき)たのは14(まい)です。すなわち「高輪(たかなわ)ふり()し」「鮫州(さめず)」「大森(おおもり)」「蒲田(かまた)」「六郷(ろくごう)」「鶴見(つるみ)」「神奈川(かながわ)」「浜川(はまかわ)」「下宮(しものみや)」「上宮(かみのみや)」「本宮(ほんぐう)」「兒ヶ淵(ちごがふち)(稚児ヶ淵(ちごがふち))」「俎岩(まないたいわ)」「竜洞(りゅうどう)」です。いずれも、いくつかの狂歌(きょうか)挿入(そうにゅう)されています。この作品(さくひん)には俎岩(まないたいわ)そのものは(えが)かれていませんが、()(しま)名物(めいぶつ)(あわび)()(もの)(はい)ったその粕漬(かすづけ)、そして煙草(たばこ)(いれ)(おも)われるものが(えが)かれているだけです。しかし、この()はそこここに銀泥(ぎんでい)(ほどこ)されてきらぴやかな作品(さくひん)になっています。すなわち煙管(きせる)吸口(すいくち)雁金(かりがね)部分(ぶぶん)空摺(からず)りと銀泥(ぎんでい)、また(あわび)付着(ふちゃく)している(ちい)さな(かい)空押(からお)しがなされているのも、(こま)かい(ところ)まで神経(しんけい)()(とど)いていて興味深(きょうみぶか)いものです。

魚屋北溪 江島記行 俎岩

(えの)島記(しまき)(こう) (まないた)(いわ)

製作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)8(ねん)(ごろ)(1811)。
板元(はんもと):(きん)(じゅ)(どう)(伊勢屋利兵衛(いせやりへえ)) 『絵本(えほん)駅路(えきろの)(すず)』シリーズの(いち)(まい)

北斎(ほくさい)には数種類(すうしゅるい)東海道(とうかいどう)(そろ)いものがありますが、文化(ぶんか)9(ねん)(1812)まで東海道(とうかいどう)(たび)した記録(きろく)はなく、名所図会(めいしょずえ)(など)(もと)にして作画(さくが)したものと(おも)われます。北斎(ほくさい)東海道(とうかいどう)シリーズは風景(ふうけい)より人物(じんぶつ)中心(ちゅうしん)緻密(ちみつ)(えが)き「人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう)」という(かん)があります。

このシリーズは北斎(ほくさい)東海道(とうかいどう)ものでは(めずら)しく(ちゅう)(ばん)(おお)きく、画面(がめん)上部(じょうぶ)中央(ちゅうおう)(おお)きく横書(よこがき)された駅名(えきめい)()仮名(がな)がされ、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)(およ)(えき)(ばん)(たて)(ちい)さく()かれています。

()()(しま)富士(ふじ)背景(はいけい)浜辺(はまべ)()(うし)牛飼(うしかい)いの様子(ようす)ですが、実際(じっさい)七里ヶ浜(しちりがはま)では(うま)()わって(うし)による(ひと)輸送(ゆそう)(おこな)われていたようです。

東海道五十三次 七 藤沢

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) (なな) 藤沢(ふじさわ)

制作(せいさく)時期(じき):享和(きょうわ)年間(ねんかん)(1801~04)(ころ)
板元(はんもと)(しるし)なし

この作品(さくひん)摺物(すりもの)()ばれ、木版(もくはん)()りによる(くば)(もの)で、普通(ふつう)正月(しょうがつ)新作(しんさく)狂歌(きょうか)などを()()えて絵師(えし)依頼(いらい)して制作(せいさく)し、(くば)(ぶつ)として使用(しよう)したものをいいます。そしてそれが注文(ちゅうもん)(ひん)のため、普通(ふつう)一般(いっぱん)(やす)()られる浮世絵(うきよえ)とは(ちが)って、さまざまに工夫(くふう)をこらした金泥(きんでい)銀泥(ぎんでい)などを使用(しよう)した豪華(ごうか)なものが(おお)く、一般的(いっぱんてき)(おお)(もち)いられる(かたち)角判(かくばん)摺物(すりもの)といわれ、いわゆる色紙(しきし)(ばん)使用(しよう)します。

この摺物(すりもの)(かたち)は、おそらくこの(ばい)のものを(ふた)つに()って片方(かたほう)()(えが)き、他方(たほう)狂歌(きょうか)案内(あんない)文字(もじ)()れた形式(けいしき)で、これはその一方(いっぽう)作品(さくひん)であると(かんが)えられます。(したが)って(なに)目的(もくてき)使用(しよう)されたか(わか)りませんが、画面(がめん)右手(みぎて)従者(じゅうしゃ)(おも)われる着物(きもの)()に“荻江(おぎえ)”という文字(もじ)()えるところから、音楽(おんがく)(かみ)である()(しま)弁財天(べざいてん)参詣(さんけい)をする、当時(とうじ)流行(りゅうこう)の「荻江節(おぎえぶし)」の師匠(ししょう)(れん)(えが)いているので、それらと何等(なんら)かの関係(かんけい)があったと(おも)われます。

葛飾北斎 無題(七里ガ浜)

題名(だいめい)不詳(ふしょう)七里ガ浜(しちりがはま)

半切(はんせつ)(よこ)1(まい) (たて)13.6 (よこ)17.3
制作(せいさく)時期(じき):寛政(かんせい)(1789~1801)(すえ)(ごろ)板元(はんもと)(しるし)なし

本作(ほんさく)では水平線(すいへいせん)がやや(ひく)く、(そら)(ひろ)(えが)かれています。北斎(ほくさい)はこのような洋風(ようふう)表現(ひょうげん)(もち)いた風景画(ふうけいが)複数(ふくすう)(えが)いていており、人物(じんぶつ)(くろ)いシルエットで表現(ひょうげん)されているところなど(どう)版画(はんが)からの影響(えいきょう)色濃(いろこ)くうかがえます。
(なみ)(いただき)部分(ぶぶん)などに繊細(せんさい)空摺(からず)り(凹凸(おうとつ)(かたち)表現(ひょうげん)される()りの技巧(ぎこう))が(ほどこ)され、画面(がめん)(ふち)()りに模様(もよう)()られるなどの工夫(くふう)がみられます。画面(がめん)右手(みぎて)には横文字(よこもじ)(ふう)()れた書体(しょたい)で「ほくさいえかく(北斎(ほくさい)(えが)く)」と()かれています。

(つき)()成丈(なりたけ)狂歌(きょうか)()りで、「みさかなの(あわび)ささえをとる海士(あま)(みず)いらすにて(いわ)ふとそ(さけ)」となっています。北斎(ほくさい)洋風(ようふう)表現(ひょうげん)(かれ)(わか)修業(しゅうぎょう)時代(じだい)春朗(しゅんろう)(めい)(ころ)から顕著(けんちょ)()られ、その傾向(けいこう)生涯(しょうがい)にわたっています。その代表的(だいひょうてき)作品(さくひん)には「日本(にっぽん)境田(さかいだ)中見(なかみ)()()」や「羽田(はねだ)弁天(べんてん)()()」などがありますが、この()(しま)七里ガ浜(しちりがはま)(えが)いた()洋画(ようが)意識(いしき)しています。このことは画面(がめん)右手(みぎて)(うえ)横文字(よこもじ)(ふう)()れた書体(しょたい)でも(わか)りますし、また()のまわりを(がく)のように(ふち)どっていることでもそれがいえます。また正確(せいかく)遠近(えんきん)表現(ひょうげん)大胆(だいたん)なもののとらえ(かた)は、一種独特(いっしゅどくとく)雰囲気(ふんいき)をかもし()しています。そして七里ガ浜(しちりがはま)づたいに()(しま)三々五々(さんさんごご)(むか)人物(じんぶつ)が、すべて(かげ)として(えが)かれているのも(なに)暗示(あんじ)しているようで興味深(きょうみぶか)く、また(なみ)部分(ぶぶん)には空摺(からず)りも使用(しよう)されていて、きめの(こま)かい作品(さくひん)となっています。

葛飾北斎 無題(江の島風景)

題名(だいめい)不詳(ふしょう)()(しま)風景(ふうけい)

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1830~44)。
板元(はんもと):永寿(えいじゅ)(どう)

冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)北斎(ほくさい)最大(さいだい)傑作(けっさく)のシリーズもので、最初(さいしょ)刊行(かんこう)された36(まい)は「(おもて)」といわれ、のち好評(こうひょう)のため(ぞく)(かん)された10(まい)は「(うら)」と()ばれ、全部(ぜんぶ)で46(まい)発行(はっこう)されています。そのうちでも(さん)大傑作(だいけっさく)といわれるものは、(ぞく)赤富士(あかふじ)とよばれる「凱風快晴(がいふうかいせい)」、「山下白雨(さんかはくう)」、「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」です。
これら富士(ふじ)(えが)いた46(しゅ)(るい)作品(さくひん)は、それぞれに共通(きょうつう)する技法(ぎほう)によって(いく)つかに分類(ぶんるい)することが出来(でき)ますが、(おお)きく()けると伝統(でんとう)(てき)日本画(にほんが)影響(えいきょう)(つよ)いもの、中国(ちゅうごく)(かん)()(てき)要素(ようそ)のあるもの、さらに遠近法(えんきんほう)()()れた洋画(ようが)(てき)表現(ひょうげん)など(みっ)つに()けられます。
この()はそうしたもののうち(かん)()(てき)要素(ようそ)のまさったもので、その黄緑(きみどり)(いろ)(あわ)色調(しきちょう)は「相州箱根湖水(そうしゅうはこねこすい)」のそれを連想(れんそう)させます。そして一見(いっけん)地続(じつづ)きのように()え、()絵師(えし)表現(ひょうげん)(くら)べて、平坦(へいたん)()(しま)山水画(さんすいが)(おも)わせます。

葛飾北斎 冨嶽三十六景 相州江の嶌

()(がく)(さん)(じゅう)(ろっ)(けい) 相州(そうしゅう)()(しま)

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)5(ねん)(1834)(ころ)
板元(はんもと)(しるし)なし

本作(ほんさく)今回(こんかい)のテーマ からはずれますが、片瀬(かたせ)から()()(しま)(えが)いた風景(ふうけい)です。((ほん)シリーズは現在(げんざい)2(てん)のみ確認(かくにん)されています)構図(こうず)としては、()(しま)(たか)視点(してん)から()おろすように(とら)え、前景(ぜんけい)七面山(しちめんざん)(ちゅう)(けい)龍口寺(りゅうこうじ)門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)配置(はいち)し、正面(しょうめん)には(しお)()いた(みち)()(しま)(むか)人々(ひとびと)(てん)のように(えが)かれています。
片瀬(かたせ)()(しま)直面(ちょくめん)する陸地(りくち)部分(ぶぶん)ですが、このように画題(がだい)として()()げられるものはあまりなく、(めずら)しい図柄(ずがら)作品(さくひん)()えるでしょう。画題(がだい)にある七面山(しちめんざん)旅人(たびびと)休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)(やま)で、日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)裏山(うらやま)にあたります。

この作品(さくひん)はシリーズものとして出版(しゅっぱん)する予定(よてい)であったらしいのですが、2(かい)しか完成(かんせい)していません。もう(ひと)つは「東海道之内(とうかいどうのうち)江之嶋(えのしま)()七里ヶ浜(しちりがはま)()(しま)遠望(えんぼう)」です。画題(がだい)には片瀬(かたせ)とあり、片瀬(かたせ)()(しま)直面(ちょくめん)する陸地(りくち)部分(ぶぶん)ですから、()(しま)(えが)けば当然(とうぜん)その一部(いちぶ)浮世絵(うきよえ)()てきますが、このように画題(がだい)として()()げられるものは(すく)ないようです。そして七面山(しちめんざん)から()()であると画題(がだい)にあるとおり、構図(こうず)では旅人(たびびと)休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)(やま)部分(ぶぶん)がそれに該当(がいとう)します。

七面山(しちめんやま)日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)裏山(うらやま)で、龍口寺(りゅうこうじ)(いま)でも(ひろ)境内(けいだい)敷地(しきち)がありますが、日蓮(にちれん)ゆかりの()でもあります。図柄(ずがら)としても()浮世絵(うきよえ)とは(ちが)っていて、()(しま)(たか)視点(してん)から()おろすように(とら)え、前景(ぜんけい)七面山(しちめんざん)中景(ちゅうけい)龍口寺(りゅうこうじ)門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)配置(はいち)していて、ちょうど正面(しょうめん)には(しお)()いた(みち)()(しま)(むか)人々(ひとびと)(てん)のように(えが)かれています。

歌川広重 東海道之内江之嶋路片瀬自七面山見浜辺

東海道(とうかいどう)()内江(うちえ)()嶋路(しまみち)片瀬(かたせ)(しち)(めん)(ざん)山見(よりはま)浜辺(べをみる)



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